ノート:小川三知

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

作品の帰属[編集]

国立科学博物館明治大学については、三知本人が亡くなって何年も経ってからの竣工だし、デザインしたのも別人。「三知作品」に入れるのは無理があると思う。  --忠太会話2013年5月26日 (日) 14:29 (UTC)[返信]

確かに厳密な意味では、そうかもしれません。だから、小川スタジオ作品と注記しました。ただ、実際はもう少し複雑です。科博の場合は、大階段左右のグラスモザイクと地下食堂(現在は事務所)欄間嵌入のステンドグラスは、三知生前に作られた設計図どおりに小川スツヂオの職人らの手で作られてそのまま現存しており、三知が深く関わった工房作品として記述しても許されるでしょう。ドームおよび回廊部は、伊東忠太がデザインしたものを小川スツヂオが制作しており、確かに三知作品とは言い難いですが、そこは一緒に注記すべきでしたね、すいません。明治大学本館講堂の場合は、三知が病床にある時竣工し、三知の体調がいい時は弟子たちに指示して三知夫人をハラハラさせたという話があります。確かに最終的な完成は弟子たちの手によるわけですが、明治大学講堂はほぼ三知最後の仕事になったわけで、これを記述しないというのもおかしいでしょう。--Foldingfan会話2013年5月26日 (日) 20:53 (UTC)[返信]

ご返答ありがとうございます。再度資料を見直しました。

  • 明治大学記念館が昭和7年竣工とあったのですが、調べてみると、復興第3期建築工事(記念館)が昭和3年3月昭和2年11月に竣工しており[1]、この建物で間違いなければ、三知作品と言ってよいでしょうね。
  • 科博について:
「大階段左右のグラスモザイクと地下食堂…欄間嵌入のステンドグラスは、三知生前に作られた設計図どおりに小川スツヂオの職人らの手で作られて」ということですが、「三知生前に作られた設計図」=昭和2年9月の図面(参考文献P6,P13-15)は文部省建築課が作成した図面です。また、博物館の着工は昭和3年4月、三知の逝去は昭和3年10月ですが、この時点で「小川三知にステンドグラスの依頼があった」ことを示す根拠は、特に示されていません。
(文献P8には、大正14年の日記の記述が挙げられていますが、これは東京府美術館に関する資料で、博物館とは関係のないものです)
(三知夫人の手紙を読んでも、いつ受注したかは書いてありません)
科博のステンドグラスと小川三知自身との関係については、何とも言えないと思います。 --忠太会話2013年5月27日 (月) 13:23 (UTC)[返信]
【付記】参考文献は「昭和初期の博物館建築」(東海大学出版会)です。--忠太会話2013年5月28日 (火) 11:36 (UTC)[返信]
  • 「昭和2年9月の図面(参考文献P6,P13-15)は文部省建築課が作成した図面」と書かれますが、直ぐ後のP16に「三階階段部分のグラスモザイクは昭和二年の下図案がそのまま生かされた(原図案・小川三知)」とあり、少なくともこの時点で契約が結ばれ、原案に三知が関わっていたと見られます。また、P8の大正14年の日記の記述を東京府美術館に関する資料と言われますが、東京博物館は大正15年起工予定だったのが遅れており、三知死後も博物館の仕事が続いていることを鑑みると、田辺氏が推測しているように三知の生前に博物館と契約が結ばれ、死後も契約が継続したため小川スツヂオに仕事が振られたと考えたほうが妥当でしょう。そもそも三知夫人に、いくら周りの人から助けてもらってたとはいえ、博物館と契約できほどの力があったとは思えませんし。
  • 確かに科博のグラスモザイクは、三知の下図案から複数人の手を経る過程で少なからぬ改変も加えられていますが、三知が関わっていないかといえば決してそうとは言えないわけで、説明が必要なのは確かですが特筆性は十分満たしていると考えます。--Foldingfan会話2013年5月27日 (月) 16:27 (UTC)[返信]

ご返答ありがとうございます。

  • 「昭和2年の図面」「昭和2年の下図案」として文献P13~15に紹介されている図面は、全て博物館所蔵の図面で(P21に出典記載)、文部省建築課(柴垣課長)がまとめた図面です(P48~49)。その図面に書き込まれているステンドグラスが「原図案・小川三知」であることがなぜわかったのか疑問です。
  • 大正14年の日記についてですが、当時はまだ博物館の「設計案はまとまってない」「施行者も決まっていない」という段階であり、「ステンドグラス制作者だけは決まっていた」というのは不自然です。当時、東京府美術館が建設中であり(大林組施工、大正13年9月着工、大正15年4月竣工[2])、三知と大林組が契約を交わしている(P8)のは、東京府美術館の件です。
  • 従って「三知存命中にステンドグラスの制作依頼があった」ことを明示する資料は(参考文献から判断する限り)見当たりません。とは言え、全否定する資料もない訳なので、三知存命中に工事が始まっており「関与の可能性あり」ということなら結構かと思います。  

どうも失礼しました。 --忠太会話2013年5月28日 (火) 11:33 (UTC)[返信]

一部修正[編集]

  • 明治大学記念館(正面中央部分、6階建)は、第三期工事で昭和2年8月着工、昭和3年3月竣工。
  • 明和病院(旧同和病医)を追加。黒沢ビルの竣工年を訂正。
  • 新喜楽の年代は不明のはず。
  • 小千谷市の物件は、非公開(誰も確認してないはず)なのでコメントアウト。
  • 科博はやや怪しい(上述)ですが、三知の育てた職人が制作しており、残しておきます。 --忠太会話2013年6月9日 (日) 15:28 (UTC) 2013年6月9日 (日) 11:26 (UTC)[返信]