ノート:真希波・マリ・イラストリアス

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出典について[編集]

記事中において不用と思える出典の記載が多数見られます。

例: ヒロインのひとり[1]

「早く逃げちゃえばいいのに」と促した[2]

二人で手を取り合って駆けてゆくラストシーンとなった[3]

いずれも劇中において明らかにされていることであり、出典は不用に思えます。ラッター会話2021年7月20日 (火) 11:34 (UTC)[返信]

2つ目と3つ目については確かにわざわざ出典を付す必要はないですね(だからと言ってわざわざ出典を消す必要性も薄いとは思いますが)。しかし1つ目の「ヒロインのひとり」については出典が必要かと思います。なぜなら、「登場人物を"ヒロイン"と呼べる基準は何なのか」が映画本編の描写だけでは分からないからです。製作サイドが「マリはヒロインのひとりである」と意図していたという発言がもしもカラーの公式媒体の中にあるなら、それを出典として付すべきだと思います。そのような発言がない場合、批評家のコメントなどといった(信頼できる)二次情報の中で「マリはヒロインのひとりである」という解釈があれば、それを参考としているという意味で出典を付すべきだと思います。--Stepney-I.C.I.会話2021年7月20日 (火) 14:26 (UTC)[返信]
まず、ノートで新しい話題を始める際はH:NOTEに従い新しい節を作ってください。
Wikipedia:スタイルマニュアル/フィクション関連をちゃんと読まれましたか?プロジェクト:フィクション/登場人物と設定の記述も併せて確認したうえで議論をしてください。そもそも、映画が公開中であるうちはいいですが、終了した際にどうやってWikipedia:検証可能性を確保するのですか?
また「劇中において明らかにされていること」であっても、物語のあらすじそのものではなく人物を説明するときには執筆者の独自研究がはいるおそれがあり、そのときは出典が必要です。そもそも、作品中での活動を説明する部分は、現状でも「伝記のような形式で書かれた登場人物の記事あるいは節。」になってしまっている問題があります。それとラッターさんは、製作者でない批評家の意見だからという理由で記述を除去されましたが特別:差分/84601487ウィキペディアはファンサイトではありませんので、製作者の言い分だけに忖度するのでなく(といって現状その分の出典もろくについていませんが)、第三者的意見や世間での受容についても書く必要があります。
参考として、私がWikipedia:査読依頼/MIU404 20201227を提出したときは、査読者に出典のない記述は除去するようにと意見をもらいました。--Garakmiu3会話2021年7月20日 (火) 14:40 (UTC)[返信]
別件で、特別:差分/84596599で要出典がついた部分ですが、私は最初に加筆したときに、定義の箇条書き1節全部についての出典という意味で『「キャラクターの造形」全体の出典』として付け、一文ごとの出典を省略しています。皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀でもこのような部分がありますが、査読依頼と良質な記事の審査を受けたときはとくに問題を指摘されませんでした。わかりにくいということであれば変えるほうがいいかもしれませんが。--Garakmiu3会話) 2021年7月20日 (火) 14:49 (UTC)修正。--Garakmiu3会話2021年7月20日 (火) 15:16 (UTC)[返信]
追記として、私個人は、現状wikipediaではフィクションの「あらすじ」については創作物そのものを一次情報として書くことが許されていると考えますが、キャラクターや設定などの説明にはいちいち出典が必要だと判断しています。そうでなければ人によって解釈が揺れる部分が確定的かのようにwikipediaを通じて流布したり、まさにファンサイト的なトリビアを野放図に書くだけの編集が増える一方だからです。--Garakmiu3会話2021年7月20日 (火) 15:05 (UTC)[返信]
私が要出典範囲を付けた箇所に関してリアクションを頂きましたので、本題とは外れますが反応させて頂きます。複数の文や節全体にひとつの脚注・出典がまたがる場合の対処法についてはWikipediaでは明確なガイドラインがなく、"Category:井戸端の話題/出典"の定番とも言える話題になっており(例:Wikipedia:井戸端/subj/出典がかかる範囲の明示方法についてWikipedia:井戸端/subj/出典の明記についてなど多数)、意見も人によって様々に分かれているのが現状です。このような状況である以上、査読依頼や良質な記事の審査であっても、査読者次第では指摘される場合もあれば指摘されない場合もあるはずです。
以上を踏まえた上で、私は「セクション全体に出典がまたがるのであれば、セクション冒頭でそのことを明記すべき。段落単位で出典がまたがるのであれば、各段落の末尾にrefタグを付けるべき」だと考えています(あくまで個人的見解です)。というのも、ある程度細かい範囲でrefタグを付けないと、どこからが出典のある文でどこからが出典のない検証不能な文なのかが分かりにくくなってしまい、読者の混乱を招きかねないからです。私自身がそのような場面に遭遇した場合は(私が書いたものではないのですが)RPL (プログラミング言語)#制御構造を個人的な手本にしていて、これに類する形式で説明を加えるようにしています。--Stepney-I.C.I.会話2021年7月20日 (火) 16:32 (UTC)[返信]
こちらの件は編集競合していったん手を引いたので後になりましたが、各文に出典をつける形にしようとしていました。お手数おかけしました。--Garakmiu3会話2021年7月21日 (水) 15:38 (UTC)[返信]
