ノート:御年寄

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主な御年寄について[編集]

 主な御年寄として永光院が挙げられている点についてですが、確かに大奥入りを果たしたときのお万の方(永光院)の地位は側室でした。そのため、何故主な御年寄として永光院が挙げられているのか疑問に思われた方もいらっしゃると思います。しかし実のところ永光院は春日局死後、実質的な支配者となり「春日局よりも恐ろしい」とまで言われていたそうです。そしてその際、大年寄(老女上座)の地位が与えられたようです。

 しかし編集者もこの点に関しては詳細を知っているという訳ではありませんので、もしこの点に関して詳細をご存知の方がいらっしゃれば、是非その点のご指摘をノートの方でお願いしたいと思います。


春日局の立場について[編集]

 春日局が主な御年寄の一人として列挙されている点についてですが、春日局が御年寄職に就いていたかどうかは明言できない点です。ノート:春日局で論じられているように、家光期の大奥は制度が確立されていなかった時代ですから、「御年寄」という職名が存在していたかどうかは定かではありません。したがって、春日局のページとの整合性を図るために「主な御年寄」より春日局を削除することを提案します。--Shelling ford 221b  2011年7月5日 21:05 +0900(JST)

永光院について[編集]

私見ですが、永光院お万の方が御年寄職を与えられたとは思いません。奥入りをしたときから大上臈であったか、家光死後に大上臈となったのではないでしょうか。確かに春日局の死後、将軍家光から「以後春日同様」に大奥を取り締まるようにと命じられていますが、加給はされても御年寄になるということはなかったようです。当時の大奥の実質的な支配者は祖心尼であったとする説もあります。

また、大年寄という名称も「徳川諸家系譜」「柳営婦女伝系」「玉輿記」などの古い文献には出てきません。創作ではないかとすら思えてきます。御年寄職の中の御用掛という役がありますが、これは江戸時代後期に新たに作られたものですので家光の奥向きには存在しませんでした。

江戸時代初期の奥向きはまだ完全に整備されているわけではありませんでしたから、春日局や矢島局らは御年寄職であったと見るべきです。家綱治世の初期には「矢島・川崎・岡山」らが大奥老女として各書状に名を残していますし。そもそも、御年寄職筆頭の役職など徳川家の奥向きには存在しません。御年寄職の中で年齢や権勢などによる力の差はあったでしょうが。

永光院は謎の多い女性です。家光没後に落飾せず、大奥にとどまったという逸話もおそらく推測の域を出ないことだと思います。218.133.111.14

老女上座について[編集]

老女上座というのはあくまでその格式であるということを表す言葉です。上臈御年寄上座格、御客会釈上座格、御中臈上座格も同様です。 実務的なことは担当せず、給与の面でのみその待遇であったと見るべきです。側室が将軍の子女を生んだことによってその待遇が格上げされても、職種が変わるということはありえません。 ですが、それだけの金と権威を集めることとなり、大奥内での発言力が強まる結果になるということはしばしばあったようです。 老女上座という格式が見られるのは江戸後期の大奥のみですから、永光院が老女上座に任じられたということは無かったと思われます。 公家の息女が上臈ではなく老女に任じられるということ自体が疑わしいことなのですが。

ちなみに、老女上座格とされた将軍側室は家斉側室お万の方・お楽の方などですね。218.133.111.14

「絵島」の名前の表記について[編集]

絵島の名前に関してですが、江島と表記される事もある、あるいは江島が正しいとする説があります。しかしここでは認知度の高さやWikipediaでは曖昧な表記とされている点などから考慮し、敢えて絵島で統一すべきではないかと考えます。ちなみに絵島が江島と表記される事があるという点に関しては絵島の項目で示されていますし、絵島生島事件の項目はタイトルは江島生島事件となっています。

奥女中の定員について[編集]

御年寄に限らず、奥女中の定員については様々な説があります。定員があったという説、定員は厳密には定まってはいなかったとする説、そもそも定員など無かったとする説。定員があったにしろ、上臈2名・御年寄7名ではなかったでしょう。 将軍付き・御台所付き・将軍生母付き・将軍世子付きの女中がいることを考えれば、それでは少なすぎるように思います。 時代によって人数はまちまちであったのではないでしょうか。--218.133.111.14 2007年1月1日 (月) 09:01 (UTC)[返信]

老女について [編集]

