ノート:突厥

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とっくつと読むのが正しいと世界史の窓にはあります。 私自身50年以上前に高校世界史で「とっくつ」と覚えております。漢字の部位から「とっけつ」と読む人が多いせいでしょうか?

情報源不明な編集について[編集]

220.104.200.215さんへ質問ですが、あなたの加筆した文章にはいくつかの疑問点があります。

  1. 導入部において - 「ジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ…」とありますが、これはどこの情報でしょうか?
  2. 起源の項において - 私の編集した文章は史書からの抜粋ですので、それほど手直す必要はないと思います(読みにくいのなら別ですが)。とくに「突厥とはおそらく匈奴の別種」を「突厥人は匈奴とは別の種族」と、ニュアンスが変わってしまうように改編するのはよくありません。ちなみに原文はこうです→「突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。別為部落。」
  3. 歴代君主の項において - これも私は史書をもとに編集しましたが、あなたの編集は何をもとに加筆されたのですか?

--トムル 2011年5月15日 (日) 06:43 (UTC)[返信]

  1. 突厥の現住地がジュンガル盆地北部~云々というのは『突厥与回紇史』にある記述で、根拠に挙げてる文献は『周書』宇文測伝だけですね、唐突な印象はありますけど専門書なので他に考古物なり地理的な特殊性なり何か根拠があるんでしょう、内実は判りませんが。それと、突厥直の言及ではないものの『回紇史』にも、漠南に居住した匈奴が強盛となって征服する以前から、暫時西丁零の部族がエニセイ河・鄂華河沿いを南下~アルタイ山・唐努山を越えてジュンガル盆地へ土着した事、また高車にも同様の傾向が見られた事が書かれてます。 ~トルファン北方の山麓云々に関しては、高車がトルファンを含めたタリム盆地北部を征服した事実からの類推みたいですね、加えてそれ以前の4世紀の段階で人口の急増が確認されてるようです。 柔然に強制移住させられた件は『勅勒与柔然』からの引用とあるだけなので何とも言えません。ジュンガル盆地に居住していたのが事実の場合、アルタイ山麓で強制労働させられたのだから、匈奴が丁零を北魏が高車を強制移住したのと同じケースなんだろう、とは思いますけど。
  2. あまり人の編集を弄りたくはないですが、誤訳してる部分と冗長な箇所は書き換えてます。「突厥人とは匈奴の別種」では原文のニュアンスと違う「匈奴と近縁の種族」に誤読する人もいる気がするので「突厥人は匈奴と別の種族」のが適切かなと。
  3. 史書の膨大な全文に目を通すのは勘弁なので『突厥与回紇史』をもとに編集しました。1年のズレは、年次を新暦準拠で書いてるので、蓋し旧暦新暦の差じゃないでしょうか。あと確かに1人2人在位年が大きく違う人も居ましたけど、史書は幾つもあるので何とも言えませんが、具体的にどの君主に関する記述で見解が食い違ってます?--220.104.200.215 2011年5月16日 (月) 10:11 (UTC)[返信]
  1. 私は『突厥与回紇史』や『勅勒与柔然』などに目を通していないので詳しくわかりませんが、「強制移住させられた」というのは聞いたことがありません。ただし、「鍛奴」であったことは史書に書いているので強制労働の可能性はあります。
  2. 「突厥者,蓋匈奴之別種」の訳は、「突厥人は匈奴と別の種族」ではなく、「突厥とは、おそらく匈奴の別種」で、むしろ「匈奴と近縁の種族」に近いです。私が載せているのは現在の見解ではなく、当時の見解が書いてある史書の抜粋・紹介です。当時の史家は突厥人が何者かがよくわからず、ちゃんと「蓋:おそらく」としています。史書が突厥や鉄勒や回紇などを匈奴の近縁の種族であるかのように記しているのは、かつて彼らの住地が匈奴の支配下であったため、その支配下の諸族すべてが匈奴となったからなのか、匈奴がやはりテュルク系で、本当に鉄勒や回紇が匈奴の後裔なのかは断言できませんが、ここは史書の記述通り「匈奴の別種」にすべきです。ちなみに「別種」は「異種」ではなく「○○から別れた種族」という意味になります。たしかにここは誤解を招くような記述なので、「史書ではこう書いているが、匈奴の支族であるかどうかは断言できない」とでも断っておくべきですね。
  3. 特に西突厥の君主表記ですが、私が知らない称号や名前が出てきたので、出所が気になっただけです。私は中国の出版物より史書の方を優先したいところですが、そうも言っていられないので、ここは保留にしておきます。ただ、新暦旧暦は関係ないと思いますが。
--トムル 2011年5月16日 (月) 15:12 (UTC)[返信]
  1. 出土物の量などから判断したとか、もしくは起源伝承をそのまま当て嵌めたかも?まあ、無いでしょうけど
  2. 微妙なニュアンスですが、匈奴の支族という意味では確実に使ってません。史書にも、丁零・高車・鉄勒はおそらく赤狄の末裔で匈奴と言葉はほぼ同じだが少し異なるとあるように、同種であっても異族なので、近縁だとニュアンスが少し違うような…
  3. 年を跨ぐ年末年始は年が前後する場合が出てくるので、1年ズレてるのはそれかなと思ったのですが。あと、1人か2人在位年数が10年前後違う当主が居るので、そこが気になってます。文献間に大きな差異があるのかなと--220.104.200.215 2011年5月16日 (月) 16:24 (UTC)[返信]

