ノート:斎藤氏/過去ログ

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ローマより貿易と日本国の建設のために渡来した。本家は沼津にある。藤原氏は斎藤という名前を使用する許可を有してはいない。倭人としての藤原氏が、斎藤家つまり、スキピオ家を氏族として保有するということは、他国の歴史においても見られないし、民族の教育上問題がありますので、この事実を変更なさりたい場合は、イタリア政府および本家まで連絡してください。斎藤家をどう教えるかは、他のどの民族にとっても大事な話になります。そのことを理解してください「倭人」との違いを伝えなければなりません。 The Saito came from Roma for trading and making country. The head of tree living in Numazu.


   --斎藤ローマよしあ 2008年6月15日 (日) 06:24 (UTC)[返信]


斎藤氏に関して、いずれもローマイタリア)のスキピオ家斎藤実盛の末裔が沼津の商家として現存しているとされるのは、ほとんど関連がないと思われるので、添削、削除しました。--121.102.201.239 2008年6月18日 (水) 02:57 (UTC)[返信]

 斎藤氏が沼津という土地に移り住んだことには、ローマが東へと貿易を求めてきたことにルーツがあるので、学術的にみても、天皇家側との婚姻関係もあり、沼津の商家が本家であるので掲載の必要があり、関連がないと間違われることのないようにお願い致します。とくに、大衆に知らせる必要性があり、「ビートルズ」や他アーティストとの関連性があるためです。  --斎藤ローマよしあ 2008年6月19日 (木) 01:59 (UTC)[返信]

えーと・・・斎藤ローマよしあさんに色々と聞きたい点があるのですが・・・。
  1. 「ローマから貿易と日本国の建設のために渡来した」とする論拠の史料は何ですか?
  2. 「斎藤」の姓を使用するのに何(あるいは誰)の許可が要るのでしょうか? 斎藤氏の始まりは、藤原利仁の子・叙用が斎宮頭に任じられたことがきっかけで、「斎宮頭の藤原」、すなわち「斎藤」になったとされているようですが([1][2])・・・。
  3. 斎藤家とスキピオ家を関連付ける論拠となる史料は何ですか?
  4. 「天皇家側との婚姻関係」とありますが、具体的に誰が、天皇家の誰と婚姻したのですか?
  5. ビートルズや他アーティスト」とどういう関連性があるのですか?
  6. Wikipediaの方針文書はお読みされたのでしょうか? 「大衆に知らせる必要性があり」とありますが、ウィキペディアは宣伝をする場所ではありませんし、信頼できる情報源により検証可能であることが求められますし、世間に未発表の「独自研究」を載せてはならないという方針がありますが・・・。
以上の点、お答え下さい。--松茸 2008年6月19日 (木) 04:44 (UTC)[返信]

第一の重要な発言の証拠としては、私は、沼津の本家の斎藤の娘です。 1.現在の史料文献は今だにございませんが、斎藤家は、イタリア語で「SAIO」「ITO」という言葉がありますように、イタリアが当時使用していた言葉が名前です。とくに、世界史のローマに関する史料をみていただければ、すぐに発見できます。現在、イタリアにもSAITOという言葉を名前に取り入れられている方々が数多くみられるようです。  これは、藤原氏の言語が「WA」という言葉にみられますように、イタリアでは、外来語である「W」が使用されているだけではなく、「FU」という日本語がラテン語にないことでも簡単に判別できます。それは、フランス語やドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、英語における人名などにおける解釈において、単純にラテン語で完全に構成されている違いからも明らかです。それは、日本語の「あいうえお」の母音式教育にみることができます。 2.なぜ、藤原氏が「斎宮」に任じられたのでしょうか?「宮」という言葉は、中国語で「宮殿」の意味で、藤原氏は中国系ではないはずなので、どちらかといえば、漢字教育を広めた天皇家、つまり藤原氏の敵軍にあたるわけで、藤原氏の「まつりごと」ではありえないはずです。 3.単純に当時のイタリアで権力や海外への影響力が大きかった家で、文化的に判断しても、他の家では考えられないということで判別できます。 4.婚姻に関する資料につきましては詳しくはわかりません。 5.答える必要はありません。 --斎藤ローマよしあ 2008年7月1日 (火) 05:34 (UTC)[返信]

松茸さんの問いの6.

Wikipediaの方針文書はお読みされたのでしょうか? 「大衆に知らせる必要性があり」とありますが、ウィキペディアは宣伝をする場所ではありませんし、信頼できる情報源により検証可能であることが求められますし、世間に未発表の「独自研究」を載せてはならないという方針がありますが・・・。

にもお答えいただけますか?--Ks aka 98 2008年7月1日 (火) 12:04 (UTC)[返信]

斎藤ローマよしあさんの回答に対し、回答及び再質問をいたします。

  1. 裏付けとなる史料文献が無ければ、それは独自研究に当たり、Wikipedia:独自研究は載せないに反します。確かにイタリアにはSaitoという名前の方がおられるようですが(it:Nello Saitoなど)、だからといって日本の斎藤の祖先がローマ人・・・というのは「論理の飛躍」が過ぎるかと思います(アーネスト・サトウのように、祖先が日本と関係無くても日本に近い名字もありますし)。発音等で結びつけるのも、論拠にはならないかと。
  2. よくお読み下さい。「斎宮」ではなく、「斎宮頭」です。斎宮頭とは、斎宮寮(斎宮を世話する役所)の長で、従五位上相当の令外官、すなわち役人です。ですので、任じられることに何ら疑問はありません。ところで、「斎藤の姓を名乗るのに誰の許可が要るのか」という質問に答えていないようですが・・・。
  3. その判断の根拠となる史料をご提示下さい。
  4. 分からないのであれば論拠となり得ません。
  5. 何故答える必要が無いのか分かりませんが、答えられないような主張はおやめ下さい。混乱を巻き起こすだけです。
  6. 無回答のため、今一度返答をお願いいたします。読んでいないのであれば、すいませんが方針文書を熟読して下さい。そうでないとWikipediaの編集に参加するのは時期尚早かと思います。

