ノート:国電/過去ログ1

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要出典について

なんだか、酷電やゲタ電に要出典範囲が張られたようですが、このような一般的に趣味界で語られた用語に対して、要出典範囲を張られるという意図がわかりません。確かに出典の明記は加筆者にあるわけですが、だからと言って出典の無いものをあれもこれも「要出典」などとするのは嫌がらせ以外の何ものでも無いと思いますね。それに、なぜ直接編集をされるのでしょうね。ノートというのがあるのだから、ノートでまず確認をすれば良いのに。たぶん、自分がその言葉を見付けられなかっただけなんだろうと思いますが、きちんとノートなどに提起したりすれば、知ってる人が現れるかもしれないのに、なぜ拙速に編集しようとするのでしょうね。

ウィキペディアではわれ先にと編集しようとする傾向を良くみかけます。じっくり他人と意見を交換しつつ記事を直そうとか言う気持ちになれば、まず知っている人がいないかどうか確認すべきじゃないかと思うんですけどねぇ。はぁ、それにしても「酷電」に「ゲタ電」ですか・・・・

知らない事は恥じるべき事では無いと思うのですが、それぞれのジャンルの方がいるわけですから、まず確認すべきでしょう。それが「要出典範囲」なんでしょうが、それってその記事内容に精通してる者が「今まで聞いた事も無いんだけど」というような場合に使って欲しいですねぇ。ちょっと調べれば多くの場所で使われている言葉に対して、自分がそれを知らないがために「要出典範囲」を貼り付けるなんて、ウィキペディアを学校か何かと勘違いなさってるのかなとも思います。たとえで言うと「日本の首都は東京です」というような文章に「要出典範囲」を張ってるようなもんなんですよ。「いや、オレ日本の首都が東京だって書いてある文献見た事無いから、それを示してくれ」と言って張るなら、それは他ユーザーを疲弊させる行為でしょう。こういう自分が知らないだけで要出典を貼り付ける行為は慎むべきじゃないかと思いますね。イチイチ私が探す必要は無いのですが、酷電は講談社鉄道の旅32号、ゲタ電はイカロスの国電物語に書いてあります。

なんていうか、知らないなら知らないなりのやり方ってのがあるのにねぇ。そもそも、この人、鉄道のジャンルに詳しくないわけだから出典があるかどうかなんて知りもしないわけでね。他のいくつかの湘南特急だかなんだかも近年の趣味誌に掲載されてるし。もっと調べてから付けて欲しいね。というのは、自分がこのジャンルの事を知らないんだから、自分一人で判断するのであれば、本当に出典が無いと言うウラをとってからやるくらいはして欲しいです。出典の明示は加筆者だからと言うのでしょうが、先の日本の首都は東京です並の馬鹿げた要出典を張るのであれば、それは記事を良くしようと考えてるのではなく、単なるルールを盾にしたアラシ行為です。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 15:21 (UTC)

