ノート:慶應義塾大学の人物一覧

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分割[編集]

「人物」だけで66kを超えている異常な状態ですので分割させていただきました。あしからず。 --218.229.169.251 2005年2月28日 (月) 16:29 (UTC)[返信]

削除依頼[編集]

削除依頼がだされているようであり、ミス慶應の名前が出ていることがその理由とされているようなので 私が載せたわけではありませんが一応削除しておきました。 また、量が増えてきましたので、教員(歴代塾長、慶應現職教員、旧教員、慶應卒他大学教員)に 関しましては慶應義塾大学の人物一覧とは別に分割するということもよいかと思い、分割しました。 61.26.224.189 2005年5月12日 (木) 11:53

削除依頼は削除賛成者がいないため終了しました。Miya.m 2005年7月17日 (日) 07:36 (UTC)[返信]

お願い[編集]

藤田幹雄衆議院議員(千葉4区)を是非入れてください。

適切な節はどこ[編集]

この大学法学部の卒業生で元外交官中東調査会上席研究員をされている大野元裕氏はどの節に加えるのがよいでしょうか?--ぶた 2007年3月3日 (土) 00:27 (UTC)[返信]

湘南藤沢キャンパスについて[編集]

該当の記事で勤務する教職員をまとめてキャンパスの記事に掲載されたい方がいらっしゃるようでしたので、本来掲載すべきこちらの記事において該当キャンパスの勤務者を節として分け、歴代の学部長も併せて掲載しました。慶應義塾大学の中で湘南藤沢キャンパスだけキャンパスとしてまとめて特別扱いをしている理由は判りませんが、要約文などを見る限りではそのような扱いなので本来人物をまとめるべきこちらの記事でそのようにしました。キャンパスで分けるのが不適切であるかどうかはこちらの記事で議論してください。--秋の虹 2008年8月9日 (土) 11:53 (UTC)[返信]

卒業生についても特別な存在のようで、通常は学部卒業生でまとめられると思うのですが、キャンパスで学んだ人でまとめるようです。節を分けてありますが、三田・信濃町・矢上で学んだ方を別扱いにした方がよいのかなどの議論はこちらのノートにお任せ致します。--秋の虹 2008年8月10日 (日) 06:06 (UTC)[返信]

杉亨二、松木弘安の記載について[編集]

利用者:柴崎力栄さんは、「教えていたのは、福沢が江戸に出てくる前の時代。」「犬塚孝明『寺島宗則』(吉川弘文館)参照。」「中津藩蘭学塾で教えていたのは事実だが、福沢が江戸にくるはるか前の時代。」という理由で、杉亨二松木弘安の記載を削除する編集を繰り返していますが、いずれも本記事からの削除の理由になりません。--Qrsk075 2010年5月5日 (水) 02:34 (UTC)[返信]

