ノート:矢野顕子

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信仰[編集]

信仰の記述について検証可能性を満たしてください。できないのであれば記述を控えてください。ギル 2007年10月15日 (月) 04:01 (UTC)[返信]

すいません、表現を変えて差し戻させていただきました。検証可能性と仰いますが、いちいち出典を記すのも面倒くさいくらい散見されるものについて、証明できなければ削除、というのも如何なものでしょうか。矢野について調べれば、知らない方が悪いくらいの話ですよ、これ。--Mt.Stone 2007年10月15日 (月) 04:09 (UTC)[返信]
検証可能性を読んでください。
3 情報源/ソース
3.1 出典を示す責任は掲載を希望する側に
独自の研究Wikipedia:削除の方針の「2.2.3 ケース B-2:プライバシー問題に関して 」も参照。
Wikipediaは閲覧者に調べることはを要求することはできません。ネット上にあるものには検証可能性の根拠にはなりません。
「自主公表された情報源」。ギル 2007年10月15日 (月) 04:15 (UTC)[返信]
Wikipedia:信頼できる情報源の「出所の不確かな素材」や「存命中の人物の伝記」や「特別な主張には特別な
証拠が求められる」を中心に読んでください。ギル 2007年10月15日 (月) 04:22 (UTC)[返信]


デマとして削除されてますが、デマであるならそのことを証明するべきです。できないのなら要出典タグくらいにとどめるのが筋ではないでしょうか。これでは「検証可能性」を振りかざした荒らしです。
再度申し上げますが、矢野のアルバム、著書には神への感謝と聖書を重視している旨の記述が繰り返されており、典拠は確実でありプライバシーの問題はありません。また、雑誌での記述もありますから(かつ、本人から抗議も訴訟も行われていませんから)これについても問題ありません。探して来いと言うなら探しますが、ご自分の無知を他人に尻拭いさせるような真似はご勘弁いただきたいものです。--Mt.Stone 2007年10月15日 (月) 04:25 (UTC)[返信]

検証可能性を読んでください。 3 情報源/ソース 3.1 出典を示す責任は掲載を希望する側に とありますが。これを無視して無知だの荒らしだのといわれも説得力がありません。 こちらの削除がWikipedia:荒らしのどこにあたりますか? 「荒らしではないもの」の 「大胆な編集 投稿者の多くは時折、記事を改良するために大幅な編集・改訂を試みる事があります。あなたが書いた文章の大部分が削除されたり、ノートページに移動されたり、または書き直されたりすると、荒らしのように感じるかもしれませんがそれは誤解です。ウィキペディアに投稿する場合には、原則として、投稿した記事を誰にでも改変されることをあなたは承諾しています。これらを荒らしと混同しないでください。 」であると考えますが。 あなたの主張はWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことの「9 独断で変革を試みること」 に該当します。見る限り初心者であるどころか長期にわたり利用されているようですから知らなかったは認めません。検証可能性は公式の方針ですよ。ギル 2007年10月15日 (月) 04:33 (UTC)[返信]

WP:3RRには明確に違反していらっしゃいますね。3回目は要約欄に理由を未記載ですから荒らし行為と解釈されても仕方ありませんね。またWP:3RRに提示されている例外にもあたりません。片っ端からルールをコピペしているようだから、知らないとは言わせませんよ。
とりあえず、こちらが示した典拠には反論がないようですから、探してきますね。それでいいんでしょ。それから、今後貴方の執筆に対して典拠不明なものは差し戻させていただきますので、出典の明示をお忘れなきよう。最近は、執筆者の会話にルールの貼付で反応するボットでもあるんですか。いやもちろん皮肉ですけど。--Mt.Stone 2007年10月15日 (月) 05:22 (UTC)[返信]
こういう編集もされているようですね。
成宮寛貴の本名削除間違いに気付いて自己差戻し
ボットが機械的に削除したのでしょうが、管理はきちんと行っていただきたいものです。--Mt.Stone 2007年10月15日 (月) 05:28 (UTC)[返信]


個人的はあまり議論には参加したくないので最小限に留めますが、アッコちゃん本人が組織名を挙げて認めてますよ。たしか月刊カドカワで連載していた新聞だったと思いますが。以前は信仰について書かれた記事がなかったので私も個人的に書く必要を感じませんでしたが、どなたかがお書きになったので、本人がそうやって認めているのだから別に問題はないと判断し手を加えたんですけど…。--Boca samba 2007年10月15日 (月) 05:32 (UTC)[返信]
確か、読者の質問に「はい、エホバの証人です」って答えてたのがあったんじゃないかと…。実家の倉庫に行けばわかるんだが。--Mt.Stone 2007年10月15日 (月) 05:35 (UTC)[返信]

手元の出勤前5分で調べられる資料から当該の記述を復帰しました。だから、いきなり削除するなと言ってるのに。だいたい、ギル氏は検証可能性の3.1節を突きつけて挙証を求めてますが、同時にいきなり削除しないように求める一文も書かれている点についてどう思ってるのでしょう。ちょっと問題行動のように思いますので氏の会話ページでいくつか質問させていただきます。誠意ある態度を望むものです。--Mt.Stone 2007年10月16日 (火) 02:57 (UTC)[返信]

すでに会話ページの自警行為に関する質問で反論しました。現在は出典が明記され検証可能性を満たしているために問題ないと思います。ギル 2007年10月26日 (金) 09:56 (UTC)[返信]

