ネウリン・テギン

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ネウリン・テギン(紐林的斤/Neülin tigin、生没年不詳)は、13世紀末から14世紀初頭にかけて活躍したモンゴル帝国ウイグル王国の王(イディクート[1]

生涯[編集]

ネウリン・テギンはモンゴル帝国に初めて臣従したバルチュク・アルト・テギンの五世孫に当たり、コチカル・テギンの息子として生まれた。コチカルの治世において、中央アジアではクビライのカアン即位に反発する勢力によって「カイドゥの乱」が引き起こされ、両勢力の中間に位置するウイグル王国は戦火に晒された。コチカル・テギンは幾度もカイドゥ軍の攻撃を受けて首都のビシュバリクを放棄せざるを得なくなり、遂にはカイドゥ軍との戦いの中で戦死した。

父の戦死によってネウリン・テギンは若くしてウイグル王国の君主(イディクート)となったが、この苦境に屈せずクビライにカイドゥ軍と戦って父の仇を討つための援軍を要請した。これを聞いたクビライはネウリン・テギンの心意気を称えて巨万の金幣を賜り、また第2代皇帝オゴデイの孫娘ブルガンを公主として与えた。後にブルガンが早世すると、その妹のバブシャを改めて公主として与えられた。

本領を失ったネウリン・テギンは現甘粛の永昌路に居住しており、西方のカイドゥ・ウルスとの戦いを希望していたが、1286年(至元23年)には南方のチベット方面で陣骨族による叛乱が起こった[2]。そのため、ネウリン・テギンは命を受けてチベット方面に駐屯し、現地の民に頼りにされたという[3]。一方、カイドゥ・ウルスは皇族のカイシャンを中心とする軍団の攻撃によって解体し、そのカイシャンが即位する(武宗クルク・カアン)と、ネウリン・テギンは召還されて改めてイディクートとしての地位を承認され、金印を与えられた。

その後、その弟のアユルバルワダ(仁宗ブヤント・カアン)が即位すると、ウイグル王家のかつての首都の名前に因む高昌王位を授けられ、またバブシャ公主が亡くなったため安西王マンガラの娘が新たに公主として与えられた。その後間もなく、ネウリン・テギンは1318年(延祐5年)に亡くなった。ネウリン・テギンにはバブシャから生まれたテムル・ブカ、ジャンギという息子がおり、その内テムル・ブカが跡を継いだ[4]

天山ウイグル王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ イディクート(Īdï Qūt、亦都護)とは天山ウイグル王国の王号である。テュルク語でïdïqとは「神から贈られた」「至福の」「神聖な」という意味で、qūtとは「息」「魂」「生命」から転じて「幸福」「吉祥」という意味である。バルトールドによるとこの称号はバシュキル族の首長の名でそれを受け継いだものだという。<村上 1976,p84>
  2. ^ 『元文類』巻41「[至元]二十三年、陣骨族六彪及其子合彪、結氊単族條竹族寇脱思麻路、敗之」
  3. ^ 安部1955,89-91頁
  4. ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「子紐林的斤、尚幼、詣闕請兵北征、以復父讎。帝壮其志、賜金幣巨万、妻以公主曰不魯罕、太宗之孫女也。公主薨、又尚其妹曰八卜叉。有旨師出河西、俟北征諸軍斉発、遂留永昌。会吐蕃脱思麻作乱、詔以栄禄大夫平章政事、領本部探馬等軍万人鎮吐蕃宣慰司。威徳明信、賊用斂跡、其民頼以安。武宗召還、嗣為亦都護、賜之金印、復署其部押西護司之官。仁宗始稽故実、封為高昌王、別以金印賜之、設王傅之官。其王印行諸内郡、亦都護印行諸畏兀児之境。八卜叉公主薨、復尚公主曰兀剌真、安西王之女也。領兵火州、復立畏兀児城池。延祐五年薨。子二人、長曰帖木児補化、次曰籛吉、皆八卜叉公主所生也」

参考文献[編集]

  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 元史』巻122列伝9
  • 新元史』巻109列伝13
  • 蒙兀児史記』巻36列伝18
先代
コチカル・テギン
天山ウイグル王国の国王
?年 - 1318年
次代
テムル・ブカ