ノート:官営八幡製鐵所

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八幡製鐵所の読み方について[編集]

※タイトル追記--Triglav会話2020年6月11日 (木) 06:37 (UTC)[返信]

八幡製鐵所の読み方について 八幡は「やはた」または「やわた」と読むようですが、 八幡製鐵所は「やわた」では? 参照先:http://www.keidanren.or.jp/japanese/profile/1p-club/news/news058.html Miya 10:39 2004年2月5日 (UTC)

外部リンクに挙げてあるホームページのアドレスでは yawata となってますね。U.S.S.Momotaro 10:52 2004年2月5日 (UTC)
あ!ほんとですね。では、違いがはっきり分かるように"なお、工場が設立されたのは□□県八幡(やはた)村だが、八幡製鐵所は「やわた」製鐵所と読む。”と、定義の最後に加えてはどうでしょうか?←実は自信が無かったのでごまかしていたのでしたf^-^;)。羅美唖さん、気づかせてくださって感謝!です。Miya 11:38 2004年2月5日 (UTC)

念のため、八幡製鐵所にメールで問い合わせたところ、結論としては「やはたせいてつしょ」で結構、とのことです。Miya 05:38 2004年2月6日 (UTC)

  • 参考)
    • 創業~昭和9年1月29日までは、「製鐵所」
    • 昭和9年1月30日~は、「やはたせいてつしょ」(八幡製鐵所)

  • もう廃部になりましたが、新日鐵八幡野球部のユニフォームは「Yawata」になってましたね。これに便乗して、福岡県立八幡高校の野球部ユニフォームも「Yawata」になってます。 Yoshipie nofear1983 2005年12月31日 03:11(JST)

やはた or やわた?[編集]

以下、新日鐵OBに聞いた話です。

・八幡製鐵所が建設されたのは当時の八幡(やはた)村。

・地元では八幡製鐵所も「やはたせいてつしょ」と読んでいた。

・しかし、ローマ字では「YAWATA」と表記。  (これは新日鐵で使用されている古い機材にも刻印されているそうです。)

・本社では「やわたせいてつしょ」と読んでいたようだ。

以下、小生の考察です。

・「八幡」には「やはた」「やわた」「はちまん」など多様の読み方がある。

・Yahooで検索した限りでは、特に地域ごとでの読み方の規則性ははっきりしなかった。

・本社(東京)の誰かが八幡を「やわた」と読み、それを正式の名称としたのではないだろうか?

・一方、八幡市(現北九州市)では「やはたせいてつしょ」の読みが定着していた。

・新日鐵が各地に製鉄所を展開する際、多数の北九州出身者が全国に移住した経緯がある。

・八幡製鉄と富士製鐵の合併により新日鐵が発足、社名としての「八幡(やわた)」は姿を消した。

・それに従って、地元式の「やはた」の読みが定着したのではないだろうか?

どちらが正しいとも間違っているとも言い難いようです。


操業開始の日はいつ?[編集]

今日は操業開始の日とNHKのラジオでいっていましたが、ネットでみると開始日が一定ではありません。 いったいいつが開始日なのでしょうか?Izayohi 2004年11月18日 (木) 08:04 (UTC)[返信]

起業祭は例年11月3日を中心に行なわれてます。てっきり11月に起業したと思っていました。 ちなみに昭和30年前後には、起業祭期間は小学校が休日になっていたようです。 また昭和60年ごろまで、工場見学ができるようになっていました。

旧かなづかひ[編集]

やはたorやわた?の論議で旧カナについて触れられていないので、老婆心ながら申し添えます。(老婆ではなく昭和38年生まれの男です。私自身は旧カナ時代の実体験はありません。実体験していた年長者たちからの伝聞をもとにした考察です)。

終戦直後までは旧仮名遣いの時代だったので「やはた」か「やわた」かを区別する必要がなかったのです。年長者からの話で「旧カナの時代には田原さんや石原さんの読みをいちいち確認しなくてよかった。新カナになってハラとワラを区別するようになった。」ような伝聞記憶があります。 その時代のことを推測すると、シチュエーションによっては「読み方はYawataであってHachimanではない」ということを伝えたいときに「八幡の読みは“やはた”」と書くこともありうるわけです。

