ノート:織田信雄

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出展希望[編集]

本文『人物』の欄に【近年の詳細な研究により、安土城の焼失は略奪目的で乱入した土民が原因と、ほぼ断定されている】とありますが、安土城の項では今のところ各論併記の状態です。どちらが正しいのでしょう? 上記研究の出展をお教えくださいませんでしょうか。--羽奈瀬蓮 2007年7月23日 (月) 02:10 (UTC)[返信]


私は読んだ事ないですが、「林家辰三郎著・日本の歴史12」という本の研究で「土民有力説」が説かれているそうです。ここからは個人的意見と推測ですが、安土城や本項目(織田信雄)の項目に補記した通り、明智秀満放火説は兼見卿記などの記録による出火日時と誤差がある点、信雄放火説は変直後は信雄は伊勢の領内にいて、伊勢から甲賀へ出陣したものの、途中で引き返しており、安土城まで到達していない事や、山崎の合戦で明智軍が大敗した後に、安土へ入城した信雄が放火する理由がない事などから否定されているのではないかと推測します。ただ、どちらにしろ誰がやったか?って断定は現在できないと思います。--ポテンシャル0 2009年10月14日 (水) 09:37 (UTC)[返信]

「三介殿のなさる事よ」について[編集]

2007年10月2日 (火) 11:27に加えられ、一度除去された後(若干表現を変え)復帰した本表現ですが、出典を探す中、司馬遼太郎の小説『新史太閤記』に同様の文章があるのを確認しました(新潮文庫版下巻〈令和5年1月25日103刷〉498頁。「殿」「事」はひらがな)。ただし、記事にあるような織田家中における言葉でなく、徳川家康の台詞として登場しています。

江戸時代以前の文献にその元となった表現がある可能性も考え国立国会図書館デジタルコレクションで検索しましたが、それらしいものは見つかっていません。

江戸期の文献等から広まった表現であれば、出典を付けたうえで記事に残すことも可能かと思いますが、現状小説のため生み出された言葉と考えられるため、本日再度除去しました。再び戻すことを考えられる方はその出典と共によろしくお願いします。--YasuminB会話2023年8月3日 (木) 10:02 (UTC)[返信]

おかしい文がある[編集]

織田信雄#関ヶ原で再び失領:~:text=いたが、-,常真は家康は名将であり,-、関ヶ原の折

の文が変です。--うぃーき会話2023年12月6日 (水) 06:06 (UTC)[返信]