永尾信幸さんの履歴を拝見しましたが、ほぼ小生と同じ頃から関われていらっしゃるからにはWikipedia:出典を明記するはご存知ではと推察します。本記事は出典明記が全くありませんので、取り急ぎ出典を要請するタグをつけます。小生は知見のある方々との「意見交換」とは出典の質の事を指し、出典が明記されていないとそのステージにさえ到達しないWikipediaの方針を満たさない状態にあると思います。良質な出典が沢山明記されることを期待致します。--Babi Hijau 2011年6月10日 (金) 16:45 (UTC)
大変申し訳ないのですが、私の書いた内容を見直してもらえますか?出典になる文献を書いてあるでしょう?あなたも鉄道関係にはあまり詳しくないようですが、出典が書かれているのに、それを見つけれない状態で本文を編集されるのは如何なものでしょう?先の方どうように、ルールを盾に取ったアラシみたいな感じに思うのですが。とりあえず、本文の方を直してもらえますか?だいたい要出典などを書かれる方に限って、出典があってもそれを認めようとしないとか、それを確認しようとしないのですねぇ。人に「出典の明記を求める」なら、人から出典を聞いたら、当然自分で確認するくらいの事はしてもらいたいものです。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 17:22 (UTC)
ではまず、出典を記事に書いていただけますか?なお、「参考文献」などで逃げるのではなく出典書籍のページ(または、小生は好んで文献上の「節」を表示しています、そういう方法もご参照下さい)を脚注形式でよろしくお願いします。読者は普通ノートなど見ないと小生は思います。Wikipedia:出典を明記するはノートにではありませんし、Wikipediaで書いている我々は「読者とは誰か」をもっと認識すべきと考えます。--Babi Hijau 2011年6月10日 (金) 17:52 (UTC)
あのぉ?あなたは、どこが出典が無くて問題なのか理解して書いてきてるのでしょうか?単に「出典の明記」などの単語が気になって出てきただけでしょうか?「日本の首都は東京です」にも要出典を張る勢いですね(笑)それにしても、すぐに本文を編集したがりますね。そりゃ編集合戦が起こるのも無理は無いかなと感じます。読者はノートは見ません。編集者はノートは見ます。今、語ってるのは、出典がある無いの区別がつかないジャンル外の方が、出典が無いだろうと自分で思い込んで要出典をあちこちにばらまく編集に対してであって、読者に対しての話じゃありませんよ。あ、本の方はきっちり確認してくださいね。出版元と本の名称がわかれば図書館でも見れるでしょうし。よろしくお願いしますね。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 18:01 (UTC)
例えばBabi Hijauさんの塩化アンモニウム編集なんかでもさ
  • 天然では火山活動及び泥炭の自然発火により生じる
  • 天然に産出する鉱物は塩化アンモン石と呼ばれている
  • 天然では、ダイオウイカなど一部のイカの仲間が浮力を得るために塩化アンモニウムを体内に保有している場合がある
  • 特定のイカにある”えぐみ”はこのためである。
  • NH3 + HCl → NH4Cl
とか、要出典だよね。他人の記事にどうこうする前に、自分が関わってる記事の出典をもっと明記した方が良いんじゃないの?
いやいや、こんな書き方されたら、誰だって揚げ足取りとか思われたりするじゃないですか?ま、そういう部分じゃないかなと思うんですけどね。出典の明記自体は賛成ですけど、自分が無知なジャンルに口出しするってのは勇み足に感じます。結局、あなたは、私が出典を示したところで、それが記事に合致してるのかどうか、まず調べないでしょ?あぁ、出典がついて良かったくらいにしか思わない。それでイイのかって話もありますよ。
一部では、ありもしない出典を明記して検証可能性逃れをするヤカラもいるようです。だからこそ、要出典と言うのは、言う側と出す側が協力するような形でないといけないと思うわけですよ。協力するに当たって、そのジャンルの記事の事を何も理解出来てなければ、誰も協力なんてしてくれません。ですから、要出典はつけてもらって良いのですが、まずその記事に書かれている内容を理解出来る方でないとうまくいかないんじゃないでしょうか?餅は餅屋と言いますからねぇ。そうそう、参考文献としてあげておきますね。脚注形式でなきゃならんとは書いてもないですし。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 18:23 (UTC)
◆他の場所に挙げられているであろうコメントを読まずに書きます。
1. 誤解しているかもしれないのでまず説明しておきたいのが、私は「記述内容に疑問がある」と思って{{要出典}}を貼っているわけではありません。そして、仮に長期に渡って出典が付与されなかったとしても、それだけの理由で除去しようとは考えていません。{{要出典}}を{{正確性}}の意味で使っているような人を見たことがありますが、私の{{要出典}}付与にはそのような意味合いはありません。あくまで純粋に出典を求めているだけです。そのあたりのニュアンスの違いや私がどう考えているかを知りたければ、「Wikipedia:井戸端/subj/長期間「要出典」タグが付与された記述の編集除去について」を参照してください。時間経過だけの理由を以って記述除去されるべきとは考えていません。
2. どうも私が「知らないことを知るという知的好奇心を満たすために出典を求めている」と誤解しているかのような発言が随所に見られますが、もしそう考えているならそれは誤解です。Webで多少調べた限り、「ゲタ電」については用語を主題とするような書籍も存在するようだというところまで判っています。しかし悲しいかな、そこまでしか判りませんでした。そして、「調べごと」のためにこの記事を訪れた読者(ということはこの記事主題に詳しくない人もいる)にとっても同程度にしか容易には判らないわけです。「記事を読むには基礎知識くらい覚えてから来い」というスタンスを是とする考えには賛成できません。分野によってはそういうのもありだと思います。理系記事は基礎知識がないと読み解くのが難しい面もあるでしょうが、そこまで落として解説する必要もないと思う部分はあります。しかし、日常にありふれた用語の解説においては、基礎知識なくとも読み解くことができ(あるいは詳細な解説が必要ならその部分を他の記事に委ねるように内部リンクし)、興味ある人にはそれについて深く勉強できる文献を提示してあげるのがいいと思うのです。それなしには結局、執筆者の自己満足の場になってしまうのではないでしょうか。後、追加しておくと、Babi Hijauさんと同じことを書きますが、読者は調べごとに来たのであってノートでの議論のやりとりを見にきたのではないのですから、大抵はわざわざノートを見ないでしょうし、ノートに記すことは読者に出典を提示することにはなりません。
3. 「酷電」に限らず、蔑称の類には出典が必須と考えています。Wikipediaにおける法的リスクを最大限に抑えるためには、出典が必須だと考えています。の場合はとりわけそうですし、団体の場合もそうです。この点において「酷電」のケースは「ゲタ電」のケースとは大きく異なります。なぜ出典不要と考えるのか、その理由をご提示ください。上に書いたことを読む限り、「Wikipedia:名誉毀損」の冒頭に記されている≪名誉毀損(訳注:もしくは信用棄損)にならないことを保証するのは「寄稿者自身の責任」≫という部分を軽視しているのではないでしょうか?いやそれ投稿したのは私じゃない、ということかもしれませんが、要出典を外すという行為は≪名誉毀損(訳注:もしくは信用棄損)にならない≫ことを目指して私が行った行為の妨げでしかありません。妨げるなら妨げるに値する(つまり「Wikipedia:名誉毀損」を覆すだけの)理由を提示してください。
個人的には、{{出典の明記}}が付与されている現状、「ゲタ電」については{{出典の明記}}があれば充分と考えますが、「酷電」については{{要出典}}の併設が必要と考えます。まあ、出典足り得る情報源をご存知の人もいらっしゃるようですので、出典付与していただくのが一番だとは思いますが、付与しないなら{{要出典}}の併設が必要と考えます。あるいは一旦除去の上で、「蔑称を記事にどうしても記したいんだ」という立場の人によって、出典とともに再記載いただくのがいいと考えます。--NISYAN 2011年6月10日 (金) 18:29 (UTC)
別のノートでも書きましたが、記事の編集の事を言ってるんですよ。
  • この記事を訪れた読者(ということはこの記事主題に詳しくない人もいる)にとっても同程度にしか容易には判らないわけです。「記事を読むには基礎知識くらい覚えてから来い」というスタンスを是とする考えには賛成できません
読者は無知で良いんです。だから辞典を見に来るわけだから。ただ、記事を作成する側の話をずっとしてるんですけどね。
その記事内容に無知な者が、その記事にクレームを付けるという行為が、やっぱり常識から逸脱してるだろうと思うわけです。もちろん、出典の明記は私も賛同するルールですし、守るべきものと思いますが、まず出典があるだろう項目と、まず出典が無いだろう項目、どちらを優先順位として先にやるかです。ルール通りでいけば、文節毎に「要出典」です。まぁルール上それで良いんでしょうが、普通は馬鹿げてます。(最終形としてそうなるのはいいですが)では、まず出典が怪しいものから除去する行為をしていくのが手順じゃないかと思うわけですが、その判断がジャンル外の無知な方にできるのかって話です。酷電やゲタ電を要出典としていますが、同じこの記事の中にある一部の年配者は現在もJRを指して「国鉄」・「国電」と表記及び表現する場合があるがの方がよっぽど要出典でしょうに。
つまり、ジャンル外の方が来てやることについてはダメとは言いませんし思いませんが、その優先度も含めて、そのジャンルの方と相談しながらすすめていって欲しいと、まぁ最初から一貫してこういう連携というような話はしていますが、それをしてもらいたいと言ってるだけです。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 19:11 (UTC)
参考文献として加筆いただきありがとうございます。加筆いただいた以上は、この記事の当該記述においてはこれ以上の出典を求めるつもりはありません。人によっては記述と出典の対応を求める人がいるかも知れませんが、私はそこまでは求めません。また、≪一部の年配者……≫については先の一覧で問題となった事柄ではありませんので、私は今のところ関与するつもりはありません。それについて疑問に思う人が現れるなら「ああ、疑問に思う人がいるのね、なら出典あるほうがいいと思う」とコメントするかもしれませんが、現状そういう人が現れていない以上、その記述に対して私は今のところ関与するつもりはありません。
永尾信幸さんが基本線「怪しい記述の出典付与を優先する」というスタンスであることを私は否定していません。ただ、私は「怪しい記述の出典付与を優先する」だけでなく、「過去に記載不記載で論争のあった記述の出典付与を優先する」というスタンスでも行動しています。そして、ある一覧記事に含まれる項目群において論争がありました(一応書いておくと、私が削除依頼を提出していない側の一覧です)。だからそれらの項目の一つが記載されているこの記事において出典を求めました。私は永尾信幸さんのスタンスを否定するつもりはありませんが、逆に私のスタンスを否定されても困ります。それでもなお私のスタンスに疑問があるのなら、記事の改善のために設けられた「Help:ノートページ#記事ページ」ではなく、私の会話ページあるいは利用者へのコメント依頼をお使いください。出典の必要性に対する個人個人の考え方を話し合うためにこの場を用いることは不適切と考えています。--NISYAN 2011年6月10日 (金) 19:49 (UTC)