私は、この会社に関して特別な知識は何も持ち合わせてはおりません。私の推測が全く的外れなのかもしれませんが、今後これを目にする若者が誤解することのないようにと願い、記しました。(私にとってはむしろ“製鐵所は「じょ」でなくて「しょ」と読む”ことに思いを新たにしました) 220.96.35.131 2006年3月11日 (土) 13:44 (UTC)[返信]


沿革の官営製鐵所時代について[編集]

本文に、 「操業当初、技術上の問題から故障が多発、銑鉄がほとんど取れず、11月18日の作業開始式では国の高官が集まっていた中、銑鉄の練成に失敗し、高官たちは茫然となってしまった。その後も銑鉄がほとんど取れず、それに伴い赤字が膨れ上がり、遂に1902年7月に操業を停止する事態となってしまった。

その後、1904年2月に日露戦争が勃発した。鉄の需要が急激に増えたため政府は製鐵所の操業再開を決め、急激な需要増に対応するよういち早い再開を求めたが、製鐵所を設計した東京帝国大学工学部教授・野呂景義は原因が分からないままでの再開はいけないと反対し、まず現場の者から聞き取り調査を行った。その声を元に野呂は高炉を改良し、7月23日、高炉に再び火が入った。改良は成功、多くの銑鉄を得ることができた。」

と書いてありますが、 高炉にどういう欠陥があって、銑鉄が取れなかったのでしょうか? また、どのように改良して銑鉄を取れるようにしたのですか? --123.216.103.30 2008年1月16日 (水) 14:25 (UTC)[返信]


先日、初めて東田記念公園にある高炉を見てきました。その関係で、この「ノート」に気づきました。佐木隆三著「宿老・田中熊吉伝」によると、当初の高炉には、1.構造が適切でない、2.コークスが不適切、3.操業技術が拙劣、という3つの問題があったそうで、これらの結果として原料が高炉内をうまく循環せず、生産が滞ったようです。そこで、まず、製鉄に適したコークスを生産するためにコークス炉を新設し、1904年4月6日に第2次火入れを行いました。しかし、高炉内で原料が詰まり、17日間で操業停止に追い込まれました。その後、高炉の容積を1割ほど小さくする改造を行い、出銑後の送風停止を行わない操業方法を行うこととして、7月23日に第3次火入れを行ったところ、その後は順調に操業できた、ということです。--Come-j 2008年10月1日 (水) 08:26 (UTC)[返信]


もう1点、「宿老・田中熊吉伝」からの情報です。本文に「11月18日の作業開始式では国の高官が集まっていた中、銑鉄の練成に失敗し、高官たちは茫然となってしまった」とありますが、佐木隆三の本も、当初の出銑作業では穴が開かなかったと書いています。作業にはタイミングがあるようで、その30分後に再度作業を行ったところ、すんなりと進み、歓喜の声が上がり、拍手が鳴りやまなかった、ということです。--Come-j 2008年10月1日 (水) 09:01 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

八幡製鐵所」上の2個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月26日 (火) 12:43 (UTC)[返信]

改名、再編成[編集]

他の日本製鉄の製鉄所と名称をそろえるため改名。--Customsprofesser会話2019年5月1日 (水) 03:24 (UTC)[返信]