  • Qrsk075さん、なぜ削除の理由にならないのでしょうか。論理的に説明していただけませんか。平山洋『諭吉の流儀『福翁自伝』を読む』(PHP研究所、2009年5月)を見ていましたが、70~71ページの記述との関連をどのように付けますか?--rshiba 2010年5月5日 (水) 15:21 (UTC)[返信]
    • 「中津藩蘭学塾で教えていたのは事実」としながら、なぜ「福沢が江戸にくるはるか前の時代。」だからといって無関係な人物と断じられるのか説明がありません。自己の主張に援用したい文献があるならば、要約して引用してください。また、引用文献の記述とあなたの主張を関連づけるのはあなた自身です。--Qrsk075 2010年5月5日 (水) 16:31 (UTC)[返信]
慶應義塾のホームページ、50年史(近代デジタルライブラリーで閲覧可能)、100年史、いずれも、1858年を創設年としています。それ以前は前史ないし起源扱いです。1858年以前の中津藩蘭学塾は、慶應義塾の前身ではあっても、慶應義塾自体ではありません。慶應義塾の前身で教えていた人物をこの一覧に載せるならば、冒頭に別に項目を立てて「前身の中津藩蘭学塾関係者」とでも項目を立てるならば、ぎりぎり許容できるかも知れませんが、「創立者及び関係者」に入れることは無理です。それが可能であると主張するならば検証可能な原典を提示してください。--rshiba 2010年5月5日 (水) 16:44 (UTC)[返信]
      • コメントQrsk075さんへ、「慶應義塾七十五年史」「慶応義塾百年史」Googleブック検索PDFより、いずれも松木弘安、杉の名前が一章の歴史記述の中にあること確認。更に慶應義塾大学公式HP[1]にも名前を確認。更にその歴史記述の流れの説明によると、「中津藩江戸藩邸から始まった蘭学塾」とあるだけで1858年以降が慶應義塾だとする記述が一つも無い事を確認。年表はこちら慶應義塾百年史付録--122.22.74.249 2010年5月5日 (水) 17:32 (UTC)[返信]
      • 慶應義塾ホームページ「理念と歴史」[2]には、「幕末の大阪、蘭学者の緒方洪庵の適塾に学んだ福澤諭吉は故郷である中津藩の命を受け、江戸に下り1858(安政5)年、蘭学塾を創始。敢為な精神をもって欧米諸国を見聞した福澤は、帰国後、古いしきたりや慣習にとらわれない教育を実践し、慶應義塾が継承する伝統の礎を築いたのです。2008年、慶應義塾は創立150年を迎えました。」とある。--rshiba 2010年5月5日 (水) 17:38 (UTC)[返信]
        • 「慶應義塾の起源」の説明[3]と福沢が来た後の「理念と歴史」[4]の違いくらいは分かって下さい。どちらにせよ柴崎氏が主張する「松木弘安と杉亨二は慶應義塾とは関係が無い」という主張はもう終了しました。--122.22.74.249 2010年5月5日 (水) 17:58 (UTC)[返信]
  • 横槍失礼。まず、慶應義塾の創立年が1858年であることは間違いありません。柴崎力栄さんの挙げた出典もそうですし、122.22.74.249さんが挙げた「慶應義塾七十五年史」の冒頭にも「我が慶應義塾の起源は、今茲昭和七年より溯ること七十五年以前の安政五年、福澤先生が江戸鐡砲洲の奥平家中屋敷内に蘭学塾を開かれた時に始まる」とされています(「1858年以降が慶應義塾だとする記述が一つも無い事を確認」というのは、単純にリサーチ不足です。)。さて、このことは、慶應義塾の前身の蘭学塾ができたのが1858年だということを意味します。122.23.249.139さんも「慶應義塾は中津藩蘭学塾時代からの流れを汲む」と述べていますが、その「中津藩蘭学塾」というのが、1858年(安政5年)に開設されたものです。誤解があるかもしれませんので念のため指摘しておくと、「蘭学塾」というのは蘭学を教える私塾の普通名詞でして、慶應義塾の前身のみを「蘭学塾」というわけではありません。そして、『福翁自伝』によると、松木弘安と杉亨二は、奥平家で雇われていたとの記述はありますが、「蘭学塾」で教えていたかどうかは確認できませんでした(出典はどちらでしょう?)。仮に、「中津藩蘭学塾で教えていたのは事実」であるとしても、そこでいう「蘭学塾」は「福澤の開いた蘭学塾=慶應義塾の前身」ということはありえません(そのころに「慶應義塾の前身である蘭学塾」は存在しませんから)。つまり、柴崎力栄さんの「1858年以前の中津藩蘭学塾は、慶應義塾の前身ではあっても、慶應義塾自体ではありません。」という指摘も誤りで、正確には「1858年以前の中津藩蘭学塾は、慶應義塾(及びその前身)とは全くの別の蘭学塾」だと思います。そういうわけで、両者は「慶應義塾の前身で教えていた人物」ですらないと思います。みなさん、当然のように1858年以前の蘭学塾を慶應義塾の前身であると述べているようなのですが、どこの記述に依拠しているのでしょうか?--かんぴ 2010年5月5日 (水) 18:38 (UTC)[返信]
