ノート:妙円寺 (日置市)

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大内義弘と石屋眞梁の件[編集]

この寺の立地条件、及び大内氏島津氏が薄縁であること(例えば、大内氏と島津氏の間に婚姻関係が結ばれたことは一度もありません)から、この地に大内義弘の娘の菩提寺が建てられるとは考えづらいです。また、島津義弘石屋眞梁は全く生きていた時代が異なるため、物理的に帰依することは不可能です。これらの記述に関して具体的な史料などをご存じの方は、ノートにて御教示お願い申し上げます。--こぶまき 2007年11月21日 (水) 05:13 (UTC)[返信]
  • 大内義弘と石屋眞梁の件の質問についての解答
まず前段のご質問の(大内氏島津氏が薄縁であること…)ですが、伊集院家が現在の伊集院町を支配していた頃に伊集院長門守忠国の子息である石屋禅師が妙円寺を建立したということです。この頃の伊集院家は南朝方でしたので、北朝側の島津氏とは敵対関係にあったわけであります。妙円寺は島津氏が建てたのではなく、大内家が建てたのです。また石屋禅師は九州の南北講和の際に功を立てたとありますので、その縁で、大内氏は伊集院家出身の石屋禅師に、息女の供養のため、妙円寺の建立を頼むその土台は充分にあったと言えます。戒名は(法智妙円大姉)。妙円寺の名前は、この戒名からとったものとされており、現在でも位牌が安置されているそうであります。現在山口県にも、この石屋禅師開山の禅寺が、いくつか存在するそうであります。後段の:ご質問、(物理的に帰依することは不可能です…)ですが、帰依とは、今生きている人間だけにではなく、先人の教えや神仏を信仰する意味も含まれているかと思います。妙円寺境内の石屋禅師碑の碑銘を町田経宇氏が書いていますが、義弘公は「慶長九年島津義弘公 開山(石屋禅師)の偉徳を追崇し 妙円寺を以って自己の菩提寺と定め…」とあります。これは帰依の意味を含むと思われます。とはいえ、今回はわかりやすく、石屋禅師の部分を妙円寺と改めさせていただきます。以上です。ご質問ありがとうございました。--新屋敷小三郎 2007年11月21日 (水) 以上のコメントは、122.22.214.40会話/投稿記録/Whois)さんが[17:23]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。
  • 建立の経緯について
通りすがりの者です。『日本歴史地名大系・オンライン版』(『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年~2002年 を基にしたデータベース)で妙円寺の項目を見ると、「石屋禅師は伊集院忠国の子で、島津元久室の弟(=元久の義弟)であった[1]」とあります。という事は元久の妻も伊集院忠国の子であって、
>伊集院家は南朝方でしたので、北朝側の島津氏とは敵対関係にあった
という新屋敷さんのご記述に関しては、若干しっくりしない様な気もします。
また、「島津元久は曹洞宗に帰依して1387年に石屋真梁を開山に招き、伊集院城の北東の地に妙円寺を創建した[2]。なお、1390年に創建という説もある[3]。」と明記してあり、
>妙円寺は島津氏が建てたのではなく、大内家が建てたのです。
というご説明とは真っ向から対立しております。もしよろしければ「大内家が建てた」としている文献の名前をご教示頂ければ幸いです。突然で申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。--Okapia2 2007年11月21日 (水) 21:34 (UTC)[返信]


  • 建立についての経緯について。のご指摘と質問について。
前段の発言に対しての、ご指摘については、いくつかの郷土史の記憶によるものでしたが、明らかに私の間違いです。失礼しました。この頃はむしろ、島津氏と伊集院氏は関係をより深くしていた時期でありました。後の「伊集院頼久の反乱」と混同していた部分もあります。申し訳ありませんでした。発言を撤回させて頂きます。
>2番目の島津元久は曹洞宗に帰依して1387年に石屋真梁を開山に招き、伊集院城の北東の地に妙円寺を創建した。と、ありますが、それは鹿児島市の福昌寺の事ではないでしょうか。>元久が伊集院城(一宇治城)の北東の地に妙円寺を創建した。とは私の知っている限り聞いたことはありません。島津元久は曹洞宗に帰依して1394年に石屋真梁を開山に招き、今の玉龍高校の場所に福昌寺を建立した。とは聞いております。ただ当時の統治の状況からして、妙円寺建立の経緯について、そのような記述もできようかとは思いますが3番目の質問ともからめて納得しかねるところです。
大内家と妙円寺の関係については、姶良の祖父の家に文献が残っていると思われますので、また調べてみたいと思いますが、私は宗教関係者ではありませんが、例えば一般企業に寺を当てはめた場合、オーナー(この場合大内氏)を誰とするか、開山(社長 石屋禅師)は誰なのか、でしょうが、この妙円寺の場合それにプラス他国(薩摩)で建てられているため、統治機構、つまり島津氏と伊集院氏の関係が付け加えられるのが、より妙円寺建立の経緯を複雑にしているものかと。明治2年廃仏により貴重な史料が焼失されたのもおおいに影響があるかと思われます。また、妙円寺詣りがなぜか徳重神社で行われる事実もあって、明治以降現在まで偏った史料によって歴史が伝えられてきたこともあるものと思われます。
今、手元に有力な史料がないのが残念ですが(祖父の家でなんとか調べたいと思います。)
妙円寺に残されている、法智妙円大姉の位牌が当時のものであれば、いかなる文献よりも、それを物語るものだと思います。また、山口県に現存する石屋禅師を開創とする寺院も大内家と石屋禅師の深い関係を示す史跡であるかと思われます。(Yahoo!大内家 石屋禅師で検索)
>妙円寺は島津氏が建てたのではなく、大内家が建てたのです。
これは面妖ながら事実であると確信する次第であります。
Okapia2さん、ご指摘と御質問ありがとうございました。--新屋敷小三郎 2007年11月22日 (木)以上のコメントは、122.22.214.40会話/投稿記録/Whois)さんが[2:17]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。
  • 問題提起をさせていただきましたこぶまきです。外部の人間が容易に確認できない史料に基づく話があるようで確認をとれないのが残念ですが、もし確認できましたら、写真(特に大内氏の娘の物という位牌の写真)を含めた資料を当項目に書いて下さると後学の助けになるかと思います。
ところで、新屋敷様。文末の署名についてですが、どうも手入力されていると見受けました。署名はここの上の方に説明がありますが、(1)ここの右から2つ目のサインがくねくね書いてあるようなボタンをクリックする(2)「--~~~~」をすべて半角で入力する…のどちらかで簡単に署名できますのでご利用下さいませ。 --こぶまき 2007年11月22日 (木) 02:34 (UTC)[返信]


