マリア・アンパロ・ムニョス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリア・アンパロ
María Amparo
ムニョス家

称号 ビスタ・アレグレ女伯
出生 (1834-11-17) 1834年11月17日
スペインの旗 スペイン王国マドリード
死去 (1864-08-19) 1864年8月19日(29歳没)
フランスの旗 フランス帝国パリ
埋葬 ポーランド立憲王国、シェニャバ
配偶者 ヴワディスワフ・チャルトリスキ
子女 アウグスト
父親 アグスティン・フェルナンド・ムニョス
母親 マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン
テンプレートを表示

マリア・アンパロ・ムニョス・イ・ボルボンスペイン語: María Amparo Muñoz y Borbón, 1834年11月17日 - 1864年8月19日)は、スペイン女王イサベル2世の異父妹である貴族。

イザベル2世の母后で摂政を務めたマリア・クリスティーナ・デ・ボルボンと、その貴賤結婚の相手であるリアンサレス公爵アグスティン・フェルナンド・ムニョスとの間に生まれた娘でビスタ・アレグレ女伯condesa de Vista Alegre)。

生涯[編集]

スペイン王フェルナンド7世の4番目の妃マリア・クリスティーナは王妃として二人の王女をもうけ、夫が1833年9月に崩御すると上の娘をイサベル2世として即位させていた。しかし、その3か月後の1833年12月に自らの警護官と再婚した。マリア・アンパロはこの醜聞となった再婚での最初の子供として、翌1834年に生まれ、マリア・アンパロ・デ・ロス・デサンパラードスと名付けられた(María Amparo de los Desamparados)。

マリア・アンパロと夫チャルトリスキ公爵

彼女は1855年3月1日、亡命していたポーランドの大貴族ヴワディスワフ・チャルトリスキ公と結婚し、夫の一族チャルトリスキ家が根城としていたパリオテル・ランベールに居を構えた。

夫妻の間には1858年、一人息子アウグストが生まれた。しかしマリア・アンパロは結核に冒され、しかも運悪く幼い息子に移してしまった。

マリア・アンパロは治ることのないまま、1864年8月に29歳で没した。

子女[編集]

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、マリア・アンパロ・ムニョスに関するカテゴリがあります。