コメント この記事の記事名がこれまで、他の製鉄所のように「新日本製鐵八幡製鐵所」にも「新日鐵住金八幡製鐵所」にも改名されず、「八幡製鐵所」のままにされてきたのは、2019年4月17日 (水) 03:48 (UTC)の版の編集の要約でたびびと551さんが言及されているように、歴史的建造物としての八幡製鐵所のことも考慮してのことではないでしょうか。そうすると、これまでと特段の状況の変化がないのであれば、今回の社名変更にあたっても、歴史的経緯を踏まえて「八幡製鐵所」のままとすることも一案かと思います。歴史的建造物としての側面についてはどのようにお考えでしょうか? --おいたんし会話2019年5月8日 (水) 10:02 (UTC)[返信]
コメント ご意見がありましたのでもうしばらく議論の推移をみたいとおもいます。私としては沿革的価値はありますが、現役の製鉄所であり表題をそろえるべきかと思います。--Customsprofesser会話2019年5月9日 (木) 04:10 (UTC)[返信]
コメント 歴史的建造物ととしての側面を有することを明らかにしつつ、日本製鉄の他の製鉄所の記事名との整合性も保つため、この記事の沿革の節の官営製鐵所時代等の部分を残して歴史的建造物ととしての八幡製鐵所の記事とし、残る部分を分割して現存する日本製鉄の製鉄所についての新たな記事にすることを提案します。また、分割するにせよ、改名だけを行うにせよ、分割・改名後の記事の内容を八幡地区・戸畑地区・小倉地区を包含するものとして記事名を「日本製鉄八幡製鉄所」とするか、記事の内容を八幡地区・戸畑地区のみに限定して記事名を「日本製鉄八幡製鉄所・八幡地区・戸畑地区」等とするかについては検討が必要とも考えます。既に新日鐵住金小倉製鐵所という記事が存在するので、この記事との関係をどのように考えるのかも要検討です(2014年の新日鐵住金成立以前は、それぞれ別会社の事業所であった八幡地区と戸畑地区がひとつの記事にまとめられているのだから、八幡地区・戸畑地区・小倉地区を包含する記事にするのなら新日鐵住金小倉製鐵所を統合することが適当と考えることもできるし、逆に、新日鐵住金小倉製鐵所を「日本製鉄八幡製鉄・小倉地区」に改名して独立した記事のままとするのなら、この記事も「日本製鉄八幡製鉄・八幡地区」と「日本製鉄八幡製鉄・戸畑地区」に分割することが妥当かもしれません)。いずれにせよ、検討すべき事項は多岐にわたるので、現時点で、単にこの記事を「日本製鉄八幡製鉄所」に改名することには賛成しかねます。日本製鉄大分製鉄所でのような拙速な改名は避け、これらの点について検討を尽くした上で、改名、分割、統合等の記事の整理をすべきと考えます。 --おいたんし会話2019年5月16日 (木) 11:13 (UTC)[返信]
コメント ご意見ありがとうございます。私としては現在の企業のサブ記事であることから、日本製鉄の組織の体系に準拠すべきだとか考えます。従って、

八幡製鐵所を日本製鉄八幡製鉄所に改名し、小倉地区を含めた記述とする。新日鐵住金小倉製鐵所は統合扱いとするか過去に存在した事業所の記事とする。

歴史的建造物ととしての八幡製鐵所は、現在のところ冒頭の数行しかなく独自記事の基準にみたいので現状維持としたい。なおこれを拡充して世界遺産の全体のなかでふれる方がおられれば歓迎します。なお若干関連しますが、光地区の記事も、鋼管工場は大分製鉄所のなかで記述し、光チタン部は独立記事を作成し、新日鐵住金光鋼管工場は過去に存在した事業所の記事としたいと考えています。--Customsprofesser会話2019年5月20日 (月) 05:49 (UTC)[返信]

コメント そのような考え方であれば、この記事や大分製鉄所だけでなく、同様に複数の地区からなる君津製鉄所や和歌山製鉄所の記事にも大きく影響しますので、まず、ノート:日本製鉄で共通の方針を検討すべきでしょう。この記事だけ先行して改名や統合を行うことには賛成できません。 --おいたんし会話2019年5月24日 (金) 22:50 (UTC)[返信]
コメント ご意見ありがとうございます。ご提案に従いノート:日本製鉄で日本製鉄関連記事の編集方針を提案させていただきました。これにより合意されたら八幡についても作業します。--Customsprofesser会話2019年5月27日 (月) 02:36 (UTC)[返信]
コメント ノート:日本製鉄での日本製鉄関連記事の編集方針が確定しましたので、それにより小倉地区の記事を統合します。統合の時点で改名も実施します。--Customsprofesser会話2019年6月19日 (水) 03:02 (UTC)[返信]

記事名の変遷[編集]

なお、

--miya会話2020年6月5日 (金) 04:09 (UTC)[返信]

ノートページの移動履歴[編集]

--Triglav会話2020年5月26日 (火) 14:41 (UTC)[返信]