    • (追記)『慶應義塾七十五年史』に、両者が中津藩邸で蘭学塾を開いていたと思われる記述(「書生を集めて蘭学を教授せしめてゐた」)が確認できました。ただし、前述のとおり、この蘭学塾は福澤が開設した蘭学塾(=慶應義塾の前身。1858年創設)とは別個のものですから、両者が「慶應義塾の関係者」でないことは確かです。--かんぴ 2010年5月5日 (水) 18:51 (UTC)[返信]
      • (追記の追記)訂正。よく考えると、「教授せしめてゐた」というのが、「塾を開かせていた」こととは同義ではないため、蘭学塾を開いていたと確認できたという発言は取り消し。--かんぴ 2010年5月26日 (水) 09:56 (UTC)[返信]
    • (追記に対する返答)岡見彦三を参照。この蘭学塾と慶應義塾は別のものではありません。--118.10.135.9 2010年5月5日 (水) 19:05 (UTC)[返信]
  • コメントかんぴさん、私も初めてこの学校について研究しているときは1858年から始まったと思っていたのですが、江戸藩邸に中津藩蘭学塾ができたのは1858年よりももっと前なのです、福沢はその蘭学塾の講師として出府してきた人物。この蘭学塾は、奥平昌高や岡見彦三といった人間が関わってどうやら蘭学塾がスタートしている。更には慶應義塾百年史上巻には、もっと前の根源的な学問の系譜(佐久間象山や前野良沢)についての記述もあるくらいです。一度、この『慶應義塾百年史上巻』をPDFで落として読んでみて下さい。--118.10.135.9 2010年5月5日 (水) 18:58 (UTC)[返信]
    • 確かに「全く別の」といってしまうのは、不適切かもしれませんので撤回します。ただし、岡見が開いた蘭学塾と慶應義塾は、「前身と後身」の関係ではありません。要するに、岡見が開いた蘭学塾という大きな枠組みの中に、福澤塾(後の慶應義塾)という“福澤先生クラス”を開いたわけです(しかも、このクラスは、それ自体が一つの学校として独立していく)。この場合、どの時点をもって「創設」とするかはいろんな捉え方があると思いますが、少なくとも慶應義塾側は、“福澤先生クラス”が開始された年、すなわち福澤が長屋を借りて講義を始めた年(1858年)をもって「創始」としているわけです。中津藩蘭学塾の開設よりも“福澤先生クラス”の開始のほうが「慶應義塾の開始」にとって重要な意味を持つわけで、やはりここはきちんと区別すべきです(そもそも、七十五年史とか百年史とかいう、その年数に1858年以前はカウントされていませんから)。となると、「関係が無い」かといいますと、まあ広い意味で「関係」はないとは言い切れませんけども、福澤や古川らのような、実際に“福澤先生クラス”(=「福澤塾」=慶應義塾の前身)のほうの設立に関わった当事者と同列に扱うべきような関係者とはいえないと思います(杉や松木は、いわば「他クラスの先生」であって「福澤先生クラス」の講師ではないので)。ではどうするかというと、柴崎力栄さんも述べているように、「慶應義塾創設以前の関係者」の項を立て、福澤、奥平、岡見、杉、松木の5人(他にも誰かいるなら、その人も)を掲載すれば済むのではないでしょうか?--かんぴ 2010年5月5日 (水) 20:23 (UTC)(追記:このコメント内で、「岡見が開いた蘭学塾」「中津藩蘭学塾」とありますが、そもそも「蘭学塾」が存在したかどうかも問題なので、混乱を招かぬよう「岡見が主宰していた蘭学の教授事業」くらいに読み替えてください)--かんぴ 2010年5月26日 (水) 09:56 (UTC)[返信]
    • コメント福沢が講義を始めたのは中津藩中屋敷です。クラスではありません。それと「慶應義塾」とは慶應の年号に設立されたから慶應義塾というのでもなく、新しく講義の質を変えて設立された塾でもない。慶應義塾と名を定めてからも江川太郎左衛門の屋敷に移ったり、汐留の中津藩上屋敷に移ったり、岡見や奥平も福沢が出府した後も蘭学塾で学んでいるため、根本的な慶應義塾の始まりは、中津藩の蘭学塾ということになる、『慶應義塾百年史上巻』・公式HP参照慶應義塾の起源。松木や杉の場合その後も塾に出入りし、公式HPにも名前が載っているためなんの問題も無い。1858で区切ることは不可能かつ大学関連のそんな細分化記事は即時削除対象でしょう、百科事典にそぐわない。他の慶應義塾百年史や福沢諭吉研究関連の書籍も読んでみて下さい。私も、調べているうちにどんどん面白い歴史が発見されていくのでよい勉強になっています。--118.10.135.9 2010年5月5日 (水) 20:46 (UTC)[返信]
