バルチュク・アルト・テギン

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バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin、生没年不詳)は、13世紀初頭の天山ウイグル王国の王(イディクート)[1]モンゴル帝国の周辺国家の中で最も早く帰順し、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンから「5番目の息子」と称されるほどの厚遇を受けたことで知られる。バルジャク・アルト・テギンとも表記する[2]

元史』などの漢文史料では巴而朮阿而忒的斤(bāérzhú āértè dejīn)、『集史』などのペルシア語史料ではبارجق(bārjūq)と記される。

生涯[編集]

天山ウイグル王国の君主ヨスン・テムル(月仙帖木児)の子として生まれる。

1125年頃以来、天山ウイグル王国は西遼(カラ・キタイ)の属国となっていたが、西遼皇帝は年若いバルチュクが新たな国王となるとこれを侮り、名宰相として名高いカラ・イカチ・ブイルク(哈剌亦哈赤北魯)をバルチュクのもとから引き離し、太師僧(西丹僧とも)の少監(シャウケム)を派遣してウイグル王国に圧政を敷いた。そこでバルチュクは国相のビルゲ・ブカの助言の下、当時勃興しつつあったモンゴル帝国を頼って西遼から離反することを決意した[3][4][5]

1209年の春、カラ・イカチ・ブイルクの娘婿アリンテムル・トトクと国相ビルゲ・ブカは共謀し、高昌(カラ・ホージャ)において少監を殺害、バルチュクはモンゴル帝国に使者を派遣して帰順の意を示した[6][7][4]。この報を聞いたチンギス・カンは以前にバルチュクがメルキト残党の亡命を拒否したことも知っていたため、バルチュクのふるまいに喜び、使者をもてなした。一方の西遼ではウイグル王国の態度に憤慨して責任者の出頭を命じたため、アリンテムル以下の重臣が謝罪のため西遼に出向することとなった。折しもナイマンの王子クチュルクが西遼の王位を簒奪する事件が起き、西遼の国政が動揺していたので、アリンテムルたちは難を逃れることができた[8][9]

1210年の夏、チンギス・カンはバルチュクの使者を帰国させるとともに、アルプ・ウトゥク(アドキラク)とダルバイを同伴させ、バルチュクの来訪を促した。1211年の春、バルチュクは自らチンギス・カンのもとに赴き、服属の誓いをするとともに、おびただしい貢納品を献上した[10][9]

その後のバルチュクはウイグル軍を自ら率いてチンギス・カンの遠征に随行し、1219年ホラズム・シャー朝攻略戦、1226年西夏攻略戦で功績をあげた。これに対しチンギス・カンはバルチュクに娘のアルトゥン・ベキ(アル・アルトゥン)を娶らせる約束をしたが、1227年にチンギス・カンが崩御してしまったため、結婚は延期となった。チンギス・カンの後を継いでモンゴル帝国第二代皇帝となったオゴデイはその縁談を果たそうとしたが、アルトゥン・ベキが死去してしまったため、自らの娘アラジン・ベキをバルチュクに娶らせようとした。しかし、アルトゥン・ベキの後を追うようにバルチュクも死去してしまったため結局果たすことはできなかった[11]

ウイグル王位(イディクート)はオゴデイ・カアンによってバルチュクの息子キシュマイン(ケスメズ)に継承された[11]

評価[編集]

周辺諸国の中で最も早く帰順を決めたバルチュクをチンギス・カンは高く評価し、自らの「5番目の息子」として遇したという。モンゴル帝国への帰順後、バルチュクはホラズム遠征・西夏遠征に従軍して功績を挙げ、モンゴル帝国における地位を確かなものとした。バルチュクの活躍によってモンゴル時代を通じてウイグル王家は駙馬王家の一つとして繁栄を続けることとなった[12]

天山ウイグル王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ イディクート(Īdï Qūt、亦都護)とは天山ウイグル王国の王号である。テュルク語でïdïqとは「神から贈られた」「至福の」「神聖な」という意味で、qūtとは「息」「魂」「生命」から転じて「幸福」「吉祥」という意味である。バルトールドによるとこの称号はバシュキル族の首長の名でそれを受け継いだものだという。<村上 1976,p84>
  2. ^ 『モンゴル帝国史1』
  3. ^ 安部1955,7-8頁
  4. ^ a b 村上1976,p84
  5. ^ 『モンゴル帝国史1』,p96
  6. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「哈剌亦哈赤北魯、畏兀人也。性聡敏、習事。国王月仙帖木児亦都護聞其名、自唆里迷国徴為断事官。月仙帖木児卒、子巴而朮阿而忒亦都護年幼、西遼主鞠児可汗遣使拠其国、且召哈剌亦哈赤北魯、至則以為諸子師。巴而朮阿而忒聞太祖明聖、乃殺西遼使、更遣阿隣帖木児都督等四人使西遼。阿隣帖木児都督者、哈剌亦哈赤北魯婿也」
  7. ^ 『元史』巻124列伝11岳璘帖穆爾伝,「岳璘帖穆爾、回鶻人、畏兀国相暾欲谷之裔也。其兄仳理伽普華、年十六、襲国相・答剌罕。時西契丹方強、威制畏兀、命太師僧少監来臨其国、驕恣用権、奢淫自奉。畏兀王患之、謀於仳理伽普華曰『計将安出』。対曰『能殺少監、挈吾衆帰大蒙古国、彼且震駭矣』。遂率衆囲少監、斬之」
  8. ^ 村上1976,p85
  9. ^ a b 『モンゴル帝国史1』,p97
  10. ^ 村上1976,p78,85
  11. ^ a b 『モンゴル帝国史2』,p291
  12. ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「巴而朮阿而忒的斤亦都護、亦都護者、高昌国主号也。……居是者凡百七十餘載,而至巴而朮阿而忒的斤、臣於契丹。歳己巳、聞太祖興朔方、遂殺契丹所置監国等官、欲来附。未行、帝遣使使其国。亦都護大喜、即遣使入奏曰『臣聞皇帝威徳、即棄契丹旧好、方将通誠、不自意天使降臨下国、自今而後、願率部衆為臣仆』。是時帝征大陽可汗、射其子脱脱殺之。脱脱之子火都・赤剌温・馬札児・禿薛干四人、以不能帰全屍、遂取其頭渉也児的石河、将奔亦都護、先遣使往、亦都護殺之。四人者至、与大戦於檐河。亦都護遣其国相来報、帝復遣使還諭亦都護、遂以金宝入貢。辛未、朝帝於怯緑連河、奏曰『陛下若恩顧臣、使臣得与陛下四子之末、庶幾竭其犬馬之力』。帝感其言、使尚公主也立安敦、且得序於諸子。与者必那演征罕勉力・鎖潭回回諸国、将部曲万人以先。紀律厳明、所向克捷。又従帝征你沙卜里、征河西、皆有大功。既卒、而次子玉古倫赤的斤嗣」

参考文献[編集]

  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 佐口透訳注 ドーソン『モンゴル帝国史 1』平凡社、1968年
  • 佐口透訳注 ドーソン『モンゴル帝国史 2』平凡社、1968年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 元史』巻122列伝9
  • 新元史』巻109列伝13
  • 蒙兀児史記』巻36列伝18
先代
ヨスン・テムル
天山ウイグル王国の国王
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次代
ケスメズ