ノート:本田親徳

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Kafuka1964氏が2007年4月8日 (日) 14:10版において
> 著書『真道問対』は実在しない。捏造か誤字か。表題を再確認して出版社、出版年も記載してください。
と追記されましたが、『本田親徳全集』山雅房 1976年刊に収められておりますが。
何を以て、実在しないと判断されたのですか?Sandfish 2007年4月9日 (月) 02:13 (UTC)[返信]

実在するなら、「著書『真道問対』」の書誌を明らかにして下さい。死後に編纂された全集に入っている著作は「著書」ではありません。特に戦前の人については出版法新聞紙法による検閲がありましたから、共著者の副島種臣も認めて「著書」として刊行されたか、戦後に遺作が全集に入ったかでは大きく評価が異なります。検閲は流通の範囲も発禁の基準にいれていますから、どのような出版社からいつ出版されたのかも必要な情報です。その全集は副島種臣の著作権が切れてからの発行です。副島種臣が認めていなくても刊行できてしまうものです。「本文」の記述では副島種臣もこの著作の刊行を認めて、本田と副島が生前に発行しているような錯覚を与えます。
国会図書館などに蔵書が無いので、「実在しない」と判断しました。表題を再確認して出版社、出版年も記載してください。どのようなかたちでいつ初めて世に出たのかが問題なのです。--Kafuka1964 2007年4月9日 (月) 03:07 (UTC)追記--Kafuka1964 2007年4月9日 (月) 03:56 (UTC)[返信]

以下の私の解釈が誤っていれば、御遠慮なく御指摘ください。
Kafuka1964様とどうも話がかみ合っていないと思いましたが、それは「著」ではなく「著」となっていたのが問題という認識で正しいでしょうか?
というのも、『真道問対』が著わされたのは明治16年ですが弟子に筆写によって伝えられた物なので、現在に至るまで単独で刊行されたことはありません。全集に収録されているものは本田親徳の弟子であった鈴木広道の遺族が所蔵していたものです。戦前、大本の機関誌に本田の『道之大原』が掲載されていたことがあったようなので、あるいは『真道問対』も掲載されたかもしれませんが未確認です。また、友清歓真の『鎮魂帰神の極意』と『霊学筌蹄』に『道之大原』が収録されていたので、『真道問対』が神道天行居創設以前の友清歓真の著書に収録された可能性もありますが、これも未確認です。(『本田親徳全集』において編者の鈴木重道氏は、友清歓真が長沢雄楯所蔵本『真道問対』を写して世に紹介したと記していますが)Sandfish 2007年4月9日 (月) 13:26 (UTC) 文言追加Sandfish 2007年4月9日 (月) 13:47 (UTC) 人名の誤りを修正Sandfish 2007年4月10日 (火) 12:37 (UTC)[返信]
文案二つを考えてみました。私は文案1がいいと思っています。副島種臣の権威に縋りたいなら文案2もよいでしょうが、人物の肩書きにやたらこだわるのはかえって本田親徳という人物の評価を貶めることになるでしょう。元勲にこだわらない方がよいと思います。委細は元勲を参照して下さい。
文案1「本田の遺稿『真道問対』は本田と副島種臣との対談が中心である。脱稿は1883年、初公刊は1976年(鈴木重道編『本田親徳全集』山雅房)。」。
文案2「本田の弟子の一人に副島種臣がいた{要出典}。副島は明治の元勲とされることもある人物であり、本田の遺稿『真道問対』は副島との対談が中心となっている。『真道問対』の脱稿は1883年、初公刊は鈴木重道編『本田親徳全集』山雅房、1976年。」。
「要出典」を付けたのは副島にその自覚があったどうか疑問だからです。「対談」となっていますから、同等の関係に思われます。師匠と弟子の関係なら、「問答」でしょう。実物を見ていないので分かりませんが、文案2は「弟子」・「対談」という記述のどちらか、あるいは両方を削除しなければ不自然です。--Kafuka1964 2007年4月9日 (月) 15:14 (UTC)[返信]
追伸。「友清歓真の著書に収録された可能性もありますが、これも未確認です。」とのことですので、収録があればそれを記すべきですので、確認をお待ちします。--Kafuka1964 2007年4月9日 (月) 22:48 (UTC)[返信]
副島種臣について知りたい方は内部リンクをたどればわかるので、文案1の「対談」を「問答」に変更し、その前に「本田の弟子には副島種臣長沢雄楯、佐曽利清、鈴木広道らがいた。」の一文を加えるだけで良いと思います。(本田の弟子の一人として名前のみ記載)
副島種臣にはついては、
> 先生(本田)の高弟副島種臣(『本田親徳全集』)
> 副島伯は先生(本田)の高弟として先ず指を屈せられる(『本田親徳全集』)
> 伯(副島)は漢籍には精通して居た人であるが国学に就ては本田翁の訓へを受けた人である。(友清歓真『鎮魂帰神の極意』)
> 其の門下の内で特に傑出されたのは、明治の元勲、副島種臣伯と、長沢雄楯翁の御二人と申しても過言ではあるまい。(佐藤卿彦『顕神本田霊学法典』山雅房)
とあることと、副島の遺稿に、本田の神道説について副島の弟子との問答形式で記した『蒼海窓問答』(『副島種臣全集』に収録)がありますので、弟子で良いと思います。
> 神道天行居創設以前の友清歓真の著書に収録された可能性
これは天行居創設以前の友清歓真の著書には、現在の天行居本部にすら残っておらず全集未収録のもの(大本批判の書の『乾坤一擲』など)がありますので、それらの現代では入手が極めて困難な初期の著書に収録されている可能性を書いたつもりでした。
現時点で確認できているものは、『友清歓真全集』に収録されているものは上に書いた『道之大原』が収録されたもののみ、全集収録外では同じく天行居創設以前に編集した『神仙霊典』に副島の『蒼海窓問答』が収録されていることと、非公開の友清の著作に本田の『産土百首』『霊魂百首』が収録されたもののみです。あとは大本の機関誌か天行居の機関誌に掲載された可能性もありますが、これらのバックナンバーを全て所蔵しているのはそれぞれの教団の本部ぐらいだろうと思われます。Sandfish 2007年4月10日 (火) 12:37 (UTC)[返信]