各々のスタンスがあって良いのですが、相手に対しての配慮が無いとトラブル原因の一つを作るって事だけじゃないかと思いますので。下の方が鉄道関係の事を全く知りもせず、たぶんこの記事のどこが出典不足なのかもわかりもしないで「要出典」などを張ってる状態を見れば、それがいらぬ争いの種になるのは目に見えてますからね。私が当初から言ってるのは「ルールだからやってる」は別にいいでしょう。でも、それを盾に何でも押し通そうとするとトラブルし、良い協力や応援も得られないと言うことでしょう。それをルールに従わない不届き者だと思うのは勝手ですが、人対人でやってるプロジェクトですし、いくら決め毎だと言っても、ずかずかと土足で踏み込んできて言う事だけ言って帰って行くなんてのは、やはり誰からも良い目で見てはもらえないでしょう。そんな事もあって、連携や相談をしつつすすめて欲しいと言ってるだけなんですけどね。別に出典の明記というルールを覆せとも言ってませんし、検証可能性に基づくこれら出典の明記は私自身賛成なのですから。
読者の立場を本当にお考えなら、その記事が正確性を持ったものになるかどうかまで考えて貰いたいものです。今回も、私が出典なる書籍を加筆しただけで、もうこの件を終わらそうとしていますが、なぜ私が出典として出した書籍が気にならないのか。私は「検証可能性」を重視するなら、その出典に目を通すのは最低限行うべき事だと思いますけどね。
結局、要出典を張る事が仕事になっていて、出典が明らかになっているのかどうかのチェックすらしない(出典になるだろう書籍が記載されるだけでチェック完了という感じになっている)で満足してるわけで、その程度の事までしか出来ないのであれば、要出典をあちこちにばらまくのは無責任じゃないかとは思います。
ただ、相談があれば、私もこのジャンルの書籍を百万頁近くデジタル化してますので、比較的協力はしやすいかと思っていますが、単に「後はやってよ」とか「そちらにお任せします」とかじゃぁ、ちょっとねと思います。--永尾信幸 2011年6月11日 (土) 01:11 (UTC)
私の目的は「要出典を貼ること」ではありませんが、「この分野の執筆者による出典付与の習慣付けの糸口となること」ですから、この分野に詳しい方によって出典が貼られた時点で私の目的は達せられています。後はこれをきっかけに、鉄道系の記事においても出典が付与されることを切に願います。なお、仮に私が出典を確認しても、記述が正確あることが確認できるのみです。そこは永尾信幸さんを信用していますし、他の、この分野に詳しい人が出典記載を容認していることからも想像できますから、あえて確認するまでもないでしょう。そして、より上位の出典が存在するか、記述併記すべき別の情報記述を検討する必要があるかなどについての判断は私にはできません。そういった、より上質の出典あるいはより上質の記述への昇華は、その道に詳しい方々の間で行っていただければと思います。最後に、そういった私の行為を無責任というなら、そういう利用者の行動に対する指摘は、記事のノートではなく会話ページあるいは利用者のコメント依頼にお願いします(2回目のお願い)。--NISYAN 2011年6月11日 (土) 03:22 (UTC)
ここでの会話は流れ的に他に移動するとわかりにくいので、ここで結構ですよ。別に利用者の行動に関する話だけと言うわけでもないですから。
出典を明記するという部分においては、編集者が誤りを犯しにくい状況を作る事で非常に大事です。様々な記事で、過去に様々な文献によって記述があれば、自ずと同じ事を語っていても微妙に著者によってニュアンスが違ってきたりするものです。だから、様々な記事を持ち寄って、何がこの記事にふさわしい出典になるのか等を協議検討していかねばなりません。検証可能性を満たしつつ、不用意な編集合戦を防ぐには、先に使えない出典を明確にする事も大事です。
つまり、出典を明記するというのは、記事の発展に非常に関与している事なのです。例えば同じ言葉でも、昭和30年代に使っていた意味と昭和50年代に使っていた意味が微妙に違ったりする。そういうのは、単に全文検索などで言葉を見つけただけで出典があったとか言う感覚ではわかりにくいのかも知れませんが、出典がいくつもあるのであれば、それらを比較し検討することが百科事典の編集として大事ではないかと思っています。
そういう意味では、要出典と他の人に聞いておきながら、それを教えてもらって確認しないのは、私としてはちょっともったいないし、何の為?とは思いますが、それがNISYANさんのスタンスであればそれは構いません。ただ、先にも書きましたが、そうやって張り逃げ的な形であるなら、なかなかそのジャンルの方と密な連携は取りにくいのではと思うわけです。
また、出典付与の習慣づけの糸口というのも何か自己満足的な感じを受けますが、うわべだけの出典付与を広めたところで、機械的な対応にしかならないような気がしますね。もっと、出典を多く出して、それを付き合わせる楽しさを編集者に教えるなどの方が良いと思いますけどね。そのためには、自分も出典を持ち寄って中に入って、この記事の検証可能性を確実にすると言う意志を広める方が協力は得やすいでしょうね。
実際、出典などいくらでもつけようと思えばつけれます。井戸端にあったようにサービスとは思ってませんが、その記事を編集するであろう方々にとって常識的なと判断できる部分については割愛しますね。検証可能性を満たさないかもしれない複数の根拠があるような場合とかは、編集合戦を防ぐためにも出典を明記することや、ノートにその根拠を記すなど編集者の混乱は防ぎたいなとは思ってます。
くどくどここに書いてるのも、出典というのが単に一つの文献にあれば良いと言うものでもなく、できれば複数文献を付き合わせるような事をする方が良い。それは百科事典という読者に記事を読ませる立場であるなら、当然の労力ではないかと思うわけで、要出典タグというのは、もっと有益な使い方をしてもらいたいと感じますね。出典を知れば、それを元に記事を見直す。そういう編集者が増えて欲しいものです。--永尾信幸 2011年6月13日 (月) 15:13 (UTC)
どういえばうまく伝えられるか判りませんが、一応伝えようと試みてみます。
そもそも1件目の削除依頼を見たとき、私は読者の立場として記事を見ました。自身がその分野に詳しくない記事を読むというのは、きっちり書いてある記事に巡り会えば、結構楽しめるものです。なかなかそんな記事に出会えることはありませんが、私が知らず、私が執筆者として到底関われない他分野(以下単に他分野と記載)の記事を書いていただける人がいる。他分野の記事を大抵そういう想いで見ています。私が余程のことがない限りケースEを根拠とした削除票を投じないのはそのあたりが根底にあるのですが、それはともかく、この一覧記事がなければ知ることのなかった俗称が載っていました。いかにもこじつけに見えるものも多数ありましたが、そうでなさそうな(調べたら確かにそうでない)ものもちらほら見えました。惜しむらくは、削除依頼が提出されており、自称長年の鉄道ファンという方ですらそんな俗称聞いたこともないと削除票を投じていて、まもなく削除される可能性が高いということです。だから≪他分野の記事を書いていただける人≫のことを想像しながら、存続票を投じました。「無知な読者が編集者になるなんておこがましい」(意訳、もしニュアンスが違うならご指摘ください)というスタンスの人には、この気持ちは判らないかもしれませんが、読み応えのある記事に成長するポテンシャルを持っていながら(と私は思っていました)、「その分野における常識であれば、たとえ蔑称であろうとも出典など不要」と大半の加筆者が考えていたかどうか判りませんが、その分野に詳しい人たちによって出典付与を省かれてしまったがために、せっかく巡り会えた他分野の情報は削除されてしまいそうになっている、そして「この記事(のちゃんと成長したもの)を継続して読みたい」と思ったから、無知ながらも存続に向けての行動を起こしていたわけです。その分野の人が、「この分野においては俗称一覧など不要、だから個別記事に出典付きで俗称書こう」だとか「俗称一覧はありだが、消されないように出典付けよう」だとか、私が読者視点で巡り会った他分野情報が消されることのないような手立てを、その分野の人が行ってくださるなら私が執筆者サイドで関わる必要もないのですけど、現実はそういう状況じゃなかったと。
それでも、読者(である私)が「この記事(のちゃんと成長したもの)を継続して読みたい」から、プロジェクトに持ちかけ、無知と自覚しながらも≪うわべだけ≫などと言われながらも出典付与し、存続票を投じることは非難されるようなことなんでしょうかね。消されるような記事にするくらいなら、そのプロジェクトで方向性(この分野においては俗称一覧など不要、とか)を決めて、読者の立場の人にそのような情報を見せてしまったがために削除されるという虚しい気持ちにならないような手立てを取っていただくことはできないものなんでしょうかね。プロジェクトでそういったことができないなら、今後も同じような関わりをすることは避けられないだろうと思います。ここでいくら言葉を交わそうが、それは参加者のスタンスの根底に関わるところですから、お互い変えられるものではないでしょう。
それから多分≪そのジャンルの方と密な連携は取りにくい≫とおっしゃる部分にも勘違いがあるのでしょうね。この分野の執筆者の方々と、私は執筆者という立場で連携を取るつもりはありません(というか、連携というようなほどの有用な立場で私が関われるわけがない)。読者という立場で嫌な想い(記事が削除される現場に遭遇すること、削除されるような中途半端な状態の記事に出会うこと)をしたくないだけであり、その延長上に、削除を見たくないからこその存続させるための行動があるだけです。だから、≪出典を多く出して、それを付き合わせる楽しさ≫に私がこの分野で関わることはないと思います(セキュリティ系記事を中心としたコンピュータ系記事ならありえますが、その分野は、こうやって話をできる相手に遭遇することすらほとんどない分野だったりします)。
本当に言いたいことは上に書いたところです。他は枝葉でしかありませんので、長文にもなってきていますので、割愛します。--NISYAN 2011年6月13日 (月) 18:41 (UTC)
私もどういえばうまく伝えられるか良くは分かりませんが、NISYANさんが、類似記事が削除議決を受けたために、今回の記事についても危機感をもって当たってくれたのは見ていて感じました。ただ、その時にも書いたのですが、もう少しそのジャンルの方に出てきて貰いたかったなと言う想いはありますね。出典自体は多くにつけれたと思うのですが、問題はある方も書いてましたが、一度何かに書かれていたら大手を振って出していてイイのかって事で、出典があってもその記事でその著者がポッと書いたようなものは排除するなど、内容の整理というのは必要不可欠であったかとは思ってます。ですので、たとえ存続していても、多くの記述がカットされると共に、それ以外の記述については少し加筆して厚みを増したものが最終形になったのかなとは感じますが、ただ、当時の投票時のコメントにも記しましたが、私自身はその記事については興味があるものではありませんでした。
その意味では、削除になろうがどうでも良いと書いたわけですが、ただ、興味は無くても例えば出典になるようなものをお持ちじゃないですかと言われたら、いくつかは出して来ただろうし、相応な協力は出来たかと思っています。私だけでなく、このジャンルでいろんな加筆をされてる方だったら、それなりに助言をいただけたのではと言う想いはあります。そういう部分をしてもう少し連携があったらとか、相談があったらとか言う事なのです。これは最初から言ってる部分ですね。
一方、出典に関しては簡単に一言でいえば「日本の首都は東京です」に要出典範囲を記すような事は控えて欲しいと言うだけの事です。もちろん、ウィキペディア的に考えたらそこに出典はありでしょうが、そういう言葉遊びになって欲しくないって気持ちです。本当に「この記述に出典があるのか?独自研究じゃないのか?」という疑惑がある部分にはどんどん張っていって良いと思ってますよ。ただ、その「独自研究じゃないのか」と感じる側が、その記事についてわかってないと、それこそ独自研究かどうかの判断そのものが独自研究になるわけなので、そこで専門のジャンル以外にはあまり手を出さない方が良いと言っていただけです。それ以外に深い意味はありませんし、私も検証可能性を満たす記事が増えてくれる事を願っていますから、出典を求めたり、出典を付き合わせたりする事についてはとても有意義と感じてるわけですが、東京に要出典を張るような編集をされると編集者として「もう少し勉強してから張ってよ」と思う、ただ、それだけの事です。また、要出典の貼り付けなどに反論すると、すぐに独自研究反対、出典を明記しろ、検証可能性を守れ的な方が現れます。そういう方々を見てると、本当に言葉遊びの部分に足を突っ込んでるんじゃないか、そういった気持ちになることもありますね。--永尾信幸 2011年6月14日 (火) 04:56 (UTC)

