ノート:谷村ひとし

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遠隔操作で強制的に大当たり?[編集]

「取材時に遠隔操作で強制的に大当たりを出しているとされている」という記述がありますが、これはいつ、どこで、誰が言ったことなのでしょうか。--Avanzare 2008年2月19日 (火) 05:21 (UTC)[返信]

客観的かつ論理的です[編集]

>>彼のオカルト理論(台には波がある的なオカルト話)は正しいか正しくないかという以前に、話の内容が支離滅裂である。 「パチンコは完全抽選、一発抽選である。同じ台で1000回粘ろうと、次々と10台打ち歩いて1000回転させようと、大当たりする確率はまったくかわりません。だったらウンともスンともいわない台にお金を投資し続けるよりも、演出の偏りから好調の波を読みながら台移動を繰り返した方が効果的と言えます。」(「財布に優しいパチンコ学 ~どうして女性はいつもドル箱を積んでいるのか?~」より) 「だったら」の前後が全く論理的に繋がっていない。 つまり彼は「台に波なんてないよ。だったら、波を読んで台移動を繰り返そう」と言っているのだ。デタラメな言説であることは論理的に明らかである。

↑この記述は客観的、かつ、論理的です。 削除する理由はありません。

Aquamarin456という者が、「個人的な意見」だという理由で、上記の記述を削除した。 しかし、「パチンコは完全抽選、一発抽選である。」ということは論理的に「演出の偏り」なんて無関係であり、「好調の波」なんていうものも存在しないことを意味する。論理的に意味するのだ。反論があるならしてみなさい。 「パチンコは完全抽選、一発抽選である。」ということは、全ての抽選が独立試行であり、前後の抽選結果が(もちろん前後の演出も)影響することは無いという意味だからである。 「パチンコには好調の波なんてない。だったら波を読みましょう」というのが間違っているという主張を、あなたは「個人的な意見」だと呼ぶのか? 「1+1=5」が間違っていると主張しても、あなたは「個人的な意見」だと呼ぶのか?

Wikipedia:存命人物の伝記をご確認下さい。批判的文面の場合は、特に丁寧に出典提示し、中立的記載をお願いいたします。そうでない場合は削除されます。--Los688 2011年2月10日 (木) 17:03 (UTC)[返信]

「財布に優しいパチンコ学 ~どうして女性はいつもドル箱を積んでいるのか?~」が出典だときちんと書いている。よく読みなさい。

「1+1=3」と主張している者を、間違ったことを言っていると指摘することは「中立的記載」に該当しないのか? 「パチンコは完全抽選、一発抽選である。」ということは論理的に「演出の偏り」なんて無関係であり、「好調の波」なんていうものも存在しないことを意味する。論理的に意味するのだ。 「パチンコは完全抽選、一発抽選である。」ということは、全ての抽選が独立試行であり、前後の抽選結果が(もちろん前後の演出も)影響することは無いという意味だからである。 これがわからなければ、高校数学の確率からやり直して下さい。 「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」という記述と全く同様に、論理的にデタラメなのだ。これは中立的指摘であり、個人の主観など入る余地は無い。 パチンコ台に好調・不調の波があるというオカルトを信仰するのは自由である。私は間違っていると思うが、それは思想・良心の自由の問題であって、干渉はしないでおく。 私がデタラメだと指摘しているのは、明らかに論理的に間違いである部分なのである。誤解なきよう。 反論がありますか?

Wikipediaでは「僕が考えた意見」というのはたとえそれがどんなに論理的であったとしても独自研究になりますので記載できません。自分の意見を主張したいのでしたら自身のブログなどでお願いします。--Aquamarin456 2011年2月11日 (金) 01:27 (UTC)[返信]

「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」という記述を論理的にデタラメだと言うのは、「僕が考えた」独自研究になるのですか? 「1+1=5」という記述を間違っていると指摘することも、「僕が考えた」独自研究になり、Wikipediaではしてはいけないのですか? ご回答お願いします。 もしこれらが許されるとするなら、私の指摘と何が違うのかを教えて下さい。 なお、私は「論理的」という言葉を狭義の意味で使っています。単に「筋の通った」意見という意味で使っているのではありません。「論理的に間違っている」というのは、「論理学的な演算の結果、間違いである」という意味です。「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」のような間違いのことです。或いは「人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。よって、ソクラテスは死なない。」のような間違いのことです。「僕の考え」、「個人的な意見」の介在する余地なく間違いであると断定できることです。これらが間違っているという指摘を、あたなは、「僕が考えた独自研究」と形容されるのですか?