ご意見をいただきましてありがとうございます。まず「批評家の意見」については見直して除去する必要はなかったと判断したためこちらでは議題としていません。検証可能性についてご指摘をいただきましたが、「創作物自体」で検証できるものに対して、検証可能性を理由に出典を記載する必要はないかと思います。例えば『シン』についての記述であれば公開終了後から映像作品が発売されるまでの一時的な措置としてであればわかりますが、『破』『Q』についての記述には不要ではないでしょうか。
また「解釈が揺れる部分が確定的かのようにならないよう」とのご指摘ですが、「ヒロインのひとり[1]」というのは解釈であり、出典が必要という指摘に納得いたしました。しかし「早く逃げちゃえばいいのに」と促した[2]、二人で手を取り合って駆けてゆくラストシーンとなった[3]、については解釈とは言えません。作中のワンシーンをそのまま記述したものであり「創作物そのものが一次情報」ですので、出典を記載する必要はないと思います。シーンを記述したものに対して出典を記載するのは、それが解釈であるとの誤解を閲覧者に対して与えかねず、不適切ではないでしょうか。ラッター会話2021年7月20日 (火) 18:30 (UTC)[返信]
何も出典がついていなければ、「創作物そのものが一次情報」であるということがそもそも読者に判断できないのではないでしょうか。PJ:FILMPLOTというのがありますが、これはあくまで映画作品単独記事の話で、作品そのものが出典であることが自明であるからです。キャラクター説明をあらすじのように書くことが推奨されていないのはすでに説明したとおりです。
記事がそのような状態であることで、「ぼくの好きな○○ちゃんの萌える場面」のトリビアを「一次情報」だからと言い訳して際限なく書き綴り続ける人が多発した結果が、日本語版に山ほどあるろくに出典のないキャラクター記事の結果でしょう。
まして長大な物語になっていれば、最低限どの作品からのキャラクター行動の抜粋であるかは示したほうがいいはずです。実際、キャラクター記事唯一の良質な記事ジャバウォックでは、作品内での登場の様子は出典付きで示され、その中に解説書からの情報も併せて掲載されています。Charlotte (アニメ)は、作品記事ですが、あらすじも含め人物解説までほぼすべての行に出典がつけられています。--Garakmiu3会話2021年7月21日 (水) 14:50 (UTC)[返信]
何も出典がついていなければ「創作物そのものが一次情報」であり、出典がついていれば「創作物以外が一次情報である」と解釈するのが一般的ではないでしょうか。上記の部分に出典があることによりその判別がわかりにくくなってしまっています。
ジャバウォックの記事も参照させて頂きましたが、こちらは創作物そのものを一次情報とした記述にも出典が付けられていますが、出典を見れば作品そのもののどの部分が一次情報であるとわかるため、こういった形の出典であればよろしいと思います。しかしCharlotteの記事の場合、作品そのものが一次情報であるのか、それとも作中では明らかにされていない書誌媒体において明らかになった情報なのか、それとも解釈なのかといったことが判別できず、特に作品を見たことがない人間にとっては非常にわかりにくいものになってしまっていると感じました。ラッター会話2021年7月21日 (水) 16:30 (UTC)[返信]
「何も出典がついていなければ「創作物そのものが一次情報」であり、出典がついていれば「創作物以外が一次情報である」と解釈するのが一般的ではないでしょうか」とは思えません。いつの間にそんな暗黙の了解ができているのでしょうか。Wikipedia:リスクに関する免責事項などにも、内容の正確さは記事の参考文献をチェックして自己責任で判断しろ、というようなことは書いてありますが、そんな文言はありません。だいたい、誰でもなんでも書き込める仕組みだから嘘や荒らしが絶えなくて毎日困っているのがこのサイトなのに、出典もなにもない部分を、無条件で作品を正確に説明していると思え、ということになります。
ジャバウォックの記述が適切と思われるなら、そのように今後出典がついていけばいいと思います。ただCharlotteのほうは、Wikipedia:検証可能性といういちばん大事な方針をしっかり満たしていますし、WP:PSTSにあるように記事を書く上で一次資料だけに頼り切ってはいけないのです。--Garakmiu3会話2021年7月21日 (水) 17:50 (UTC)[返信]
まずこれまでの文章で使っていた「創作物そのものが一次情報」という表現がスタイルマニュアルにある一次情報(作品そのものを由来とする情報)と二次情報(外部に位置する情報)の分け方に則していなかったので、今後はスタイルマニュアルに則した表現に改めます。
重要なのは冒頭で例に出した「早く逃げちゃえばいいのに」と促した[2]、二人で手を取り合って駆けてゆくラストシーンとなった[3]、というのは一次情報であるということです。しかし現在出典とされているのは外部サイトであり二次情報です。つまり一次情報に基づく記述であるのに二次情報が出典とされているということであり、正確性を損なうものになってしまっています。これは「ウィキペディア5本の柱」である「すべての項目は、独自の研究を認めない方針に従う必要があり、正確となるよう努力しなければなりません」に反することになってしまいます。この点が一次情報の出典として作品そのものが記載されているジャバウォックの記事との決定的な違いであり、私が改めるべきだと主張する理由です。ラッター会話2021年7月22日 (木) 02:22 (UTC)[返信]
方針における「独自研究」(WP:NOR)とは、「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」、主にはWikipedia編集者が個人的な意見や政治的主張などを加筆しようとするのを戒めるためにあるもので、二次情報を「独自研究」とはいいません。--Garakmiu3会話2021年7月22日 (木) 19:09 (UTC)[返信]
独自研究だといっているのではありません。「正確となるよう努力しなければなりません」というのはあらゆる点においてのことです。一次情報に基づいた記述に二次情報を出典として記載するのは正確となる努力を怠っています。ラッター会話2021年7月22日 (木) 22:54 (UTC)[返信]