      • 譬えで「クラス」と述べただけです(文字通り「クラス」なわけがないのは当然じゃないですか)。また、慶應の年号に設立されたものではないことくらい知っています。創設は「安政5年」だと述べたでしょう。そもそも、あなたが出典として挙げられている、公式HP「慶應義塾の起源」には、ハッキリと「慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾に由来し」と述べられていますし、七十五年史にも「我が慶應義塾の起源は、今茲昭和七年より溯ること七十五年以前の安政五年、福澤先生が江戸鐡砲洲の奥平家中屋敷内に蘭学塾を開かれた時に始まる」とあり、百年史にも「福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲の中津藩奥平家の中屋敷に蘭学塾を創設したのは安政五年」と書いてあります。また、百年史を読み進めると「福沢塾の開設は、藩士福沢を蘭学の教授として、江戸の中屋敷内に『家塾』を開かせたものと認められる」「鉄砲洲の藩邸内に学塾を開きたれども」「以上を要約すれば、慶應義塾の起源は安政五年(一八五八)奥平藩邸に開設された蘭学所、すなわち福沢塾にはじまるものである」どれも、慶應義塾の起源は、1858年に福沢が開いたという記述です。どれをとっても、「1858年」で区切っているのに、なぜそれらの記述を全部無視して「1858で区切ることは不可能」などと断言されるのでしょうか?「慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾に由来し」と書いてある出典を示しながら、1858年に創設されたのではないと言い張るのは、支離滅裂です。また、百年史には、松木は築地小田原町でオランダ語を教授しており、杉もオランダ語の初歩を教えたという記述がありますが、両者について「蘭学塾を開いた」「蘭学塾で教えていた」とはどこにも書かれていません(蘭学を教授することと、蘭学塾を開くことは別です)。そもそも、「根本的な慶應義塾の始まりは、中津藩の蘭学塾」というのは、1858年でなければ、いつ(何年)の話をしているのですか?出典を挙げて主張するものだから、明確な記述があるかと思いきや、どこにも何も書いていません。それどころか、あなたが挙げた出典は全て「1858年に創設」を裏付けるものばかりです。以上より、どうやらと杉・松木は福沢塾(=慶應義塾の前身)と関係はなさそうなので、創設時以前の関係者の項を立てるという提案も撤回します。現時点では両者は一覧から除去すべきだと考えです。除去すべきでないとお考えなら、出典を明確に示してください。前述の資料はすべて、1858年に創設された福沢塾=慶應義塾に杉・松木が関わっていない(奥平・岡見は関わっている)ことを示しています。--かんぴ 2010年5月5日 (水) 22:04 (UTC)[返信]
  • かんぴ氏がどの資料のことを言っているのか分からない。福沢諭吉が江戸に出てきた年が1858年なのであって、蘭学塾はもっと前からあると散々説明したはずですが。『http://koara-a.lib.keio.ac.jp/rarebook/100nen/Keio_mitalib_A_37728_K1_1-1/#43 慶應義塾百年史』(開塾理由)の項目「嘉永安政のころには~松木弘安、杉の二人が招かれて藩邸で蘭学を教授した。」その後福沢が江戸に出て中屋敷内の一軒を与えられ~。もちろんこの福沢の塾と中津藩蘭学塾は別ではなく、二人はその後も慶應義塾に招かれているため、ご指摘の件は意味不明です。--64.71.141.150 2010年5月6日 (木) 04:20 (UTC)[返信]
    • 私は「説明」を求めているのではなく、「出典」の提示を求めているのです。「散々説明」されても、その説明を裏付ける出典が無ければ何の意味がありません。具体的に私が求めているのは、第一に、「蘭学塾はもっと前からある」「二人が招かれて藩邸で蘭学を教授した。」とありますが、それが「蘭学塾」という形で教授されていたとする出典、第二に、「この福沢の塾と中津藩蘭学塾は別ではなく」とありますが、それが「別ではない」とする出典、この二点です。現時点で公式HP・百年史・七十五年史から明らかになっているのは、「福沢が江戸に出る前から両者が蘭学を教えていたこと」及び「1858年に福沢が江戸で蘭学塾を始めたこと」の2点です。「1858年より前から存在した蘭学塾を福沢が継承した(=同一の塾)」ということは、どこにも書かれていません。(断定するのはまずいですかね。「私の見る限りどこにも書かれていなかったので、『福沢塾と中津藩蘭学塾は同じもの』というのは、どこに書いてあるのか教えてください」ということです。)--かんぴ 2010年5月6日 (木) 07:31 (UTC)[返信]