『奥女中分限帳』のはじめに名前が記載されている者が、老女の筆頭格であるという説があるそうです。それによると、「老女」とは上臈御年寄と御年寄の両役職を表すとされ、本項目でも記載されているような上臈御年寄が権力を持っていないという説が覆されるかもしれないのだそうです。筆頭老女に関しては、老女の中で最も勤務期間の長い者に与えられる名誉職で、だからと言って他の老女と権力面で差異があったわけではないようです。

ただこの情報が本当に正確なものなのか断言しかねているので、編集には踏み切っておりません。この件について仔細をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。Shelling ford 221b


それは私が書いたのです(汗)畑尚子や深井雅海、高澤憲治らの学説によるものですが、それが受け入れられているかどうかについてはまだまだ微妙なところでしょう。 それから、「自らの部下たる御中臈が夜伽の相手に選ばれ懐妊し、更にはその子が将軍世嗣となった場合、御年寄はその世嗣の乳母となる事があった。これによって、後々その世嗣が将軍宣下を受けた場合、その御年寄は大奥内で大きな権力を発揮する事が出来たのである。」との記事についてですが、御年寄が乳母になったということがあったとは思えませんが・・・。家定乳母・歌橋にしても、「大奥100話」などの出典の怪しい俗書でのみ取り上げられていますし、大崎などは乳母時代は一橋家の女中だったわけですから。これに関しての出典元・参考文献は何でしょうか?--飲んでも飲まれるな 2007年4月15日 (日) 16:24 (UTC)[返信]

「御年寄はその世嗣の乳母となる事があった。」 この部分に関して、ノートに移動させていただきました。異論のある方はこちらにその論拠をお示し下さいませ。--飲んでも飲まれるな 2007年4月23日 (月) 11:33 (UTC)[返信]

「自らの部下たる御中臈が夜伽の相手に選ばれ懐妊し、更にはその子が将軍世嗣となった場合、御年寄はその世嗣の乳母となる事があった。これによって、後々その世嗣が将軍宣下を受けた場合、その御年寄は大奥内で大きな権力を発揮する事が出来たのである。」という記事に関してですが、幾つかの間違いがありましたのでお詫びいたします。 正確には、将軍乳母から御年寄となる事があるということでした(参考文献:田村栄太郎・著「江戸城」 ISBN 4-639-01807-X)。Shelling ford 221b

右衛門佐の立場について[編集]

「大奥の奥」(著・鈴木由紀子 ISBN 4-10-610191-2)の中で、右衛門佐が御台所付上臈御年寄から将軍付御年寄に付け替えられ、筆頭格とされたと記載されていました。これまでに調べてきた書籍等の資料を見る限り、右衛門佐は確かに、五代徳川綱吉から大奥女中の総支配を命ぜられたという記述はありましたが、御年寄の、しかも筆頭格になったという記述は初めて見ました。この件に関してご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。

その本はまだ読んだことはないのですが、映画・ドラマ大奥に便乗した『歴史読み物』の類ではないでしょうか。宝永6年の将軍付の大奥女中分限帳によれば「豊原、常盤井、高瀬、富岡、川島」とあります。右衛門佐の死去したのは宝永3年で、この分限帳に記載されていませんから確実なことは言えないのですが、老女『豊原』がこの後も長きに渡って筆頭の座にあることから、それ以前も筆頭老女であった可能性が濃厚です。--飲んでも飲まれるな 2007年5月5日 (土) 09:50 (UTC) (追記)老女というのは「上臈御年寄・御年寄」の2役(場合によっては大上臈・小上臈も含む)のことです。右衛門佐が「御台所付上臈御年寄から将軍付御年寄に付け替えられ、筆頭格とされた」というのは、その本の筆者はもしかすると「御台所付き上臈御年寄から将軍付き上臈御年寄の筆頭老女になった」というのを曲解したか誤読したのではないでしょうか。右衛門佐が筆頭老女となったという確実な資料を見たことがないのではっきりとは言えませんが。--飲んでも飲まれるな 2007年5月5日 (土) 15:59 (UTC)[返信]

御年寄の呼称について[編集]

大奥総取締の呼称に関して、同様の説明を「右衛門佐」の記事で行なっているほか、関連する記事の中で普通に「大奥総取締」という呼称が用いられている点から、「大奥」の記事で統一的にこの件に関する説明を行なうのが相応しいのではないかと考え、この項目を敢えて削除いたしました。なおその編集に関する「編集内容の要約」を記述する際にキーの押し間違いにより編集が重複してなされた件に関して、混乱をきたした事をお詫びいたします。 --2007年4月30日18時12分 Shelling ford 221b