当議論についてコメント依頼を提出しました。--Garakmiu3会話2021年7月22日 (木) 03:01 (UTC)[返信]

「出典のない記述は一次情報由来である」という判断には流石に無理がある(まったく事実無根な情報と区別がつかない)と思いますが、かといって劇中からの記述が可能な限り二次情報に基づくべきとも思えません。一般に二次情報を元にするべきとされているのは一次情報に検証困難な誤りがある可能性などを含めているからです。キャラクタの心理等は別として画面やセリフを文字に起こしただけの記述(つまり「〜を表す」「〜のような」等の解釈を含まない)には検証困難な誤りは発生し得ません。従ってこれらの記述に限っては作品を出典として(もちろんどの作かも明記して)もよいと考えます。さらに、やや極端に話を進めればパンフレットや設定資料集も一次情報とみなせるわけで、これらに基づくものも可能な限り二次情報を参照するべきなのか考えを伺いたい(無論ガイドライン等で扱われているのなら当方の認識不足ですからそれを示していただければかまいません)。 それから、ネット記事の記述は適切な校正を経ていない可能性が比較的高く、さらに公式から直々に否定されるような「考察」もあるわけですから、むしろ二次情報こそ慎重に扱われるべきではないかとも思えます。-草薙水素会話2021年7月22日 (木) 03:29 (UTC)[返信]