      • あ、私は別に慶應義塾の歴史を勉強したいと思って資料の提出を求めているわけではない(あくまで、wikipediaの記事に必要な範囲での出典の提示を求めているだけ)ので、要は、二人が慶應義塾の関係者であることさえ出典で確認できればいいのです。もし、中津藩邸蘭学所と福沢塾が同一であることを示す出典が無いのであれば、「二人はその後も慶應義塾に招かれている」ということを示す出典でも構わないですよ。1858年以降の福沢塾に(講師とか生徒とかの形で)招かれているのであれば、「関係者」といえるでしょうから。「関係者」とさえ確認できれば、どういう関係者なのかは(少なくともこのページにおいては)気にしませんので。--かんぴ 2010年5月6日 (木) 09:40 (UTC)[返信]
  • コメントかんぴさん、出典を提示された後に確かに「全く別の」といってしまうのは、不適切かもしれませんので撤回します、一度発言を撤回し、次に同じ中津藩の屋敷で講じられていた福澤諭吉の蘭学塾が別物という主張中津藩邸蘭学所と福沢塾が同一であることを示す出典、既に、岡見彦三、公式HP慶應義塾の起源(ところで奥平家がわたしをその教師に使うので、その前、松木弘安(こうあん)、杉亨二(こうじ)というような学者を雇うていたようなわけで、わたしが大阪にいるということがわかったものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べということになって、ソレでわたしを呼びに来たので)で提示済かと。--114.153.234.210 2010年5月8日 (土) 19:50 (UTC)[返信]
発表済みの情報の合成になっています。--rshiba 2010年5月9日 (日) 05:27 (UTC)[返信]
  • 「「全く別の」といってしまうのは、不適切かもしれません」とは述べましたが、私は「同一だ」と認めていません(「全く別」としては、「何の関係もない」のような意味になってしまいかねないから撤回しただけ)。私のコメントにもブレがあって申し訳ありませんが、私の見解はともかくとして、出典さえ出てくればそれでよいのです。さて、岡見彦三は、個人サイトですので、信頼できる情報源といえません(繰り返しになりますが、私は個人的な勉強のために出典を望んでいるわけでなく、Wikipediaに掲載する上で必要な出典を求めているのです)。念のため墓誌の引用部分を検討してみると、「奥平中津藩開明派の重臣。江戸藩邸において蘭学塾を開く。」というのは、1858年開設のの福沢塾のことを指しているのか、それとも、それ以前に蘭学塾を開いたことを指しているのかは判断できない記述です。ですから、いずれにせよこれは1858年以前に蘭学塾があったことを示す出典ではない。また、公式HPですが、「学者を雇うていた」とありますが、前述のとおり、「塾」の形態で教えていたことを示してはいません。百年史・七十五年史でも同様に、教授させていた旨は記されているが、塾を開かせていたとはどこにも書かれていない。きちんと、1858年以前に「塾」の形態で蘭学が教えられていたということがわかる出典をお示しください(第一の出典)。次に、仮に1858年以前に蘭学塾が存在していたとして、百年史によると、松木・杉の両者が蘭学を教授していたのは、鉄砲洲の中屋敷とは別の場所です。そして何より、公式HPだけでなく、七十五年史・百年史、いずれの資料を見ても1858年以前にあった蘭学塾と同一のものであったことを示す記述はなく、それどころかどの資料も起源は「1858年」と明記しています。ここまでハッキリと「慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾に由来」「開塾は安政5年10月中旬(西暦1858年11月15日~25日)と確認された」と明言している公式HPが「慶應義塾の起源は1858年以前」とする根拠となり得るわけがありません。よって、これらを否定するからには、福沢塾開設前から存在していた蘭学塾と福沢塾は同一であったことを示す出典をお示しください(第二の出典)。--かんぴ 2010年5月9日 (日) 08:21 (UTC)[返信]
  • かんぴさん、これだけ公式サイトも含めた情報を掲載しているのにまったく理解されていないようですね?では金沢大学名誉教授・阪上正信氏のPDFをまずおだししましょうか[5]