(永尾信幸さん 2011年6月10日 (金) 18:23 (UTC)へ)これは素晴らしい回答を戴きました。小生は「自分のできる範囲」でやっていましたが、永尾信幸さんのように過去から今後まで加筆されるすべての記事でご指摘のようになさるのですね。小生は追加できる出典で限定的に加筆できることを行っていましたが、永尾信幸さんが加筆時に細かに要出典を過去の記述者に求め、その答えを導かれようとされるなど、とても小生は出来ません。この態度での今後のご活躍を拝見させて戴きますので、応援致します。何かとお騒がせしましたが、お詫び申し上げます。--Babi Hijau 2011年6月10日 (金) 18:44 (UTC)

はいはい、すばらしい嫌味の回答をいただきました。
  • 永尾信幸さんが加筆時に細かに要出典を過去の記述者に求め、その答えを導かれようとされるなど、とても小生は出来ません
なんですかこれ?独自研究ですか?
人にどうこう言う前に、率先垂範でやってくれと書いただけなんですが。
こういう人がルールを盾にどうこう言ってくるんですよね。だから、もっと事前に対話をしたり連携をとることを考えた方がと言う事を書いていったんですが残念ですね。人間体は一つですからBabi Hijauさんも出来る範囲は自ずと限られるでしょうが、少なくともルールを盾に強硬な手段を執り続けるならば、やはりトラブルも起こすでしょう。が、人間って不思議なもので先に相談があれば、全く対応が変わったりするものです。ま、そういう事で少し事前の配慮を頂ければなと思った次第です。ま、お互い出来る範囲でやっていけば良いんじゃないですか?--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 19:00 (UTC)

いえいえ。小生は率先垂範で加筆時には残酷に消す方でしたので。よろしければ、本国電項でおっしゃるお手本を是非ご反映下さい。今後の参考にさせて戴きたく存じます。--Babi Hijau 2011年6月10日 (金) 19:13 (UTC)

いやね、私はBabi Hijauさんほど、ウィキペディアに関わる時間はありませんのでマイペースでいきますが、Babi Hijauさんは、他の方に出典を細かくでも分けてやればと言うような事を言うわけですから、それこそBabi Hijauさんが直接関わってる記事では、当然そうなってるのかなと思っただけです。Babi Hijauさんが主張している事なんだから、Babi Hijauが関わってる記事は当然そうなってるとやっぱり思いますからね。
で、少し見させて頂いたところによると、どうもおっしゃってるように出典がついていない所に要出典が張られていないんですね。これはどうしたことか?あれほど出典の明記を言われていたBabi Hijauさんの編集してる記事なのにと疑問に思ったわけですよ。
だから、先にBabi Hijauさん自身が、自分の編集してる記事をBabi Hijauさんの理想像に仕上げて欲しい、それを率先垂範と言わせて貰ったんですが、現状では範を示せてないですよね。その状態で他にしゃしゃり出てというのはどうなのかと思っただけなんですよ。
それはそうと、おっしゃるお手本ってのがわかりませんね。その前の要出典を過去の記述者に求めて云々もそうですが、出典を明記すると言っておきながら、会話内容は独自研究だらけに感じるんですけど。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 19:44 (UTC)