何度も提示しておりますが、WP:WAFでは「公式ファンブック」のようなものは二次情報であるが「対象から十分に独立した二次資料ではありません」となっております。使うときに気を付ける必要があるということですが、キャラクターの設定などをそれらに基づいて書くことはできると思います。
ネット記事のほうですが、それもピンキリです。ニュースサイトで運営会社を明らかにしているものもあり、編集者による一定のフィルターはかかっていると考えられます。信頼できないのはいわゆる匿名のコタツ記事などで、今回つけた二次資料はいずれも評論の専門家が記名記事で書いたものや、公刊された書籍からの抜粋です。「公式から直々に否定されるような「考察」」というのは、たとえばモヨコ氏関係のあれとかだと思いますが、第三者的視点からみれば、そういう意見は公開以前からいろいろなところで散見されていて、別に突飛というものでもなく。岡田氏にしても、一応は名を成した人が、自分の名前と責任で、表現の自由のもとに発表してるわけですし、批評という文化を否定するのもおかしいし、公式の立場だけに立って検閲してもよいのか?というのもあります。正直なところ、私を含むWikipediaの有象無象が自分の勝手な解釈を書くより名のある人の評論のほうが「上」なんです。そこで公式が否定するのならそのことも書いたし、評論家による別の意見も添えて、「こういう論争があったよ」をフラットに書いてWP:NORを満たしているわけです。--Garakmiu3会話2021年7月22日 (木) 19:09 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。「一般に二次情報を元にするべきとされているのは」という部分ですが、これはたぶん二次情報ではなく、二次資料のことではないでしょうか。私も結構混同していましたが、「ウィキペディアの記事は、公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。」となっていますが、二次情報については「二次情報は記事に現実世界の観点を与えるのに必要かつ役立つかぎりにおいて過不足なく使用するのが適切です」となっています。一次情報で確認出来る情報は二次情報を参照する必要はないと思います。--ラッター会話2021年7月22日 (木) 23:15 (UTC)[返信]
誤用と散文でご迷惑おかけしていますが……要するに骨子は「100%信頼できる一次資料を基にした記述に二次資料の出典は必要か」ということです。信頼性に劣る出典をわざわざ付け足す必要はありますか? ネット記事云々についてもう少し触れてもいいですが議論が無駄に広がるのでここでは取り下げさせてください。WP:WAFの提示感謝致します。作品そのもの以外の全てが扱いの上では二次資料ということですね。Garakmiu3氏は公開が終了した後の検証可能性について上で指摘されていますが、ここを突くなら二次資料の検証可能性も失われているわけであって「○○家のAはBというシーンがあるとしている」以上の記述ができなくなると思います。-草薙水素会話2021年7月24日 (土) 12:33 (UTC)[返信]
「100%信頼できる一次資料」…そういうものがある、という前提がこちらにはありません。極論ですが、「100%信頼」を求めるというのは、宗教信者にとっての経典とかになってしまいませんか?Wikipedia:信頼できる情報源#情報源「一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、…」以下を見るに、Wikipediaという場所は、一次資料を適切に扱える訓練を受けたような人々(おそらくは人文系の大学・大学院卒業以上、あるいはその分野のベテランなどの専門家)ばかりが集まるとは考えにくく、個別のウィキペディアンの能力など信用に値しないという考えのもと、専門家など適切な訓練を受けた人々による二次資料を「上」に置いて、これを元にすることが求められていると思っています。
「信頼性に劣る出典をわざわざ付け足す必要はありますか?」とありますが、この記事において私が付けた出典に「信頼性に劣る」ものがあるのでしたら、どれがそれにあたるのかご提示ください。全般論として「二次資料」が「100%信頼できる一次資料」より劣るとおっしゃるのなら、上記で説明したとおりです。
現実に記事を書く際には、あらすじ部分のように一次資料を基にする部分があっても構わないですが、方針が求める二次資料の重要性を軽んじてはいけないと思います。よって「両方をバランスよく利用する」が個人的答えです。二次資料の検証可能性って何ですか?WP:RSという基準ならありますが。検証可能性とはウィキペディアの記事を検証するためのもので、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にあるように、二次資料に対して検証可能性を求めたらそれは独自研究になるのではないでしょうか?いずれにせよ、ウィキペディアの内容に関する三大方針熟読は前提としたうえで、これ以上の方針の解釈を求められるなら、Wikipedia:井戸端などを利用されてもいいのでは。Wikipedia:井戸端/subj/DVDや映画パンフレットは検証可能性を満たさない情報源かという過去の議論もございます。--Garakmiu3会話2021年7月24日 (土) 16:11 (UTC)[返信]
確認したいのですが、「あらすじ部分に二次資料の出典を『追記するな』『消せ』」とは主張していないつもりですがそのように認識していただけていますか?-草薙水素会話2021年7月28日 (水) 03:35 (UTC)[返信]
草薙水素さんとの対話でそういう話はしていないと思いますが。--Garakmiu3会話2021年7月28日 (水) 04:49 (UTC)[返信]