江戸屋敷の蘭学好きの上士族、岡本彦三が藩邸に蘭学塾を開きたいと、前に薩摩藩の松木弘安(後の寺島宗則)、杉享二も雇ったが、教師とし藩の諭吉に目をつけたのである。

ちなみに何故大阪大学の人物一覧適塾の塾生が入っているのでしょう?かんぴさんはとどのつまり「慶應義塾の関係者」という包括的な人物カテゴリを理解していないのでは?そして『慶應義塾』について自分で勝手に解釈するのは止めた方がいいかと。--124.101.177.227 2010年5月25日 (火) 17:26 (UTC)[返信]

  • ブロック破りユーザーと議論するのが適切なのかはよく分かりませんが、とりあえず返答しておきますね。何度も述べた通り、「公式サイト」は、慶應義塾の起源を1858年と明言しております。公式サイトを根拠とするなら、「1858年が起源」という結論で議論は終了です。さて、やっとそれ以外の出典を示していただけましたので、それについてお答えしますが、その資料は問題があり過ぎです。「信頼できる情報源」とは到底言えません。まず、著者と思われる阪上正信氏は放射化学の専門家であって、近代史の専門家でも慶應義塾の研究家でも何でもない。「岡本彦三」という明らかな誤植があることからも、氏がこの件に関して特に専門的な知見を有しているわけではないことが明らかです。次に、あなたが引用した部分ですが、参考文献として「福翁自伝」となっている。そして、「福翁自伝」に記載された以上の情報は書かれておらず、その部分はただの孫引きです。「福翁自伝」については、松木・杉の両者が岡見に雇われたことは書かれているが、塾を開いたことまでは書かれていません。何度も述べているとおり、松木・杉の両者が岡見に「雇われていたこと」に争いはありません。両者が塾を開いていたことを示す出典を示してくださいと述べているのです(第一の出典)。なお、大阪大学に適塾の塾生が入っているのは、大阪大学は適塾が直接の源流となっているからです。これは、大阪大学の公式な見解でもあります。要するに、慶應義塾の一覧のほうで福沢塾(1858-)の塾生が掲載されているのと同じです。大阪大学との比較において松木・杉を掲載したいのであれば、松木・杉が開いていた(とあなたが主張する)蘭学塾が、慶應義塾の直接の源流である(=福沢塾開設前から存在していた蘭学塾と福沢塾は同一であった)ことを示す出典を出してください(第二の出典)。ちなみに、公式サイトを見れば分かりますが、1858年が起源であるというのは、慶應義塾の公式な見解です。したがって、それに反する解釈をしているあなたのほうが独自解釈でしょう。--かんぴ 2010年5月26日 (水) 09:40 (UTC)[返信]