「参考文献」を加えられた改訂を拝見しました。井戸端で「自分が関わってる記事」と仰っしゃった上は、誰かのいいかげな加筆をどうされれるのか、おそらく大変でしょうが、応援致します。--Babi Hijau 2011年6月10日 (金) 19:30 (UTC)

  • 自分の知識が及ばない所にしゃしゃり出てどうこうすべきものでもないでしょう。まず、自分が関わってる記事からまずおやりになればどうですか?
これですか?うそぉーーーーー。「まずおやりになれば」という表現が私からBabi Hijauさんへというのは誰だってわかるでしょうに。それを、私が私のために書いたと思い込んでるんですね。あかん、ちょっと怖いです。このノートの上にも同様な内容の事を私はBabi Hijauさんに書いてるわけですからねぇ。
うわぁ、ホントに怖い。--永尾信幸 2011年6月10日 (金) 19:44 (UTC)

上において何をおっしゃられているか判断しかねますが、Wikipediaが無数の「匿名」利用者が書いている限り、出典明記という基本が如何に重要か、認識に置いて戴きたい、と思います。ある「出典」が絶対ではない例はクリストファー・コロンブス注釈をご覧下さい。「自分がよく知っているから」では決して済まされないという謙虚な態度を、特に近年小生は持っています。本当に「怖い」のは、伝聞など不確かな追記を「参考文献」では排除できない事です。

現状のご主張では、鉄道関係の記事で貴殿が「これは違う」と思われた箇所に要出典貼りつけるなり削除なりされた際「お前が無知なだけだ」と要約欄で差し戻されたらどう対処されるのか、と懸念します。荒らし扱いは、別な利用者(今回では小生)が出たら成り立たないと取るべきと思います。

余談ですが、上で急に口調を変えられたのか気になります。小生は永尾信幸さんが言及される行動を取られるならば凄いことだと一貫して賞賛し、他意はありません。いずれにしろWikipediaとは何かをお得意の分野をベースに思索を巡らせて戴ければと存じます。--Babi Hijau 2011年6月10日 (金) 20:51 (UTC)

怖いの意味がわからないのですか?もう一度書きましょう。
  • 自分の知識が及ばない所にしゃしゃり出てどうこうすべきものでもないでしょう。まず、自分が関わってる記事からまずおやりになればどうですか?
と井戸端で書いた事に対して<井戸端で「自分が関わってる記事」と仰っしゃった上は、誰かのいいかげな加筆をどうされれるのか、おそらく大変でしょうが、応援致します>と返してきてる部分が怖いと書いたわけです。
「まずおやりになれば」という表現が私からBabi Hijauさんへというのは誰だってわかるでしょうに。
という私からBabi Hijauさんへの問いかけである点が理解出来ていないというのが怖いと書いたんですねぇ。
で、
  • 小生は永尾信幸さんが言及される行動を取られるならば凄いことだと一貫して賞賛し、他意はありません
で、私は何をすると言いましたか?私は、あなたがそう思うなら、まずあなたがやりなさいと言っただけですけどねぇ?私はこうしますなんて言いましたでしょうか?
通常の会話がままならない人が、何をして出典を他人に要求できるのかって思いますが、出典が明示された後にきちんと確認していただけてるんでしょうね。まさか「要出典の張り逃げ」で出典が出された事だけで満足する自己満足に陥ってませんか?
  • 鉄道関係の記事で貴殿が「これは違う」と思われた箇所に要出典貼りつけるなり削除なりされた際「お前が無知なだけだ」と要約欄で差し戻されたらどう対処されるのか
良く意味が飲み込めませんが、別に構いませんけど。
仮に私がこれは出典が無いだろうと言う部分を削除した後に、お前が無知だと言われたら、そこからノートで議論が始まるでしょうね。無知かどうかはそこで判断つくでしょう。ただ、結局お前が無知だと書いていた方が間違っていたら、そう書いて来た方の顔はつぶれるだけの話ですからね。
単にそれだけの事ですよ。で、そうやってきちんと調べて加筆や修正をしない人は、どんどん間違いを指摘されて惨めになるだけの話なので、きちんと出典を持たない人は肩身が狭くなっていくだけなんですよ。--永尾信幸 2011年6月11日 (土) 01:58 (UTC)


ふりだしに戻してすみませんが、「酷電」や「ゲタ電」に出典を要求するのは正当か。これは正当と思います。国電から JR へ移行したのは 24 年前ですから、今の十代ならば「国電」という言葉からして馴染みがない。ましてその別称が一般常識のはずがありません。従って出典の要求は正当であり、むしろ「はぁ、それにしても「酷電」に「ゲタ電」ですか・・・・」と溜息をつく永尾信幸さんの「常識」感覚に首を傾げてしまいます。出典のありかを具体的にご存知だったなら、NISYAN さんの編集をリバートするのでなく、淡々と記事本文に出典の文献を加筆なさるべきでした。次からはそうなさってください。--116.118.211.56 2011年6月13日 (月) 08:16 (UTC)

脚注化ありがとうございます。ふりだし。いえ、別に構いませんよ。今の十代なら知らないと言われても、知らないなら編集しないことです。読者がと言うのであれば、百科事典であって辞書と違うというような表現をよく見ますが、単なる用語解説じゃないですよね。多くの出典に基づいて、ある程度物語調になっていて入り込めるというのが百科事典の醍醐味でもあるわけですが、ならば読者は「へぇ、そうなんだ」と見れば良いわけです。で、本当にその成りゆきなどが聞きたければ、ノートで確認するとか、加筆者の利用者ページにお邪魔するなどの手を取れるわけです。興味もないものが出てきて要出典というのは何だろうと感じるわけですね。ましてや、出典を示してそれを確認するわけでもなく・・・
今回の話は編集者として得意でもないジャンルに手を出す必要な無いだろうという点が最初の問題点です。国電という記事を執筆する者にとって、ゲタ電やら酷電を知らずに編集するというのは無謀と言うものでしょう。誰でも編集出来ると言うのは何度も言いますが知らない事を教えてもらうためのものではないのですから。編集者として考えるのであれば知らない事があるのは構いませんが知らないなら知らないなりに加筆するには努力が必要でしょう。百科事典というのはブログや掲示板に自分の知ってる事を書くのとは話が違い、過去の膨大な文献から様々な記事を読み取って、その中から加筆するものなのですから。--永尾信幸 2011年6月13日 (月) 14:46 (UTC)
一点のみ。記事のノートは、≪記事を改善・充実する≫ために設けられています。≪記事内容への質問≫といった言葉も記されていますが、≪記事を改善・充実する≫≪あくまで、主ページの記事がどうあるべきかという観点から発言するように≫という前提を考慮すれば、それは「読者からの、記事主題に関する質問を受け付ける場所」という意味ではなく、「読者からの、記事内容に関する質問(記事内容はこう書かれるべきではないか?という質問)を受け付ける場所」という意味だと私は考えます。永尾信幸さんの≪本当にその成りゆきなどが聞きたければ、ノートで確認≫という発言からは「読者からの、記事主題に関する質問」というニュアンスは感じられますが「読者からの、記事内容に関する質問」というニュアンスは感じられません。読者が記事内容に対して感じた疑問をノートに持ち込み、場合によっては記事に反映する、例えばここに出典をつけてはどうかなどの協議は「主ページの記事がどうあるべきか」に沿ったものとなり得ますが、そうでない、「読者からの、記事主題に関する質問を受け付ける」という場としてノートを用いるのは違うと思います。--NISYAN 2011年6月13日 (月) 18:41 (UTC)
ノートに関しては理想論を言えば、記事を構築する上での過去や進行形の問題点が記されていたら良いなと思うわけです。つまり、複数の記述がある書籍がある。どちらも検証可能性を満たすわけですが、どちらを使えば良いのか。そういう議論というのは、他の資料などと付き合わせて決めるか、又は両論併記なども場合によっては行うわけですが、それらが決められたいきさつというのがノートに記されていたら後から編集する人にとっても編集するにあたっての大事な情報でもありますし、例えば読者の側が「あれ、自分が見た記述とちょっと違うな」と感じた時にノートに議論の後があれば、あぁ、こうやって編集者は採否を決めたんだと言うのがわかります。そういう意味では、ノートに出典を持ち寄り、それで検証可能性を吟味し直すというのは、非常に記事全体にとって有益な事になるかと。ただ、あくまで理想論であり、出典が無い又は出典を確認せずに思い込みで書いてしまうケースというのが多く見られるのが現状で、そんな中にあって出典を持ち寄り、そこで議論を展開出来るケースというのは残念ながらそう多くはありません。
が、ノートの記事を改善充実するためという目的を考えるならば、やはりそういう議論を展開してもらいたいものですし、そういう議論が展開されているノートに対しては、読者は質問を投げかけやすいわけです。読者の質問がまた加筆者にとって調査の対象になる事もあるからです。また、ノートが活用されていたら、読者にとっても非常に参考になるんですよね。
が、今の編集と言うのはどちらかというと、まず本文を改訂し、その根拠をノートに記すなどというのが多いです。ノートで是非を確認してから改訂じゃないんですよね。ここが不思議な所なんですが、もちろん、それだけ改編に根拠に基づく自信があれば良いのですが、編集合戦になりがちなものは、どちらかというとどちらかが思い違いをしてるケースが多かったりするわけで。
ノートに質問をと言うのは、そういう前向きな状態で考えて貰いたいと思いますね。そこは質問する所じゃないから云々と言いたい気持ちはわかりますが、質問が受け付けられやすいノートにいろんな記事がなっていたら良いなと、ま、そう言う思いが強いです。なお、質問が記事主題に沿っていれば、ウラを返せば記事を改善・充実する事につながるという点はお忘れ無く。--永尾信幸 2011年6月14日 (火) 03:54 (UTC)