だいぶ議論が長くなってきましたので、ラッターさんの主張されるところで、疑問を持つところ、はっきり答えていただいたのかわからないと思う部分をまとめます。

  1. 劇中にて明らかにされていることには、出典はつける必要がない。
  2. Wikipediaでは、何も出典がついていなければ「創作物そのものが一次情報」であり、そこに出典をつける必要はない。これは暗黙の了解である。
  3. 一次情報に基づいた記述に二次情報を出典として付けてはならない。二次情報を出典とすると正確ではなくなる。

以下に反論または疑問点を。

  1. この主張は撤回されたのか。撤回していなければ、どのような方針をもとに主張されているのか。繰り返しますが、劇中の描写であっても、長大な作品である場合は具体的な作品名や章(映画であれば「Aパート」とかDVDならチャプターとか)の指摘がなければ、読者が検証しようとするときに困難に陥ります。
  2. Wikipediaで初めて読む読者に「暗黙の了解」を要求するようなありかたは不親切ではないでしょうか。草薙水素さんのコメントに対して現状反論をしていないので、これについては撤回されたのですか。
  3. PJ:FILMPLOTには、「複雑な作品の場合、二次資料に依拠して解説する必要があるかもしれません。その場合は、出典を明記してください。映画の中の出来事の分析に関して、二次資料の間で食い違いがある場合は、「ストーリー」節の中ではその出来事をスクリーンに現れたまま可能な限り簡潔に記述して、その出来事に関する解説は節を改めて紹介してください」とあります。つまり二次資料において食い違いのない件について、出典としてつけてはならないということはありません。正確であるかどうかは中立的な観点が満たされているかどうかで決まるのであり、編集者は一次資料をフラットにみることと中立性への配慮を、どちらか片方でなくマルチタスクで同時に満たすことが求められている(WP:NPOV)ということで、正確でなくなるとも、それへの「努力を怠っている」とも断言できません。

このあたりをはっきりさせると、合意に向かえるかと思います。--Garakmiu3会話2021年7月23日 (金) 18:00 (UTC)[返信]

