並河寒泉

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並河 寒泉(なみかわ かんせん、1797年6月25日寛政9年6月1日)- 1879年明治12年)2月6日)は、幕末から明治時代の儒学者である。名は朋来後に登茂樹、字は亨。別号に華翁等がある。通称は又一郎、復一。

経歴・人物[編集]

並河天民の孫、並河尚誠中井竹山の娘の子として摂津大坂(現在の大阪市)に生まれる。幼年期に両親と死別し、伯父に育てられる。1811年文化10年)に懐徳堂で儒学を学び、同時に中井抑楼の養子及び門人となり、姓も中井と改姓する。後に抑楼の子と結婚した後、並河姓に戻す。師匠の死後、後継者として明治維新による閉校まで懐徳堂で教鞭を執った。

また、1855年安政2年)にエフィム・プチャーチンロシア艦隊大阪湾に来航した際には、士官を務めたり、竹山が著した『逸史』を江戸幕府に奉納する等、政治関係の業務にも携わった。

1919年(大正8年)、正五位を追贈された[1]

主な著作物[編集]

  • 『拝恩志喜』
  • 『弁怪』

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.48

出典[編集]