上にも述べたように、「デタラメ」とうかいう批判をされる場合は「誰」が批判しているのか、「出典」を提示し、中立的表現にして下さい。このようなケースでは、Wikipedia:検証可能性に基づく、出典提示が重要です。真実性・論理性は、その次になります。「デタラメ」とうかいう批判をする『表現』をしているのがあなた自身であり、他の出典提示が無い場合、記載は困難です。--Los688 2011年2月11日 (金) 04:09 (UTC)[返信]

「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」。「人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。よって、ソクラテスは死なない。」「パチンコは完全抽選、一発抽選である。だったら好調の波を読もう。」 はいずれも論理的に「デタラメ」です。
①「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」という主張をデタラメだと記載するのに、出典提示が必要なのか?「1+1=5」がデタラメだという記載に、出典提示が必要なのか?
②「デタラメ」ではなく、「正しくない」或いは「間違っている」という表現に変更すれば記載は許されるのか?
回答して下さい。

恣意的な編集権の行使をしないように!

Wikipediaの手順と基準に則り、適切な出典があるのなら、「1+1=5」という掲載も可能です(ただし、手順と基準に則るうちに出典に疑義が出て、棄却されるでしょうが。)。「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。さらに、人物記事においては、法的リスクも懸念せねばなりません。こういうケースでは、人物に対して「正しくない」或いは「間違っている」という評価をした出典を特に求められます。ところで、Wikipedia:存命人物の伝記でお読みになり、理解されましたか。お読みにならず、理解されないのでありましたら、Wikipediaの手順と基準に則る意思が無いとして、編集をご遠慮頂かなくてはなりません。--Los688 2011年2月11日 (金) 07:01 (UTC)[返信]

よく考えてから返答するように。「1+1=5」という掲載も可能かどうかを聞いているのではありません。『「1+1=5」がデタラメだという記載』をすることに出典が必要なのですか?
①と②に回答して下さい。

人物評価に関連するなら、出典がいります。で、Wikipedia:存命人物の伝記をお読みになり、理解されましたか。--Los688 2011年2月11日 (金) 07:06 (UTC)[返信]

読んで理解しました。 ①と②に回答して下さい。 『「1+1=5」がデタラメだという記載』をすることに出典が必要なのですか?「1+1=5」がどこに書いてあるかの出典は勿論必要ですが、「1+1=5」がデタラメであるということを示す出典が必要なのですか?
必要だというなら小学校の数学の教科書なんかを挙げれば良いのですか?
独立試行が、前後の試行に影響されないということを記述するのに、高校の数学の教科書を提示しなくてはならないのですか?
あなたこそ、Wikipedia:存命人物の伝記を理解しているのですか?

A「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」
B「人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。よって、ソクラテスは死なない。」
C「パチンコは完全抽選、一発抽選である。だったら好調の波を読もう。」
これらが間違っている、デタラメな言説であるかどうかは検証可能です。その検証に出典は必要ありません。
「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」という観点から言って、この判断自体に関する出典は必要ないのです。

質問に対するまともな回答もせず、保護も解除しないというのは、恣意的な編集権の濫用と言わざるを得ません。 (『「1+1=5」という掲載も可能』などという、質問をろくに読みもしない頓珍漢な回答は、勿論不要ですが・・)

「例え話」でいうなら、評価に関連して上記が必要なら、出典が必要です。Wikipedia上において、出典は必要ないというのはありません。論点になっていないため、出典提示が省略されているケースはよくありますが、Wikipedia:存命人物の伝記にかかり評価にかかる論点で出典提示無しはありえません。あと、保護解除はWikipedia:保護解除依頼を通してください。私は現況で保護解除はいたしませんし、一時書き込まれました『デタラメな言説』という表現は方針違反かつクレームなどによる法的リスク面からも掲載は困難と考えます。--Los688 2011年2月11日 (金) 08:15 (UTC)[返信]


ある人物がその著書の中で「1+1=5」と記述しているので、
wikiに『「1+1=5」という間違ったことを書いている』と記載したい場合、
その引用元の著書名の他に、『「1+1=5」が間違いである』ということの根拠となる出典提示が必要
と、あなたは言っているわけですが、そのことを自覚していますか?


「例え話」と敢えて強調されていますが、
A「この図形は三角形である。だったら、頂点が4つあるはずだ。」
B「人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。だったら、ソクラテスは死なない。」
C「パチンコは完全抽選、一発抽選である。だったら好調の波を読もう。」
D「1+1=5である。」
これらがそれぞれ、間違っていることに、何か質的な違いがあるのですか?あれば教えて下さい。


「検証可能かどうか」という観点からは出典が不要である事柄(上記A~Dのような事柄)についても、
出典が必要だというのは、あなたの個人的な見解ではないですか?
上記A~Dのような事柄は論理学的演繹によって、間違いであることが自動的に証明できることです。
論点にならなければ出典が省略されて済まされているということですが、論点になりようがありません。
あなたが個人的に論点であると考えているのですか?
もし、どうしても出典を示せというなら、高校の教科書を挙げさせてもらいますが如何ですか?