疑問点について質問を頂きましたのでお答えいたします。
1の回答.PJ:FILMPLOTでは「映画作品記事ではその映画が主要な情報源であり、詳細はインフォボックスで確認できるので、映画が出典であることを明示する必要はありません。」とあります。これは映画に限らずフィクション作品全てに共通して言えることだと思いますが、特定の作品についての記事である以上、記事の内容は基本的には作品そのもの(一次情報)を出典としているというのは明白です。私が知る限りではフィクション作品の多くの記事では出典が記載されているのは二次情報のみであり、一次情報について作品そのものが出典として記載されていません。「劇中にて明らかにされていること(一次情報)には、出典はつける必要がない」「何も出典がついていなければ一次情報というのが一般的解釈」というのは以上の理由によるものです。
2の回答.「暗黙の了解を求めている」というつもりはありません。全体的にみてそういう傾向が非常に強いということであり、WP:5P5「ウィキペディアには、確固としたルールはありません」ということだと思います。
3の回答.[[PJ:FILMPLOT]を引用していますが、これは一次情報だけで作品を解説できているのに、わざわざ二次情報を出典として記載する理由にはなりません。「正確であるかどうかは中立的な観点が満たされているかどうかで決まるのであり」とありますが、「早く逃げちゃえばいいのに」と促した[2]、二人で手を取り合って駆けてゆくラストシーンとなった[3]、というのは一次情報に基づいて主観的な描写など一切無く極めて簡潔に記述されているのであり、中立的な観点を完全に満たしていると言えます。
こちらからの疑問としては
  1. 以前「PJ:FILMPLOTというのがありますが、これはあくまで映画作品単独記事の話で、作品そのものが出典であることが自明であるからです。」とコメントをいただきましたが、登場人物の個別記事には当てはまらないということでしょうか。
  2. 長大な作品の場合読者が検証しやすいようにする必要があるとのことですが、それはどのようなガイドラインに基づいたものなのでしょうか。
以上の点を回答いただきたいと思います。--ラッター会話2021年7月24日 (土) 06:37 (UTC)[返信]
フィクション全般的な説明になる部分もありますが、「全体的にみてそういう傾向が非常に強い」ことがWP:SURPLUSが必要になる問題を生んでいます。そういったの記事の多くは、WP:IN-Uにあるように「フィクションの出来事をあたかも現実世界の出来事であるかのように扱い、現実世界の文脈や、情報源によって裏付けられた作品に対する評価・分析の存在を無視します。」という状態で、単に作品のファンが萌える場面を加筆したい(でも出典をつけるのは面倒だし僕の解釈は間違ってない、ほかの記事もそんな感じだからOKOK!)という欲求の言い訳にしかならないのです。プロジェクト:アニメ/過剰な内容の整理という基準もあり、そこでは「二次情報源による言及が認められない記述から優先的に除去してください」とされています。こういった問題に歯止めをかけるためにも、人物説明にも出典は必要です。
  1. 回答への返答と合わせてになりますが、PJ:FILMPLOTは主に、現実世界での視点を重視して製作関係や批評・売り上げなどの評価を十分に含めた記事の、あくまでも一部として、作品自体のあらすじを簡潔に説明することに対する説明です。「早く逃げちゃえばいいのに」と促した[2]の部分は、人物説明としてその部分が「わざわざ取り上げられるのに値するかどうか」を二次情報で担保するかたちになります。解釈としては「当てはまらない」ですが、一次情報で書くことのすべてを否定してはおりません。「ジャバウォック」のように、一次情報と二次情報を組み合わせたかたちでうまく構成されているのが理想だと思います。
  2. WP:Vを踏まえ、WP:CITEを見れば、出典は著書(論文)名、雑誌名、巻数、発行所名、叢書名、刊行年、参照ページ、ウェブサイトであれば記事名・公表者名・公開日といった情報が求められます。一般的な出典であっても、ただ単に本のタイトルだけぽんと書いておけばOKで済まされていないわけです。これを踏まえれば、長大な作品であれば一次情報からの検証もその分困難になってゆくのは容易に想像できることであり、検証可能性が非常に重要な方針であることを踏まえれば、わざわざ読者にとって検証しづらい状態を放置しておく理由がありますか。--Garakmiu3会話2021年7月24日 (土) 17:43 (UTC)[返信]
追記:もう何回も提示しているWP:WAFですが、「結論」に「記事中のすべての情報は信頼できる情報源に基づいた検証可能なものである必要があります。またすべての情報源(一次資料を含む)は記事の中で適切に参照されていなければなりません。すべての情報に情報源を明示してください。」と明記してあります。--Garakmiu3会話2021年7月24日 (土) 17:52 (UTC)[返信]
プロジェクト:アニメ/過剰な内容の整理において「二次情報源による言及が認められない記述から優先的に除去してください」と記載されているとありましたが、そもそもこのプロジェクト記事というのは「こういう風にしてみてはどうでしょうか」というただの提案であり、ルールではないし従う義務はありません。確認してみましたが記事内容が稚拙だし、参加編集者も少なくノートでの議論も殆どありません。以上の理由から参考にすべきものではないと判断します。