1.と3.に関しては出典があるので、脚注をいれていただければとりあえずいいことにします(ただし、編集した本人が参考資料に疑問を持つようであれば、それは書かない方がいいです)。2.に関してはとりあえずこのあたり→[1]を見ていただきたいです。--トムル 2011年5月17日 (火) 13:03 (UTC)[返信]

では、注釈入れときます。 
あと、どうこう突付いても仕方ないですが、上のサイトは色々と誤謬や誤りが散見されるような・・・これが朝鮮クオリティというヤツですか、うーん・・・--220.104.200.215 2011年5月17日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
ありがとうございます。ちなみにこれだけは言っておきますが、私は朝鮮びいきでも中国びいきでもないですし、できればどっちの情報も信じたくない派なので、あしからず。上記のサイトで言いたかったのは「○○之別種」の訳し方で、「○○とは別の種族」ではなく「○○の別種」ということです。「別種」については「古くに分かれた同種異族」でOKです。--トムル 2011年5月18日 (水) 09:33 (UTC)[返信]

「別種」について[編集]

中国史書でよく見かける「○○の別種」という表現について、朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』(東方書店、1996年)には○○に属すが○○人ではない別民族と書いています。つまり、高句麗国に属す粟末靺鞨人は、高句麗国民ではあるが、高句麗人ではなく、別民族の靺鞨人であると書いています。これを「突厥は匈奴の別種」にあてはめると、かつて匈奴単于国に属していた勅勒人は匈奴国民ではあったものの、匈奴人ではなく、勅勒人という別民族となり、「○○の別種」は「○○に属していた別種族」となります。この書にはこのように書いてありますが、他にも説がありそうなので、見つけ次第載せたいと思います。--トムル 2011年8月3日 (水) 07:29 (UTC)[返信]

222.230.67.103氏へ[編集]

  1. そろそろ書き方を覚えてください。
    • 出典を明記してください(何度も言っています)。
    • 「現在」と書きたい場合は「○○年現在」と書いてください。
    • 言葉を濁さないでください(何度も言っています)。
  2. 突厥に関係のない文を書かないでください。
    • 『北史』では赤狄の末裔と記され、特に西丁零の習俗がよく合致し、匈奴とは言語がやや異なる。」の文が意味が不明です。「『北史』では赤狄の末裔と記され、匈奴とは言語がやや異なる。」は『北史』列伝第八十六高車伝の文章ですが、この記事は高車ではなく、突厥です。そしてこの文章の中間に「特に西丁零の習俗がよく合致し、」の文を挟んでいますが、この文章自体出典不明ですし、西丁零の習俗とはどういったものなのでしょうか(少なくとも中国史書には見当たりません。)?出典がないので、信憑性がありません。
    • 南北朝時代には高車(こうしゃ)と呼ばれた集団がこれに当たり、狼祖伝説などが共通している、突厥は鉄勒(てつろく)と呼ばれた集団の一部を成した。」の文ですが、「南北朝時代には高車(こうしゃ)と呼ばれた集団がこれに当たり」これも出典不明です。突厥が高車であったことは広く知られていません。これも出典がなければならない部分です。「狼祖伝説などが共通している、」これはくっ付けただけでしょうか?「る、」ではなく「る。」ではないでしょうか?「突厥は鉄勒(てつろく)と呼ばれた集団の一部を成した。」これも出典が必要です。逆の「鉄勒は突厥と呼ばれた集団の一部を成した。」ならわかりますが、意味が不明です。
    • 後年の『トニュクク碑文』には「九姓ウイグルは我々の同族である」と刻まれている。」の文ですが、九姓ウイグル(=回鶻=鉄勒)が突厥の同族(テュルク系民族)であっても、この起源の項に書くべきことではありません。