論点整理[編集]

予想外に議論が長引いているので、現時点で確認できている事実(「信頼できる情報源」が出典として提示されている事実)を列挙し、論点を整理しておきます。

議論の主題

「慶應義塾の起源は1858年以前であり、松木・杉の両者は慶應義塾の関係者である」とする見解の妥当性

争いのない事実
  1. 1858年以前、松木・杉、両者が岡見に雇われて「蘭学を教授」していた(『慶應義塾百年史』参照)
  2. 松木・杉、両者が蘭学を教えていたのは、中屋敷ではない(『慶應義塾百年史』参照)
  3. 福沢が江戸に出てくる数年前に、松木・杉の両者は中津藩を去っている(『慶應義塾百年史』参照)
  4. 1858年、福沢が中津藩の中屋敷で蘭学塾(俗に「福沢塾」という)を開設した
  5. 慶應義塾の公式見解では、慶應義塾の起源は「1858年」となっている。(慶應義塾公式HP、『慶應義塾七十五年史』、『慶應義塾百年史』、慶應義塾大学出版会が発行している『福翁自伝』巻末の年表、等参照)
争点
  1. 松木・杉が「蘭学塾」を開いていたのか?
  2. 松木・杉が開いていた蘭学塾と福沢塾は同一のものなのか?
  3. (「松木・杉の蘭学塾」の存在が確認できない、又は、その蘭学塾と福沢塾の「同一性」が確認できない場合)それでも両者を「関係者」として福沢と同列に記載することは妥当か?
議論の現状

松木・杉が「蘭学塾を開いていた」ことを示す出典が示されていません。なお、「両者が岡見に雇われて蘭学を教授していた」ことを示す出典は何度も提示されていますが、この点については争いがないところです。問題は、それが「蘭学塾」であったかどうかです。塾でなかったなら、そもそも福沢塾(後の慶應義塾)と「同一」である可能性がありませんので、塾を開催していたことは重要なポイントであると考えます。したがって、これが要求されている「第一の出典」です。

「第一の出典」が提示された場合、次は、その「松木・杉の蘭学塾」が「福沢塾」と同一であるかどうかです。別個の塾であったならば、やはり慶應義塾の起源は福沢塾開始の1858年より前にさかのぼることはありません。したがって、「第一の出典」とともに、「松木・杉の蘭学塾と福沢塾が同一であることを示す出典」が「第二の出典」として要求されています。

「慶應義塾の起源は、1858年以前の(松木・杉らの)蘭学塾である」ことを主張する側が、今までに、慶應義塾公式HP、『慶應義塾七十五年史』、『慶應義塾百年史』、『福翁自伝』等を出典として出していますが、いずれも、慶應義塾の始まりは1858年であることが明記されています。--かんぴ 2010年5月26日 (水) 10:49 (UTC)[返信]

論点整理に対するコメント

半保護[編集]

ブロック破りユーザーによる編集が継続しているため半保護としました。--海獺 2010年5月26日 (水) 03:43 (UTC)[返信]