「デタラメ」という表現がダメならば、「間違っている」と改めます。それで如何ですか?
「パチンコは完全抽選、一発抽選である。だったら好調の波を読もう。」という記述がデタラメであると記載することに、「法的リスク」があるとはとても思えませんが、改めさせて頂きます。
「間違っている」も、ちょっとまずいよという事であれば、「完全抽選、一発抽選であれば、前後の抽選結果に影響を受けないということであり、好調の波なんて存在しないことになる」という記載でも構いません。


あなたの論理的で真摯なご意見には、十分に耳を傾けようと存じております。
お互い、ウィキペディア充実の為にがんばりましょう。
では、回答をお待ちしております。(なお、質問の内容をよく読まずに回答されたり、質問の一部を恣意的に無視することはやめて頂きたく存じます。)

余計なお話には、お答えいたしません。人物の評価にかかる文には出典が必要。それが提示できなければ記載不可。--Los688 2011年2月12日 (土) 10:32 (UTC)[返信]

↑このコメントに対して
この「メモ」は議論をする場ではないのでしょうか? 強い編集権限を持つ管理者が(どんな基準で選ばれたか存じませんが)、こちらの意見・疑問・提案をろくに読みもせずに、「余計な話」だと一方的に断じて、
回答を拒否してしまうと困ってしまいます。
出典が必要だということは理解したと申しているのですが、きちんと読んでいますか?
①人物の記述の引用について、既にその出典は明らかにしております。
②その記述内容が矛盾していることが、義務教育過程や高校の教科書を読めば明らかであるようなことでも、
必要であるというなら教科書名を出典として明示致したいと存じます。
③「デタラメ」や「間違い」という表現は使わないことにします。改善致します。
例えば「教科書の○○○○○という記述と矛盾する」という表現などはどうでしょう。
お忙しいのかもしれませんが、逆上せずに真面目にお答え下さい。お願い致します。
--114.166.16.246 2011年2月15日 (火) 03:07 (UTC)[返信]

「谷村ひとしは○○の本『△△』において□□と述べたが、それに対し××は本『▲▲』において■■と批判した。」の形式が基本。出典として、××と▲▲が必要。そのような出典提示が無くば、Wikipedia:存命人物の伝記に伴う強い対応を取らざるを得ない。--Los688 2011年2月13日 (日) 11:26 (UTC)[返信]

↑「谷村ひとしは○○の本『△△』において□□と述べたが、本『▲▲』によれば■■である。」
という形式は良いですか?
例えば、
「谷村ひとしは○○の本『△△』において「1+1=5」と述べたが、『東京書籍 新しい算数1』によれば「1+1=2」である」--114.166.16.246 2011年2月15日 (火) 03:08 (UTC)[返信]

Wikipedia:存命人物の伝記のノートに、この件についての議題を追加しておきました。あなたの主張が、あなたの個人的な趣味によるものかを議論して頂きたいと思います。--114.166.16.246 2011年2月15日 (火) 03:17 (UTC)[返信]

このケースにおいてウィキペディアで受け入れられる文例[編集]
  • (コメント)存命人物の記事に対する批判的な記述は、特に注意深く扱う必要があります。そこで、ご理解をいただくため、たとえ話はいったん脇において、以下のような文章で書くことは出来るという文例を記しておきます。
<ここから>
谷村の著書”財布に優しいパチンコ学 ~どうして女性はいつもドル箱を積んでいるのか?~”の○○ページにある記述「パチンコは完全抽選、一発抽選である。同じ台で1000回粘ろうと、次々と10台打ち歩いて1000回転させようと、大当たりする確率はまったくかわりません。だったらウンともスンともいわない台にお金を投資し続けるよりも、演出の偏りから好調の波を読みながら台移動を繰り返した方が効果的と言えます。」という文章に対して、何とか評論家の××は雑誌ほげほげの何年何月何日号の何ページにおいて、「でたらめな言質であることは論理的に明らかである」と述べている。
<ここまで>

検証可能性を満たし、出典を明らかにし、中立的な観点で、存命人物に対する批判的な記述を書く際は、このような記述方法が必要になるでしょう。--海獺 2011年2月16日 (水) 15:27 (UTC)[返信]