以上です。--トムル会話2012年7月13日 (金) 13:46 (UTC)[返信]

追記。「後年の『トニュクク碑文』には「九姓ウイグルは我々の同族である」と刻まれている。」の文ですが、やはり『トニュクク碑文』に「九姓ウイグルは我々の同族である」という文は見当たりません。どういうことでしょうか?--トムル会話2012年7月19日 (木) 09:47 (UTC)[返信]

『トニュクク碑文』の最終行に、突厥のビルゲ可汗は突厥の民とオグズの民を養い育てた、という文章がありますが、意味は解りますよね?トムルさんが購入した『突厥与回紇史』から抜粋した文は、おそらくその一文を解釈したものなのでしょう。--112.139.52.83 2012年7月19日 (木) 21:23 (UTC)[返信]
すいません。何言ってるかがわからないのですが。つまり、『トニュクク碑文』に「九姓ウイグルは我々の同族である」という文はありませんでした。ということでしょうか?あと、私は『突厥与回紇史』を購入していませんし、そこから文を抜粋した覚えもありません。話す相手を間違っていませんか?--トムル会話2012年7月20日 (金) 13:35 (UTC)[返信]
追記。自分の非を認めてくださったためか、出典を明記していただき、かつ「8世紀初頭に立てられた『トニュクク碑文』には「九姓ウイグルは我々の同胞である」と刻まれており、ウイグル部が突厥の中から興起した事が分かる」と加筆してくださりましたが、残念ながらここらへんの文章はおかしいことに変わりがなく、もう一度書き直していただくか、削除していただくしかありません。どこをどう直していいかわからないのであれば、丁寧にお教えいたします。
  1. まず、(突厥の)起源の項なので、突厥の起源に関係のない文章は要りません。あえて関係があるとすれば、「現在、突厥の起源は丁零(ていれい)や狄歴(てきれき)に遡ると考えられている。」のみでしょうか。あとは関係がありません。
    • どのように関係がないかを申しましょう。「『北史』では赤狄の末裔と記され、…匈奴とは言語がやや異なる。」上記で申しました通り、これは突厥ではなく、高車に関した文ですので関係ありません。
    • 特に西丁零の習俗がよく合致し、」これは楊聖敏『回紇史』(2008年、広西師範大学出版社)p12「后来的回纥部和九姓就出自东丁零。而阿史那氏突厥部和葛逻祿等部则出自西丁零。」が出典でしょうか?でもここでは突厥とカルルクが西丁零から出たというだけで、習俗までは言及していません。出典元が違いますか?
    • 狼祖伝説などが共通している」これはそもそも私が書いた文なので削除してもいいでしょうか?
    • 突厥は鉄勒(てつろく)と呼ばれた集団の一部を成した」ここには出典が明記されていますが、あまりにも意味不明ですので、抜粋文をお願いします。
  2. 8世紀初頭に立てられた『トニュクク碑文』には「九姓ウイグルは我々の同胞である」と刻まれており、ウイグル部が突厥の中から興起した事が分かる。」上記の通り、『トニュクク碑文』には「九姓ウイグルは我々の同胞である」という文がありませんし、「ウイグル部が突厥の中から興起した事が分かる」…だからなんでしょうか?ここは突厥の起源の項ですよ(回鶻と勘違いしてませんか)。あと、碑文は「立てる」ではなく「建てる」です。
自分が何の項に書いているか、その項に何と書くべきかをよく理解して執筆してください。--トムル会話2012年7月20日 (金) 15:08 (UTC)[返信]
枕流さんが何を主張するのも勝手ですが、アナタの持ち出した楊聖敏『回紇史』17Pに何と書いてあるか熟読した方がいいですね、併せて魏書高車伝と新唐書回鶻伝を読むとよいでしょう、頑迷牢固でない枕流さんならそれで自分の過ちに気付くことが出来ます。--59.86.119.13 2012年7月21日 (土) 19:39 (UTC)[返信]
そういうことではなく、質問に答え、後で誰が見てもいいよう、ちゃんとした説明をこのノートに履歴として残してください。--トムル会話2012年7月21日 (土) 22:25 (UTC)[返信]