Wikipedia は知識の有無に関わらず誰でも編集できます。この特殊な編集方針は、意図的なデザインです。なので知識が無ければ遠慮すべきという永尾信幸さんの主張は、Wikipedia のポリシーから明らかに逸脱しています。永尾信幸さんが苛立ちをお感じとしたら、その原因は要出典を貼り付けた側というより、永尾信幸さんが持つ Wikipedia 像と、実際の Wikipedia 像のズレにあると思えました。(元 116.118.211.56)--116.118.222.84 2011年6月13日 (月) 23:58 (UTC)
横レスすみません。永尾さんは「遠慮しろ」とは書いていませんよ。太字の部分、「努力が必要」と言いたいのだと思います。今回の件は、ある記事の削除に基づく出典の確認ですから、妥当性と必要性のある出典要求だと思いますが、中には、出典の無い記事を見つけ次第、「要出典」を貼りまくるような人もいます。貼った後、その記事をフォローするような行為があれば、まだマシですが、そんな様子もうかがえません。確かに「自由に編集できる」というルールですが、「無責任に編集しても良い」という意味ではないと思います。ですので「ルールを盾に権利ばかりを主張する無責任な編集者が出るようでは困る」という懸念に基づく発言だと思います。L25.203.l03.26 2011年6月14日 (火) 01:48 (UTC)
誰でも編集できるというのは非常に心地よい響きです。一方でウィキペディアは百科事典だからという事も良く聞かれるフレーズです。では、百科事典とは一体なんでしょう。なぜルールの中に検証可能性や独自研究の排除があるのでしょう?そういう意味では、編集側は検証可能性に基づく記述が求められるわけですから、当然ある程度の知識は必要になって来るでしょう。また、先にも書きましたが知らないなら知らないなりに、過去の文献を調べるなどの努力もして欲しいと思うところです。そういう努力をしていたら、少なくともゲタ電にしろ酷電にしろ、そう長い時間を経ずとも目にする言葉でしょうから、そこで加筆者として理解を深めれたらいいわけです。もちろん、加筆時に出典を明記していただいてもかまいませんが、編集者としては、下調べなどは行って欲しいなと思います。たぶん、要出典が良く張られるというのは、検証可能性を満たさないだろう根拠の無い表現をしたりしてしまう方が多くなったからだと思うのですが、それらの方々は話を聞いてみると、実際に資料にあまり目を通していなかったりするケースがほとんどです。その意味では知識が無い状態で編集したところで、他の方から独自研究だの指摘を受けたりして他の方の手もわずらわすし、本人もその対応に大わらわで、本来の記事を良くする為の編集が、何か加筆の言い訳ばかりの編集になるような、変な方向にも行きかねません。ですので、ある程度下調べの努力はした方が全体的にスムーズに事が運ぶのではと感じています。--永尾信幸 2011年6月14日 (火) 04:19 (UTC)

要出典を求めるに値する記述の水準

いろいろとご意見を伺いましたが、結局以下の点についての疑問が残っています。まだ、先の削除依頼で問題となった記述の、個々の記事への展開が済んでおらず、ここでの話が完了しない限りは個々の記事への展開を再開することはできませんので(それをやったら編集強硬だと思っています)、その点を解決したいと思っています。

  • ≪過去の文献を調べるなどの努力もして欲しい≫などとありますが、私は最低限の調べはしているつもりです。まあ文献にはほとんどあたっていませんが、「酷電」についてはどの文献をあたれば記載されていそうかを推測することすらできませんでした。「ゲタ電」は言葉の定義までは確認できず用語使用されている書籍の存在(『国鉄・JR博物館: リニア・鉄道館保存車全ガイド』 ISBN 978-4838722365 P.17)までしか判りませんでした。永尾信幸さんレベルの情報をお持ちなら容易に調べられるのでしょうが(実際、すぐに出典を出していただけましたし)、この分野に詳しくない一般読者にその水準の基礎知識を求めるのは酷だというのが私の考えです。永尾信幸さんがあまりにその分野のことを知りすぎているがために、「この分野に詳しくない一般読者にとって、どの程度のことが容易に調べられる事柄なのか」ということが判っていないか、あるいはその容易に調べられると考える水準が厳しすぎるのではないでしょうか?
  • この分野に詳しくない一般読者が多数疑問に思う事柄であれば、私は出典が付与されるべきだと思っています。≪いや、オレ日本の首都が東京だって書いてある文献見た事無いから、それを示してくれ≫という例を示されていますが、「日本」やそのノートなどにそういう読者が多数現れるのであれば、私は出典が付与されるのが妥当な記述だと思います。「日本」やそのノートなどにそういう読者が多数現れたかどうかは知りませんが、今回の件である「ゲタ電」「酷電」については、多くの(おそらくはその分野に詳しくない一般読者と同レベルの)利用者が記述に疑問を感じたわけです(別理由を提示されている人もいますが、少なくとも私だけの感想ではないし、そう考える人の中には自称鉄道ファンの方もいらっしゃる)。私が{{要出典}}を付与した理由は、繰り返しますが、過去にそういった記載不記載の議論があったからです。永尾信幸さんレベルの人が疑問に思わなければ、それは出典を求めるほどの記述ではない、とするのは、私は違うと思っています。
  • 読者と編集者とは違うという意見を発言されていますが、永尾信幸さんレベルの人が疑問に思わなければ、それは出典を求めるほどの記述ではない、というのは違うと思います。逆に、一般読者が調べもせず出典を求める行為は確かに疑問に感じますが、私が調べもせずに出典を求めているとするなら、それは失礼ではないかと。もちろん永尾信幸さんの調査水準には満たないでしょうが、多分一般読者の調査水準は私の調査水準に近いと思っています。それでもなお調べが足りないとおっしゃるなら、永尾信幸さんに提示いただいた出典(ないしはそれと同水準の情報源)を、そこに出典足り得る情報が載っていることを知らない一般読者がどのように知ることが可能かをお教えいただきたく存じます。なお、関連の雑誌類を隅から隅まで読むというのはなしで。その方法次第では、同様の方法を用いることで、先の削除依頼で挙がっていた他項目の出典補完に結びつく可能性があると思っています。

つまり、その分野に詳しくない人が多少調べたくらいでは容易に検証できない記述について、多数の人がその記述に疑問を持っているのであれば、それは出典付与に値すると思っています。そして、それを要求すること(より具体的には、{{要出典}}を付与すること)は妥当だと思っています。それに対して、永尾信幸さんは依然として出典付与に値しないというご意見なのでしょうか?--NISYAN 2011年6月17日 (金) 01:25 (UTC)