--松茸 2008年7月1日 (火) 14:23 (UTC)[返信]

その質問にお答えします。  斎藤家の人間ではないものが、文献にあるからと、偽った史料により出自を強制的に変更させることはできません。斎藤家の本家の娘が発言しているのに、それが、史料ではないと話すような人はこの世の中で生きていけるのでしょうか?マスコミの出版物などにおいても、斎藤家本人の発言は証拠であり、誰かのインタビューが文献になかったからといって、ウィキペディアでの「藤原氏」などと偽り、当の藤原氏に迷惑をかけるような行為は許されないものです。斎藤の姓を名乗ることに許可がいるかというのは、ラテン語であり、それは、斎宮が仕事の名前で、神宮の仕事の職の名前を姓にするという行為は歴史上考えられないためです。しかも、斎藤実盛は軍人ですし、軍人が輩出されているということは、歴史上、斎宮職の人間ではないと、常識的に判断できます。もし、その斎藤家の娘の言葉に理屈を述べたいという方がいらっしゃるなら、かなり、精神的におかしい状況になっているので、精神科医にみてもらってください。


--斎藤ローマよしあ 2008年7月13日 (日) 10:11 (UTC)[返信]

史料批判は結構ですが、「斎藤氏がローマの末裔である」という学術研究も無く、「斎藤家本人の発言」がある「マスコミの出版物」とやらが何なのか分からなければ、信頼のおける出典が無いということで独自研究であると思わざるを得ません。そもそも、こちらとしてはあなたが本当に斎藤家の本家の人物かどうかも確認できません(事実、Wikipediaでは過去に近衛家の末裔と自称していた方もいましたが、不審な点への問いに答えることなく現れなくなりました)。ですから、『寛政重修諸家譜』等の史料や「斎宮歴史博物館」の学芸員の方の研究を否定されるのであれば、その根拠となる文献史料を提示下さい。史料が無ければ、たとえ真実であってもWikipediaに掲載することはできません(Wikipediaへの執筆の基準は、「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です)。もしそれを世間に広めたいのであれば、Wikipediaになど投稿せず(宣伝や研究発表の場では無いため)、きちんとした学術雑誌に投稿することをお勧めします。
それと、「軍人の実盛が輩出されているから斎宮職の人間ではない」という主張がありますが、根拠としては全然成立しておりません。斎藤家の祖である叙用は10世紀頃の人物ですが、実盛は12世紀の人物であり、その間は8代・約200年も離れています(叙用-吉信-伊傳-(吉原)則光-則重-(河合斎藤)助宗-実遠-実直-実盛)。それだけの期間が経てば、たとえその家の子孫にどんな立場の人物が輩出されようと全く不思議ではありません(例えば清和天皇の200年ほど後の子孫には源義家がいます)。
それから、この編集はあなたがされたものだと思いますが、これは(少なくとも現時点では)間違っていると判断せざるを得ません。日本に「紀元前から」姓が存在したかどうかなど分からないからです(日本史上で文献に名が残っている最古の人物・帥升107年当時の倭国王)でさえ、その名が姓+名なのかどうか分かりません)。また、「ローマ貿易」も存在は確認できません(中国でさえ、ローマ方面との交流が確認できるのは97年甘英が最古です)。
とにかく方針文書を熟読下さい。それでもなお出典を出されずに自説をの主張を繰り広げるというのであれば、それはWikipediaではやらず、自分でウェブサイトを立ち上げてやって下さい。--松茸 2008年7月13日 (日) 12:10 (UTC)[返信]

 何度も申しましたように、末裔でございます。事実、私の家には、曾おじい様は、沼津市三園町自治会館にもかざってある写真がありますように、貴族院時代には、市長のような仕事をしておりました。静岡県の斎藤家の項目にも載ってある資料がありますが、そちらの寺院等には少し訂正すべき点がありましたが、この祖祖父が何よりの証拠となるでしょう。ちなみに、沼津市で有名な人物に、水野家、桜井組などがあります。銀行関連や、音楽関連やテレビなどで目にしたりされたのではないかと思われます。かつての御用邸もそばにあります。おそらく、日本と一切関係ないお方が、勝手に記述を変えてしまっているというような印象ですね。この国の教育制度で、そのことが理解できないとなりますと、大変に問題ですね。   漢字の「斎」の文字の使用に関してですが、この文字は、中国の文献資料にもでておりますように、ローマ・システム関連の文字であることが何よりの証拠でしょう。     斎宮歴史博物館には、きちんと事前にメールして記述が間違っていると伝えてあります。根拠は、以前の記録を参照してください。東京大学にも連絡いたしました。イタリア大使館にはすでに連絡済です。出版を考えていましたが、学術雑誌などには、今後、検討いたします。そのもの出身の言葉による歴史は、学術員の研究より優れているものです。それは、どこの国でもおなじです。それにまだ、異論ああるというのは、インディアンや果てアフリカ人、アボリジニ、ローマ人の歴史を否定するようなものです。逆に、あなたは、どちらの何様なのでしょうか?警察にも連絡してありますよ。


 --斎藤ローマよしあ 2008年7月31日 (木) 12:58 (UTC)[返信]