「規約を示してください」が「反論」だそうです。無知の尻拭いを他人に押し付けた挙句、言うに事欠いて議論相手を変革者よばわりするなど、暴走してるってことを少しは自覚していただきたいものです。--Mt.Stone 2007年10月26日 (金) 13:59 (UTC)[返信]

ギルさんが納得されて議論が収束した後からこんなことを言うのもなんですが、「信仰心は篤い」を直接裏付ける記述がアルバムのブックレットの中に本当にあるのでしょうか?Wikipediaの編集者が「謝辞」を読んでそのように判断したということであれば、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触している可能性が高いと思います。(問題になるのは「記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです」のところです。)

私自身は自分でブックレットを取り寄せて調べる意欲も能力もないので、ここでは問題点の指摘に留めます。問題のブックレットをお持ちの方は、記事の表現が本当に妥当かどうか、再度検討していただけるとありがたいです。(例えば、「本当に信仰心が篤い人は、信仰を心の中に秘めて、人に言ったりはしないものだ」という信念の人がブックレットを読んでも、そのブックレットの記述から「信仰心は篤い」を読み取れるかどうか、考えてみてください。)--Dwy 2008年1月7日 (月) 04:33 (UTC)[返信]

上記の繰り返しですが、矢野のアルバムを見れば謝辞が書いてあるのは一目瞭然ですので、謝辞を書いている事実の指摘にとどめたらどうかというご提案としては受け止める余地があろうかと思います。しかし私はアルバム名まで示していますので、レンタルCD店の中にはブックレットを立ち読みできるところもありますので、疑問があればご自身で確認されるのが適切であろうと愚考いたしますが、いかがですか。また特定の信念がある方が読んでもそう思うかというご質問ですが、中立的な方は説得できますが信念の強い方に対して説得を試みるのはお互いに無益であろうと思われます。できるのは、お互いが中立的な観点に注意することだけです。
また現状で見つかっていないため本文に反映させていませんが、聖書を重要視していることや、読者の質問に答えて教団の信者であることを言明している雑誌連載もありますので、現状でご提案の通りの記述に改めたとしても、出典を見つけた誰かがいずれ元通りにするでしょう。--Mt.Stone 2008年1月7日 (月) 06:58 (UTC)[返信]
本人が書いた「謝辞」を情報源として「信仰心は篤い」と書くのは、明らかにWikipedia:独自研究は載せないに違反しています。「聖書の写真と共に「我が家の基準です」と書く人の宗教心が篤いと記述すること」も、同様にダメです。上にも書きましたが、記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです。上記の例では、「宗教心が篤い」は「検証可能な内容」ではなく、MT.Stoneさんの「解釈」だと言わざるを得ません。「宗教心は篤い」を直接裏付ける出典が出せないなら、謝辞を書いている事実の指摘だけに留めてください。出典はあるはずだが、いますぐは出せないということなら、とりあえず記述を除去しておいて、出典が見つかった時点で、その出典の内容に厳密に準拠した記述(現在の記述内容とは異なるかもしれません)を再加筆すべきでしょう
ついでに言うと、MT.Stoneさんが言及されている「中立的な観点」についてのWikipediaの方針がこちらにあります。ごく簡単に言うと「事実を書け。意見は書くな」というルールです。たとえば、ある人の「宗教心の篤さ」のような問題については色々な意見があるのが普通でしょうから(その人の宗教心の篤さを全世界が一致して認めているといような例外的な事例は別として)、通常の場合は、「○○の宗教心は篤い」という「意見」ではなく、「××は、○○の宗教心は篤いと言っている」という「事実」を書くべきだということになると思います。
今問題になっている事例で言うと、矢野顕子さん自身が「謝辞」のなかで「私の宗教心は篤い」と言っているわけではないはずです。だから、もし書くとすると「MT.Stoneは、謝辞を読んで、矢野顕子の宗教心は篤いと思った」のようなことにならざるを得ません。これはダメですよね?やはり、「○○によれば、矢野顕子の宗教心は篤い」と書けるように、「謝辞」以外の情報源を見つけてくる必要があると思います。--Dwy 2008年1月10日 (木) 17:13 (UTC)[返信]
仰ることはわかりますので、とりあえず(私が)適切と思う表現に書き換えてみました。元々「宗教心は篤い」という表現は私が言い出しっぺではなかったと思いますが、先の編集合戦では問答無用で全否定となったのが問題と考えていまして、議論で表現を煮詰めるのは問題ないと考えています。--Mt.Stone 2008年1月11日 (金) 03:48 (UTC)[返信]

「帰依」は仏教に限定されているわけではありませんが、どちらかといえば仏教で頻繁に使われる用語、あるいは仏教でしか使われることがなくユダヤ・キリスト教系ではあまり使わない用語です(仏法僧帰依三宝など)ので、「信心」に変更させて頂きました。MT.Stoneさんには大変申し訳ないのですが、なにとぞご了承の程お願いいたします。--Boca samba 2008年1月11日 (金) 03:09 (UTC)[返信]

はいはい、こなれた言い方が思いつかなかったのでやりっ放したんですが(^^; 直していただいて感謝です。--Mt.Stone 2008年1月11日 (金) 03:48 (UTC)[返信]

オフィシャルファンクラブ the gathering[編集]

2005年1月から会員募集を開始したとの情報もありますが?[1]--Dwy 2008年1月25日 (金) 08:50 (UTC)[返信]

ごめんなさい。これじゃ何のことか分かりませんね。「略歴」の2004年のところの記載についての質問・コメントです。--Dwy 2008年1月25日 (金) 14:16 (UTC)[返信]