もう、たいがいこの手の話は良いのですけど・・・
  • その分野に詳しくない人が多少調べたくらいでは容易に検証できない記述について、多数の人がその記述に疑問を持っているのであれば、それは出典付与に値する
多数の人が疑問に思ってるってのは誰の判断ですか?独自研究ですか?自分が疑問に思ってるからと言って他の人も疑問に思ってると考えていますか?
結局、この記事には出典が必要だと自分の感覚で考えて要出典を貼り付けるってのは、その人の独自研究に他ならないんですよ。
そういうのが発展すると、どこかで書いたように「俺が知らん事が書いてあるから要出典だ」「どこに書いてあるか教えろ」なんて奴も出てくるわけ。
そもそも、多数の人が疑問に思わなければ出典を示さなくても良いんですか?記事の正確性はどうなるんですかねぇ?記事を編集していたら、それくらいは気に掛けて欲しいと思うんですが。単に出典が出たら満足で内容不問なんだったら、記事の正確性や検証可能性などを求めての行動では無いって事ですよ。
先にも書きましたが、言葉遊びにはならないで欲しいってだけなので。ルールにはこう書かれているから、これは正当だ!とかね。
日本の首都は東京というのに要出典を何とも思わないのであれば、何を言っても無駄でしょうし、そういう編集を続けて、そのジャンルの編集者に黄色い目で見られたとしても、それは自業自得で済む問題でも無く、そのジャンルの編集者に余計な手をかけさせてるという部分では、言葉遊びの行き過ぎは困りものじゃないかと。
  • 一般読者が調べもせず出典を求める行為は確かに疑問
いやいや、これは逆、一般読者だから調べてないのよ。調べて無いから知らないのは当然。だって知らないから百科事典で知識を得ようとしてるんじゃない?
何かを疑問に思って聞きたくなるのは当然じゃないかな?ただ、本の百科事典を読んでいて、わからないところがあるからって著者に聞きに行ったりするか?って事はあるけど、幸いウィキペディアは編集者へのアプローチが比較的しやすい。利用者ページに挨拶なども含めて聞きに行くことも可能だし、漠然たるものならノートなどでも使えない事もない。ただ、読者が単に自分が知らないからって記事中に要出典を貼りまくるってのはどうなのか?
百歩譲って、読者が記事の内容で不明点があるので要出典を貼ったと、それに対して編集者から出典の明示があった。そうしたら、聞きに来た読者は当然その出典を確認しますよね?自分が知りたいから貼り付けてるわけですから。
が、要出典厨と言う方々がちまたにいますが、そういう方々は、要出典を貼るけど、出典が出ても確認するわけでもない。単に言葉遊びにしかなって点がね、気になってるわけですよ。これがエスカレートすると、ほんとに自分が「いる」と感じたら何でもかんでも要出典とかしかねませんからね。
で、読者は無知でも良いけど、編集者はこの記事をよくするためにやろうとしてるんだから、調べて無いと困るわけ。編集するのにこの記事の事を知らずに踏み込んで何かやるってのは、当然間違いも起こしやすいし、それは裏返せば読者にも誤った説明を見せることにもなりかねないわけ。だから、編集者は少なくとも編集に当たっては過去の文献を多く当たろうとするだろうし、疑問が出たらノートなどでの議論にもなろうかと思ってます。当然、そういう中において要出典を活用することは何の問題もなく、むしろ、記事内容の正確性、検証可能性などを向上させるために必要なプロセスではないかと思っています。
  • ここでの話が完了しない限りは個々の記事への展開を再開することはできませんので(それをやったら編集強硬だと思っています)
この話の完了と編集の再開とは因果関係は無いと思いますが。自分が編集したいと思えばすれば良いだけです。それに、私は「要出典」の貼り付け自体がダメだとかルール違反だとか言ってるわけでもないわけですから、必要な箇所に貼るのはそれこそ推奨されてる事です。また、私がルールブックというわけでもありませんしね。被災地で炊き出しをやっていた所に保健所が来て、ここでは法律上炊き出しはダメですとか杓子定規にやりすぎると、いい目では見られないというただそれだけの話なんですから。--永尾信幸 2011年6月17日 (金) 12:53 (UTC)
私は、私の行動に指摘を行った人が、私の行動に対して依然納得していないし、私が行動を継続することを問題視しているという認識でいます。そして、問題視の度合いが「私の今後の行動継続に対して何らかのアクション(ここあるいは他の記事やプロジェクトのノートなどでの指摘再開、利用者のコメント依頼提出など)を行うつもり」なのか「困ったちゃんだと思うが、その行動には関与せず放置」なのかによって、話が変わってきます。その点に対する永尾信幸さんの考えをお教えください。
もし永尾信幸さんの考えが前者であれば、先にここで議論を尽くす必要があると考えています。というか、永尾信幸さんの考えが前者寄りだと思うからこそ、それを無視して編集を強行することは避けるべきだと思っています(というか、永尾信幸さんが編集合戦という言葉をよく使っているので敢えて言うと、議論相手の考えを確認せずに編集を再開することのほうがよほど編集合戦を引き起こす種だと思います)。
もし永尾信幸さんの考えが後者であれば、その旨をお教えください。私の今後の行動継続に関与するつもりがないなら、ここでお互いの考えの違いを埋める必要はありませんので、その確認が取れた時点で(上の発言に対して言いたいことはあるけど放って)ここでの議論は終了し、出典補完と要出典付与の編集を再開するつもりです。--NISYAN 2011年6月17日 (金) 14:25 (UTC)
たとえしかるべき場所でどうこう話を進めたところで、返ってくる答えは同じなんですよ。出典の明記というルールに従ってやってるという反論があるだけでね。で、そういう言葉遊びが好きな人が多いので、ルール的に考えたら別に間違いでも無いでしょうし。先の「日本の首都は東京です」の「東京に要出典」もルールで考えるならむしろ推奨されてる訳ですから。
そういう場で、要出典を控えろと言う議論を展開したところで無意味ですからね。言葉遊びがしたい人は、このルールを最大限に活用して自己の欲求を満たす行動に出るでしょうし。
記事自体が本当に検証可能な状態になってるかどうかなんて気にしない人が「出典の明記」を要求する本末転倒さについては、ルールという盾があるから気がつかないんでしょうけど、いったい出典の明記が何の為にあるのか、何の為に必要なのかを考えたなら、単に張り逃げ的な行動が通用すると考える事自体、方針からはずれてるとは思うんですけどね。
ルールには、出典の明記を要求したものが出典が出された後に確認しなければならないなんて書かれてないからね。というか、当然のフローだから書いてないだけなんだろうけど、書いてないからしなくて良いってのもまたルールの解釈として正しいし。ダメだとも書いてない事を私がとやかくコメント依頼などで追求する正当性もない。
  • 私の今後の行動継続に関与するつもりがない
すいませんが、答えは0か1なんですか?そんな単純なものじゃないと思うんですけどね。時と場合によっては異論を唱える事もありましょうし、協力することもありましょう。関与するかどうかについて、普通にウィキペディアにたずさわっていたら、状況に応じて変わる事くらいおわかりになろうと思うのですが。
いずれにしても、ウィキペディアの編集は自分の考えでなされたら良いかと思います。今まで聞いてきたことをバカらしいと思って聞く耳を持たなかったとして、私が騒ぎ立てる筋合いもありませんし。ただ、ここまで言われていて、先のように日本の首都は東京ですのような文章に要出典を貼るのであれば、それは回りがどう見るかってだけで、私がフォローしなきゃならない事も無いし、かばわなければならないとも思ってませんから。それは自分の責任の下でやれば良いことでしょう。
検証可能性を満たす為の要出典でありながら、出典を確認しようともしないという本末転倒さも、ウィキペディアの編集者の中には「主観を書く人」やら「見たまま情報を書く」というルールのルの字も無い編集をする方も多い事を考えると、そう目立たないでしょうしね。
関与云々については、私も同じ鉄道のジャンルでも興味の無い記事は削除になって構わないと書いたように(というか、同じジャンルだったら削除されて悲しまなきゃという理論がわかりませんでしたが)自分が興味を持ってない記事がどうなろうが、それは知りません。その記事に長けた方ががんばる問題でしょうから、基本的にはNISYANさんの投稿履歴を追いかけて、気に入らない所を突っつくなんて暇な事はやりませんが、自分が興味のあるような記事に対して何か加筆修正があれば、別にNISYANさんだけでなく、他の方の加筆修正であっても興味を持って検証するんじゃないかな。
何にも難しい事を言ってるわけじゃないんだけどなぁ。。。
そうそう、出典出典と簡単に言うけど、出典になりうる書籍類なども、間違いが多いんですよ。特に鉄道関係の趣味誌は、査読精度があるわけではないので、一度間違った記述がなされたら、後から書かれる記事は、その間違った記事を参考にしてしまうと、間違いがどんどん拡散していくことになります。また、技術誌などのデータなども小さく注釈で「●●は除く」などと書かれていたりする(技術屋がよくやる有利なデータを示したい)わけですが、その「●●は除く」という情報が知らない間に欠落して発表されていったりすると、そのデータを見て書かれた書籍は本来の状況とは違う状態のデータによる検証となり、正確性という面では信憑性が問われるわけですが、でも検証可能性は満たします。
ウィキペディアは百科事典であるわけですから、どの記述を使うのか、どの発表されたデータを使うのか、当然編集者が細かく吟味しなければならない部分でしょう。主観や間違いを書いても平気なブログなどとの大きな違いです。百科事典の威厳は、どれだけ査読されているかいう部分にも比例するわけですし。
だからこそ、出典の明記は重要なわけです。参考文献によって書かれる内容にバラツキがある可能性があるわけですから、どういう出典が明示されたのか?そして、それは本文内容と合致するかどうかの確認と判断が必要になります。
特に出典内容が記事内で説明してる内容と違う事が書かれている場合があります。その場合は、出典が明示されたとはいえ、検証可能性を満たす為の出典では無いわけで、更に継続して出典を求める必要があるでしょう。
10年前と30年前では同じ言葉を使っても、違う意味で使われる事があるわけですから、言葉そのものを見つけたとしても、それがイコール出典になるかどうかは、確認しないと判断は出来ないと言う事です。
少なくとも、私もNISYANさんも、検証可能性を満たす記事を増やしたいという部分では方向性は似てるとは思ってます。やり方が違うだけの話かなと、まぁそう感じています。--永尾信幸 2011年6月17日 (金) 16:14 (UTC)
今回のケースでは≪答えは0か1≫で答えられるようにしたつもりなんですけどね。編集範囲は、元々の削除依頼案件2件に掲載されていた俗称項目群。編集内容は、出典を容易に見つけられるものについては出典付与、容易に見つけられないものについては要出典付与、個別記事がどこにあるのか不明な項目についてはプロジェクトのノートに情報協力の依頼。編集の範囲と内容を事前に明確にしているつもりですから、それを問題にするかどうかとその問題の程度は事前に判断できるはず。それを≪そんな単純なものじゃない≫と言われてもと言うのが感想。
≪時と場合によっては異論を唱える事もありましょう≫という話から、もしかすると勘違いしているかもしれないと思ったので補足すると、仮に出典付与したとして「その出典が示す情報は一面に過ぎず、別のこれこれの意見もある」「その出典が示す情報は過去のものであり、現在はこれこれである」「その出典が示す情報は今は間違っているというのが定説で、主流見解はこれこれである」という類の異議を言うつもりかどうかと聞いているわけではありません。そういう指摘は大歓迎です。そうではなく、すぐ上に書いた編集範囲と編集内容での編集を継続すること自体への異議を問うているつもりですので。
また、情報源に間違ったことが書かれているケースをいろいろと挙げていらっしゃるようですが、基本、現時点の記事に書かれている(俗称に関する)記述に反することを追加するつもりはありません。現時点の記事に記されている(俗称に関する)記述に沿った出典を付与するか、要出典を付与するかだけです。既に誤っている記述に対して私が出典付与することを誤りの拡散だというのであれば、現時点の「出典も付与されていない、誤った記述」は早期に訂正されるべきだろうと思います。出典付与をきっかけに他者が正しい出典とともに修正いただけるだろうと思っていますし、それは出典付与以前の状態より適切に編集された記事となるのではないでしょうか?私の出典付与が、本文記述の誤りの修正のきっかけになればと思っています。ただ、「現時点の記事に書かれている(俗称に関する)記述」という範囲において、そのようなことが本当に起こるのかどうかは疑問に思っています。そういった記述に出典を付与できることはかなり少ないだろうと思うので、出典を付与するのではなく{{要出典}}を付与することになると思うのです。
まあ≪自分の責任の下でやれば良い≫ということが確認できたと思うので、時間が取れ次第、編集継続するつもりです。今週末は時間が取れそうな気もするのですが、まだ判りません。来週平日は今週平日よりは時間が取れそうなので、来週平日にも行えそうに思います。--NISYAN 2011年6月17日 (金) 21:55 (UTC)
あのぉ、別にいついつから始めるとか、いつは忙しいとかの報告は不要ですよ。仮に私が編集長であるなら、そういう報告を受けることはやぶさかではありませんが、同じ立場の編集者であるなら、編集者自身の責任の下に編集を行えば良いわけですから。
ウィキペディアの自由にを良く自由気ままにの自由と勘違いされてる方が多いのですが、その自由は責任を負うという部分があってこそのものです。だから、加筆修正一つにしても、責任を取れる方法、つまり参考文献を精査する、その上で出典がない独自研究は載せないなどのウィキペディアの方針に従って編集をすれば良い。単にそれだけの事ですが、たまにその自由を、自分が思った通りに出来ると勘違いする方がいるので困る場合がありますが。
最終的にこの場がブログなどではなく百科事典だと言う事がわかれば、加筆修正にも慎重になるはずなんですが、現状ではウィキペディア自体が誰でも編集出来るという事でユーザーを増やそうとした施策のせいもあって、用語もしらない無知な方がが百科事典を編集していても、それはウィキペディアが認めてる事だなんて平気で言う人もやはり多いのは事実なんですよね。そこに百科事典の威厳があるのかって話ですよ。そういう意味では、要出典を貼られる方というのも実は大事な査読要因であるとも取れるわけで、そのこと自体は非常にありがたい話であると思っています。
ただ、要出典貼付の議論で出典がないから要出典を貼ったと言うのが、先に書いた自分が知らないから教えてくれとやりかねないというか、現に鉄道記事では多く見受けられる事を考えると、編集者を疲弊させる行為につながるという一面があるというのもまた事実なので、その辺で要出典に対して大胆な編集自体はかまいませんが慎重さとむやみやたらに使用しないという点も必要だろうと。そう思うわけです。
要は、世間の人の一部は0と1の話じゃないですが、要出典を付ける、出典の明示がルールだと知ると、所構わずルールだと言い張る人がいるんでねぇ。状況を理解せずに良いと言われたからやってます。先の炊き出しじゃないですが「良い」と言われたらルールがそうだからと言い張る人が多いのでねぇ。そういう方々への警鐘にもなればと言う感じです。
  • 既に誤っている記述に対して私が出典付与することを誤りの拡散だというのであれば、現時点の「出典も付与されていない、誤った記述」は早期に訂正されるべきだろうと思います。
そうとも言えますね。ただ、そうやって出典に対して興味を持たれるなら、当然そうならない方法を普通は考えるはずですが、自分はここまでやってるんだ褒めろよ。褒めないなら、じゃぁこれはどうなんだと別の事を引き合いに出されて自分の優位性を主張されても何だかなと思うだけで。ちなみに、出典が示された後は以前も書かれてたかと思いますが、出典明示の要求は減りますよね。出典の無いものに優先的に貼るだのどうだの書いてあったと思いますから。出典を付けて、それが間違いであった場合、その理論でいくと次に精査されるタイミングが遅れる可能性がありますよね?