こぶまきさん、ご親切にありがとうございます。まだ操作がちんぷんかんぷんでどこをどうしていいやらワケがわからない状態です。後、手元に資料を置いて確認しながら書かないと誤解を招きますね。勉強になりました。しかし、この項目には自信がありますので、言い出してしまった以上。伊集院まで取材に行こうかと思っております。その時は位牌のことを書きたいと思います。ではご指導どおり---~~~を実行してみます。ありがとうございました。--122.22.214.40 2007年11月22日 (木) 04:09 (UTC)[返信]

新屋敷さん、丁寧なご回答を頂きありがとうございました。
>>元久が伊集院城(一宇治城)の北東の地に妙円寺を創建した。とは私の知っている限り聞いたことはありません。
という点に関しましては、地図を見ると城山(伊集院城跡)の北東に徳重神社があり、位置は問題ないと思います(元久の関与の根拠は前述の文献の通りです)。そして
>それは鹿児島市の福昌寺の事ではないでしょうか。
とのご指摘に関しては、妙円寺の項目の中に別途「元久は1394年に石屋を開山に招き、福昌寺を建立して菩提寺とした[4]」と書いてあり、どちらも元久が石屋を招いて開山した事になっています。これは福昌寺の記事の建立年代などとも矛盾はないようです。また大寧寺について調べて、仰るような大内氏と石屋の関係が理解できました。お手数をおかけする形になって申し訳ありませんが、妙円寺の創建に関する史料をお待ちしております。以上、どうぞよろしくお願いいたします。--Okapia2 2007年11月22日 (木) 04:55 (UTC)[返信]

Okapia2さんコメントありがとうございます。歴史の真実を探求することはとても楽しく、このような議論はとても有意義に感じます。 なにせ下手な文章でご迷惑をお掛けいたします。

妙円寺も福昌寺も石屋禅師開山です。 妙円寺は廃仏で焼かれるまでは現在の徳重神社の場所にありましたので、確かにそうですね。

だとすれば、『日本歴史地名大系・オンライン版』(『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年~2002年 を基にしたデータベース)は私が昔祖父の家で読んだ妙円寺の由来についての文献との対立と言うことになります。(しかし「元久が建立を許可」が建立となる認識で書かれたデータであるとすれば、また別の問題になりますが) また、その文献と合致する法智妙円大姉の当時の位牌が現在の妙円寺にあれば、この禅寺は間違いなく大内家が建てた寺と言うことになるのではないでしょうか。逆に考えれば島津元久が建てた寺であれば大内氏の息女の位牌がある必要がないわけであります。

以前一度行った時は、石屋禅師の記念碑を見て帰っただけでしたが、今度は初めに質問くださったこぶまきさんとOkapia2さんの納得がいくような伊集院への取材になればいいと思います。近々妙円寺へ“敵中突破一人妙円寺詣り取材”を敢行したいと思っております。 今後ともよろしくお願いいたします。--122.22.214.40 2007年11月23日 (金) 22:02 (UTC)[返信]

これが大内氏の息女の位牌だそうです。

一人でと言いながら、結局今回は樋之口と二人で行ってまいりました。ちょうど人がいらっしゃいまして、本堂に上がらせて頂き、許可を得て撮影いたしました。住職さんはちょうどいらっしゃらなかったのですが、帰ってネットで調べましたところ、これは雲首形と言う最も古い部類の位牌のようで、それに飾りがついています。やはり、鎌倉時代~室町時代に多くみられるようです(位牌のほうで詳しい方いらっしゃいましたらご意見をくださいませ)飾りがないもの(雲首形と思われる)位牌も他にありましたが、誰の位牌であるかはわかりませんでした。文献のほうは少々お時間くださいませ。--甲突又次郎&新屋敷小三郎&樋之口大吾郎 2007年11月28日 (水) 13:12 (UTC)[返信]

  • (インデント戻します)問題提起から1年近くが経ちまして、取りあえず根拠となるデータが出そろったこと、また問題の箇所を書いた甲突又次郎&新屋敷小三郎&樋之口大吾郎会話 / 投稿記録 / 記録氏もこの1年近くwikipediaにアクセスした形跡がなく、これ以上の内容の検証及び発展が期待できないことなどから、いったん締めさせていただきます。{{告知}}タグもいったん外します。この件に関する情報をご存じの皆様の協力を今後ともよろしくお願い申し上げます。--こぶまき 2008年10月15日 (水) 01:15 (UTC)[返信]

脚注[編集]

  1. ^ 『町田氏正統系譜』
  2. ^ 『島津元久譜』
  3. ^ 『伊集院由緒記』
  4. ^ 伊集院氏系図