お返事ありがとうございます。しかし、おっしゃっていることは既出のことです。 要するにあなた達管理者さんは、存命人物に対する批判的な記述は、他の誰かの記述を引用するという形式以外は罷りならんと言う事でしょ。端的に、そうはっきりとおっしゃれば良いのに。「検証可能性」だとか「中立的観点」とかゴチャゴチャ言うから、それをクリアーすれば、他の記述方法でも許されると思ったんですが、議論の余地は無いってことなんですよね。AMAZONの書評で言いたいことは書くことができたので、もう結構です。さようなら。

概ねご理解をいただけたことを感謝いたします。一点、誤解されていらっしゃる部分があるとすれば、「管理者が」ではなく、「ウィキペディアの方針でそのように決まっている」ので、"受け入れることが出来ない書き方"についてお話し、"受け入れられるとしたらこういう書き方になる"というお話なのです。編集をしていく上で議論になり、方針文書が示された場合は、ご熟読いただき理解していただかないことには、議論の共通認識すらもてません。「検証可能性」、「中立的観点」などの語句は、一番の近道としてのご案内です。ご理解いただければ幸いです。--海獺 2011年2月16日 (水) 17:05 (UTC)[返信]

存命人物に対する批判的な記述は、他の誰かの記述を引用するという形式以外は罷りならんと明確に決まっているんでしょうか?、「ウィキペディアの方針」としてそのように明確に書いてありますか? 論理的に矛盾しているという判断の根拠となるソースを挙げて、検証可能性を担保し、中立的観点から矛盾していることを指摘することが明確に禁止されていますか?少なくとも議論の余地はあるのではないですか?
何の出典もなく「○○が××と述べた」と記載したり、何の根拠も示さずに主観的に「間違っている」と記載することを禁する趣旨の「ウィキペディアの方針」を、特定の管理者様が拡大解釈しているという風にしか私には思えませんね。でも本当にもういいです。これで最後のコメントにします。--114.166.16.246 2011年2月17日 (木) 01:59 (UTC)[返信]

Wikipedia:存命人物の伝記に記されています。解釈の振幅はほとんどない形で書かれていますので、もう一度ご確認いただければ幸いです。文章の内容をご理解いただければ、先だっての私の文案のような書き方であれば受け入れられる余地があるということもご理解いただけると思います。
ウィキペディアは百科事典ですので、加筆した方(この場合114.166.16.246さん)の批評を記載する場所ではそもそもないのです。AMAZONで書評として批判的なことを書くこととは、根本的に役割も場所も理念も異なることをご理解ください。つまり114.166.16.246さんが当該人物や書籍の内容に対して批判的なことを書くことが目的ならば、それはウィキペディアで行うことではないのです。--海獺 2011年2月17日 (木) 02:24 (UTC)[返信]

批判的なことを書くこと自体が目的ではありません。
Wikipediaでは、論理的に矛盾した記述があるという客観的事実を記述したかっただけです。
どんな法律にさえ、解釈上の争いがあります。
私には拡大解釈だと思えますが、この点はもう権力者には逆らえませんね。
個人的には、「客観的・論理的な間違い」の記述についての一般的方針として、

Wikipedia:存命人物の伝記のノートで議論がされると良いなと期待しております。

最後だと言ったのにすみませんね。私の目的を曲解されたので、許して下さい。では。--114.166.16.246 2011年2月17日 (木) 03:10 (UTC)[返信]

ご自身で「どんな法律にさえ、解釈上の争いがあります」とお書きいただいているように、ウィキペディアでは「誰の解釈ではこうなる」あるいは「誰によって述べられた、論理的な間違いの指摘か」という併記をすることで、客観性と中立性が保たれるわけです。ご理解ください。--海獺 2011年2月17日 (木) 03:49 (UTC)[返信]

「法律の解釈」と「論理的に間違いかの判定」とは全く異なります。
論理的に間違っているか否かは、論理学的な演算の結果、自動的に客観的に判明します。
主観的であったり非中立的であることは、原理的にあり得ません。 論理学の初歩的なテキストでも良いので、是非お読み下さい。--114.166.16.246 2011年2月17日 (木) 04:04 (UTC)[返信]

本当に申し訳ないのですが、すごく基本的なことの確認をお願いします。ここではあなたが加筆したいと思った内容をウィキペディアで記載する上においてのお話をしているのです。すこし時間をかけて方針文書をお読みください。--海獺 2011年2月17日 (木) 04:09 (UTC)[返信]

はい、はい。じゃあ、頑張って下さい。--114.166.16.246 2011年2月17日 (木) 04:33 (UTC)[返信]