ノート:甘露寺藤長

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「甘露寺」の家名に関して[編集]

本文中に「吉田家から分かれて甘露寺姓を名乗った。」という表現がありますが、藤原北家勧修寺流の吉田家の嫡流が甘露寺家を名乗ったというのが史実なのではないかと思います。甘露寺家は勧修寺流の嫡流を見なされておりますので。

これは村上源氏堂上家の嫡流である久我家の例に似ています。久我家の家名は村上天皇の孫源師房の孫の源雅実の家号に由来しております。その後、雅実の嫡流子孫は「中院」と名乗ったり「土御門」と名乗ったりして家号が固定されておりませんが、室町時代以降の家号は「久我」に固定され、これが家名として確定しました。そのために、源雅実を久我家の初代当主と見なしている文献が多いです。なお、「中院」や「土御門」の家名は久我家の分家が使用することになります。

だから、甘露寺家の場合においても、吉田家の嫡流の藤原藤長が13代前の先祖の藤原為輔の家号である「甘露寺」を復活させて、それが家名として確定したのではないでしょうか。文献によっては藤原為輔を甘露寺家の初代当主と見なしているものもあります。--まさふゆ 2008年8月15日 (金) 11:57 (UTC)[返信]

既に削除依頼が出ているので今話題にするのは難ですが、吉田家の嫡流を巡って吉田宗房(定房の子)と甘露寺藤長(定房の甥・猶子)が争った話が『園太暦』に書かれているそうです。定房の後継者で南朝を奉じる宗房から見れば、藤長は庶流ということですし、北朝を奉じる藤長の立場からすれば宗房は京都朝廷に唯一仕えている自分だけが嫡流と認められる存在であるということになるのでしょう。--水野白楓 2010年4月20日 (火) 20:34 (UTC)[返信]