「過剰な内容の整理」について言及がありましたが、そういった問題があるのは事実としても「だから出典を付けるべきだ」というのは論理の飛躍です。
WP:WAF「すべての情報に情報源を明示してください」とありますが、「日本のアニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズに登場する架空の人物」という記述により彼女の行動についての記述は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が情報源であるというのは明示されています。情報源を出典として記載するのは確かにウィキペディアにおける原則ですが、記事そのものにおいて情報源がハッキリしている記述にも改めて出典を記載するというのは蛇足でしょう。またそのようなことをしていれば記事が読みづらいものになってしまうし、一次情報と解釈との判別などもしにくくなり、結果的に検証可能性を阻害してしまいます。
人物説明としてその部分が「わざわざ取り上げられるのに値するかどうか」、とのことですが、これは「劇中での活躍」の節であり、人物説明をするのではなくマリの行動を主観抜きで記述するための節です。そういった出典は「キャラクターの造形」の節における記述に記載すべきではないでしょうか。--ラッター会話2021年7月25日 (日) 10:14 (UTC)[返信]
プロジェクトの基準は、WP:SURPLUSをもとにしていますし、「記事内容が稚拙」は何を根拠にされているのか理解できません。Wikipedia‐ノート:過剰な内容の整理であらかじめ議論が詰められたものをもとにして、ローカライズする議論がされているから議論の余地がないわけです。それに10年以上前に固まったそれを基準にして大きな問題が起きているなら、プロジェクトでとっくに指摘されているでしょうし、あなたが個人的に問題があると思われるなら、プロジェクトに参加して変更提案すればどうですか。
出典がたくさんあることでの見づらさについてはノート:宝くじで40億当たったんだけど異世界に移住するでも同様の議論は起きていますし、派生議論でも、Wikipediaの仕様として細かな出典があるほうがいいという趨勢です。本項目における別件についても、読者の利便性を考え納得してます。
英語版記事en:Shinji_Ikariでは、劇中の活躍を描いたと思われる「Appearances」の節では、いちいちフィルムブックや映画そのものを出典としていることがわかるようrefで出典をつけていますね。これで良質な記事です。質の高さについて、合議でお墨付きを得ている諸外国版ではそういう方向性です。もし検証可能性を阻害するという理由で必要がないと思われるなら、審査段階で除かれているでしょう。対してラッターさんの主張する「暗黙の了解」はあくまで個人の主観にすぎず、実際に私のようなものから異論を受けている時点でその「了解」は崩れているのです。
Stepney-I.C.I.さんの初めのほうのコメント「2つ目と3つ目については確かにわざわざ出典を付す必要はないですね(だからと言ってわざわざ出典を消す必要性も薄いとは思いますが)。」を受けて、フィルムブックのような公式資料(WP:WAFでいうところの、慎重に取り扱うべき二次資料)なり、映画作品そのものの提示がつかないうちは現出典を外さないことを提案します。外されるばあいは節に要出典テンプレートをつけることになるでしょう。--Garakmiu3会話2021年7月27日 (火) 04:11 (UTC)[返信]
上で「そう解釈するのが一般的」と書きましたが、その理由について「○○という作品の登場人物」の記事である以上、行動についての記述は「○○という作品」が情報源であるというのは記事そのものにおいて明らかにされているから、と説明してあります。またこの見解はPJ:FICTION一次情報の扱いにおける「作品全体のあらすじや登場人物が物語にどう係わるかといった記述は、脚注等を用いて出典を示さずとも作品そのものを参考に書かれていることが明白であるため、検証は可能です」にも合致しています。別に主観に基づいた暗黙の了解を持ち出しているわけではありません。プロジェクト:アニメ/過剰な内容の整理の基準はこれと相反していますね。
提案頂いた内容ですが、これは「劇中での活躍」の節において各作品の最後の部分に作品そのもの、もしくは公式資料を出典として記載する、という解釈でよろしいでしょうか。であれば「落下する第13号機からシンジのエントリープラグを強制射出して儀式を中断させた。」にも出典を記載することになりますが。--ラッター会話2021年7月27日 (火) 15:52 (UTC)[返信]
>これは「劇中での活躍」の節において各作品の最後の部分に作品そのもの、もしくは公式資料を出典として記載する、という解釈でよろしいでしょうか。
そういう意図ですね。--Garakmiu3会話2021年7月28日 (水) 05:04 (UTC)[返信]
提案いただいた内容に基づき、作品そのものを出典として記載いたしました。--ラッター会話2021年7月31日 (土) 05:01 (UTC)[返信]