ちょっとヤヤコシイ言い方になりましたが、今の多くの要出典を貼ろうとする方は、出典が付けられていたら満足する自己満足に陥ってると当初から書いていますが、出典がつけられていたら、そこはスルーしちゃうわけですよ。これは、そのジャンルの方でも同じでしょう。出典が既に出されていると、まず安心してしまうんじゃないかと思うわけです。
だから、間違った出典を元に出典が付けられてしまうと言うのは、その間違いが出典が付けられていないであろうもののチェックに比べて遅れる可能性が高いわけです。
その意味では、引き合いに出された「出典も付与されていない、誤った記述」よりも優位であろうはずがありませんし、出典が付与されて無くても正しい記述も多いわけですが、一度出典をつけてしまうと、誤っていてもそれが継続されるという恐れがあるのです。
  • 「その出典が示す情報は過去のものであり、現在はこれこれである」
その両方の出典が示されていたら良いのですが、例えば後者の出典のみで、前者の事を説明している部分の出典としていたら、おかしい話ですよね?そういう事も確認せずに出典が付いたと喜んではダメでしょうと言ってるだけです。簡単な話です。
NISYANさんは、検証可能性を記事が満たす為に、出典の明示というルールなどに基づいて、いろいろ活動されてるということで、それ自体は褒められる事だと思ってます。ただ、当初から言ってるのは、そのジャンルの人との連携という言葉、相談などの言葉を出していたかと思いますが、そういう部分が少ないと、出典の要求も独りよがりになりがちだと言う事ですよ。そんな馬鹿げた所に要出典を貼るのかとか、結果的に出典が提示されても、それを確認するわけでもなく、じゃぁ、本当に要出典の張り逃げになってしまう。そういうのは、見ていて気持ちの良いものではないって事を言ってるだけなんですけどね。
例えば連携や相談があれば「先に相談の上で要出典を貼付したこの記事にこういう出典が出されたのですが、●●さん、この記事とか実際に確認出来ますか?」とか一歩踏み込んた事が行えますし、それは紛れもなく検証可能性の確保と、記事の正確性の確保につながる事なわけです。これだけウィキペディアの記事を良くしたいと考えているNISYANさんが、なぜこういう行動に出ず、単に自分自身で完結できる方法に固執するのかはよくわかりませんが。
まぁ、連携やら相談というのは、いろいろ手間暇かかります。だから、単に要出典を貼れば記事が良くなると信じて疑わないNISYANさんにとって、それは無駄な時間なのかも知れませんね。そんな時間があれば他の出典の無い記事に要出典を貼りたい。そう思われてるなら仕方ないですが、一定の時期を経て出典がない記述については削除するわけですよね。たとえそれに出典があったとしても。それってある意味の記事破壊なんですよね。
ルールにも出典の無い記事は削除されても文句言えませんと書いてると言うのでしょうが、それってその記事に精通してるものが見て「こんな記述が書かれてた書籍資料は見たことない、あきらかに独自研究だ」というそれだけの知識があって出来る事です。知識の無いものが自分が知らないから要出典を貼って、出典が出ないからその部分を削除するなど、テイの良い記事破壊とも言えます。その間に出典を示さないものが悪いんだ。返答は簡単ですけどね。そうやって、きちんと連携や相談を取っていれば、簡単に出てきたかも知れない記事の内容が、何も知らない単に要出典を貼れば記事が良くなると勘違いしてる方々のために壊されていく可能性ってのもあるわけで。
そういえば、私も長年鉄道ファンをしていますが、こういう事は聞いたことがないという意見を聞いて、全体意見にしちゃっていた事もありましたが、私も書いたかと思いますが、鉄道ジャンルって幅広いのですよ。私鉄好きと貨物好きでは見ている書籍も違えば知っている知識も差があるのは当然。私も鉄道関係では、一部の用途に使う電車の事しか興味がありませんし知識もそこが中心になってきます。だから、例えば要出典にあげたい項目として、駅でのメロディー関係のものがあったとして、私は「長年鉄道ファンをしていますが、何を書かれても私にはほとんどわかりません」状態な訳ですよ。その意見を鉄道ファンの総意にされると駅でのメロディーを専門にやってる方からすると「ちょっと待てや」って事になりますよね。また、告知と言ってもなかなか難しいんですよね。私などウィキペディアには年に何回か加筆修正できるタイミングがあるだけで、ほとんど関わる時間を持ち合わせていません。自分の興味ある記事のいくつかにはウォッチリストを付けていても、そうでない部分はノータッチ。
多くの方はヒマじゃないわけで、毎日毎日ウィキペディアの記事をチェックとかする人など居ないわけです。(一部のウィキペディアを自分のブログと勘違いしてるような人は別でしょうが)
そう考えた時に、連携や相談と言っても、相談一つすら先に簡単に進まないかも知れません。でも、百科事典という威厳のあるものを編集してるんですから、それくらいの時間を掛けるのは当然じゃないかと思いますね。
んなことで、そういうジャンルの事を知りもしない人が、ルール上こうだからと言う事で、暴走的にぱぱっとすすめていっても、良い結果は得れないんじゃないかって思ってるだけでね。
私の方では、連携や相談でもっとスムーズになる点、出典が明示された後の要確認などの部分は説明させてもらいましたので、特にどうこう言うつもりもありません。で、先に書いたように自分の責任の下に編集していただいたら良いというのも書いております。ただ、暴走的に自分の主観で要出典を貼ることだけが仕事になってしまうのなら、他の方々に多大な迷惑を掛けるという点は良く認識しておいた方がと感じてるだけです。--永尾信幸 2011年6月18日 (土) 04:31 (UTC)
≪出典がつけられていたら、そこはスルーしちゃうわけですよ。これは、そのジャンルの方でも同じでしょう。≫少なくとも私は違います。詳しくない分野においては出典を確認せず信じてしまうような面もありますが、詳しい分野で、自身が知らない事柄あるいは疑問のある事柄に対して出典付き記述があれば、知的好奇心を掻き立てられ、出典を確認するでしょうね。永尾信幸さんのような考えを持つ人が多数派なのかどうかは判りませんが、そういう、出典があるというだけでは信じない程度に知的好奇心と知識を持った人がその分野にいれば、出典付きの虚偽記事でも改善されていくと思っています。それがこの分野においては期待できないということであれば、それはこの分野に詳しい人たちによって解決されるべき問題だろうと思います。
≪「その出典が示す情報は過去のものであり、現在はこれこれである」その両方の出典が示されていたら良いのですが、例えば後者の出典のみで、前者の事を説明している部分の出典としていたら、おかしい話ですよね?≫ええ、そうです。そして、私が出典付与する際には、その程度のことは気をつけるつもりです。複数確認できるうちのどの用語に該当するか確認できない場合や、本文記述とは異なるものを指している情報源しか見つからない場合は、要出典付与に留めます。その場合は、ノートに「これこれ(時期などによって)2説あるようでどちらが正しいか判りませんでしたので/これこれの情報源は見つかりましたがこちらの本文で説明されているものとは異なるもののように思えますので、ノートに書籍情報のみを示しておきます。判断の付く人によって正しい出典を付与いただければありがたく存じます。」などと記すことになるでしょう。私が要出典付与した後、そこに出典付与した人が充分に注意せず、間違ったものを出典付与していたとして、それは私が非難されるようなものではないと思います。そして、私が深い内容理解が必要なそのレベルの内容チェックをできるとも思えません。前述の通り、詳しい人が確認するのが妥当ではないでしょうか。
要出典を貼ればよい、それが目的ではありません。過去に記載するかどうかで議論のあった記述がWikipedia上に残っている現状を改善したい、それが記述除去という結果になってもいいし、出典付与という結果になってもいい、ただそれは、その記事に深く関わるかた/その分野に詳しいかたが決めるべきだと思うし、要出典箇所に出典が長期に渡って付与されないとしても私が記述除去するつもりはない、という類のことは伝えているつもりです。そして、「過去に記載するかどうかで議論のあった」がどこで議論されていたかも伝えているつもりです。そういった発言を無視して≪ルール上こうだから≫という理由でもないのに≪ルール上こうだから≫とか、≪暴走的に自分の主観で要出典を貼る≫とか、根拠のない憶測を語るのはやめていただきたいです。私ではない複数の人が疑問に思っていた事柄に対して要出典を貼っているということは何度となく言っているつもりです。
≪永尾信幸さんに提示いただいた出典(ないしはそれと同水準の情報源)を、そこに出典足り得る情報が載っていることを知らない一般読者がどのように知ることが可能か≫という情報を永尾信幸さんが私にお教えいただくつもりがないのであれば、ここで話を続ける必要はないかなと思います。--NISYAN 2011年6月18日 (土) 05:37 (UTC)
  • 少なくとも私は違います。詳しくない分野においては出典を確認せず信じてしまうような面もありますが
え?上で確認しないと書いたじゃないですか?で、私は詳しくない分野にしゃしゃり出てかき回すことが疑問といってるわけですから、詳しくない分野の話が当然加味されてないといけませんね。なのに「私は違います」と言い切るのはどうかと。私がここで話してるベースになってるのは、太線の部分なのですから、違うも何もスルーしてるとしか見えないのですけどね。
  • 私が要出典付与した後、そこに出典付与した人が充分に注意せず、間違ったものを出典付与していたとして、それは私が非難されるようなものではないと思います。そして、私が深い内容理解が必要なそのレベルの内容チェックをできるとも思えません
そう、話が結局戻るのよ。深い内容理解ができないなら関わらないほうがよいといってるだけです。とても簡単な話をずっと続けてるんですけどね。
理解できないから、内容のチェックもできない。至極当然です。だから張り逃げという言い方をしてたわけですよ、ずっと。
  • 要出典を貼ればよい、それが目的ではありません。
もちろん、普通にウィキペディアを良くしようと思ってる人なら、それが目的じゃ困ります。
ただ、そうやって要出典を張ればよいと思ってる人もいるんでね。そういう人も含めて警鐘を鳴らしてるだけですよ。
  • 永尾信幸さんに提示いただいた出典(ないしはそれと同水準の情報源)を、そこに出典足り得る情報が載っていることを知らない一般読者がどのように知ることが可能か
いえいえ、別に私が提示した出典にこだわる必要はないですよ。ずっと話をしてるような「日本の首都は東京です」に要出典を張った場合、一般読者がどのように知ればいいのかといわれても困るわけですが、ウィキペディアのルール上は出典を明記せよということですから、何らかの出典を示す必要はあるでしょうねぇ。
それを教えたら、次はアメリカの首都はワシントンってのがどこに載ってるのか教えろと言ってきた。ルール上は当然出典を明示しなきゃなりませから、これまた教えた。じゃぁ、次は中国の・・・こういう事を続けるってのが言葉遊びだっていってるだけですよ。
ずっといってますが、詳しくない分野、要は無知な分野に出てきて、そこで使われている言葉も理解できない状態で要出典を張るのと、そのジャンルに長けた方が要出典を張るのとでは意味合いがまったく違うわけでね。
少し利用者ページを見させてもらいましたが、パソコンのC言語が得意とか。その記事の冒頭にある一文で説明すると。
Cは手続き型言語[要出典]であり、コンパイラ言語[要出典]として設計された。Cは、自由度、実行速度、コンパイル速度などを追求[要出典]したが、代わりにコンパイル後のコードの安全性を犠牲[要出典]にもしているので、コンピュータ寄りの言語仕様[要出典]になっている。
  • アマチュアからプロのエンジニアまで、非常にプログラマ人口が多い[要出典]Cは正負の両面含めてコンピュータの世界に大きな影響を及ぼしている[要出典]が、最大の原因はそのプログラマ人口の多さ[要出典]であると言われている。
  • パソコンはもちろんのこと、組込み用マイコンから大型コンピュータまで、Cを使用できるプラットホームは多様[要出典]である。また、仕様規格・派生言語も多い[要出典]
  • 採用されているソフトウェア分野が広い[要出典]あらゆる分野に対してある程度の言語適性があり[要出典]、現実的な選択肢としてよく用いられる。発祥元であるUNIXの場合、大抵のことがスクリプト言語・マクロプロセッサやフィルタやそれらの組み合わせで処理できる[要出典]ため、うまく分野の棲み分けができていた面があった[要出典]のだが、幅広い領域に移植された[要出典]結果、適切でない分野にCが使われている場面もある[要出典]
  • 低水準な記述が出来る高級言語とも、高級言語の顔をした低級言語とも言われる[要出典]。また、コーディング上の“自由度”が非常に高い[要出典]。そのため良くも悪くも“何でも出来てしまう”[要出典]パワフルさは多くのプログラマの支持を集める[要出典]一方で、セキュリティー脆弱性や潜んだバグによる想定外の動作[要出典]コンパイラによる最適化の難しさ[要出典](そのためCはコンパイラ言語として決して高速ではない[要出典])といった欠点[要出典]の原因ともなっている。
  • 商用・非商用を問わずコンパイラやC向けのエディタが豊富[要出典]開発環境が整備しやすい[要出典]
Cの主な特徴は以下の通りである(歴史的な経緯からBASICやPascalと比較されることが多い[要出典])。
1.1 自由度 [編集]
  • 行番号を採用せず[要出典]文の区切りを区切り記号 ; セミコロンで表し[要出典]改行文字にも空白にもトークンの区切りとしての意味しか持たせない[要出典]「フリーフォーマット」という形式を採用[要出典]している。
    • 記述作法について、しばしば議論の対象[要出典]となり、本も多数出版されている[要出典]
  • ALGOLの思想を受け継いで[要出典]}{構造化をサポートしており[要出典]、手順を入れ子構造で示して見通しの良い記述をすることができる[要出典]原理的に無条件分岐(goto文)を使用する必要が軽減される[要出典]ため、スパゲティプログラム[要出典]と呼ばれるような読みにくいプログラムになりにくい[要出典]
  • モジュール化がファイルを単位として可能[要出典]モジュール内だけで有効な名前を使うことが出来る。[要出典](スコープ)
面倒なのでこの辺にしますが、こういうことですよ言葉遊びって。でも、この要出典付加は別にルール的には推奨されてる話ですし、実際この記事に書かれてることはちんぷんかんぷんで、私は理解できません。どこに書いてあるか知りたいです。出典を示してください。
ま、こういうばかげたことにならないように注意してくれたらそれでいいですし、また先に出典云々と書き込んでいた方もそうですが、不得手なジャンルにちょっかい出すよりも、自分が得意とするジャンルの記事にもっと出典を付加するような努力をしてもらいたいものです。
最初から同じようなことを言ってますが、自分が無知なジャンルにしゃしゃり出てきて、そのジャンルの方と十分な連携・相談をせずに推し進めてしまうといい結果というのは生まれにくいと思うわけで。
仮に上のCの記事のノートに出典のお願いを書いて要出典を張ったが、誰からも返事が来ないから、バサッと削除しましたと。削除したらこの記事を加筆していたことのある人から「なんてことをするんだ」と怒鳴り込んでこられるでしょうが、「いえいえ、出典を示してくれなかったからですよ」と自分の正当性を主張する。
たとえば出典がつかなければつかないで、自分が無知なんだから、削除などの方法にでるのではなく、もっとじっくりと聞いて回るなどしたらよいのですが、えてしてここまでする方は「要出典が張られた段階で出典がつけられなければ削除されるのは当然の成り行き。出典を示すのは加筆側というルールは検証可能性を満たすためには必要なものだ」みたいに言ってくるんですよ。
そういうのって、なんてのかなぁ、炊き出しの例を出すまでもなく、杓子定規すぎるというかね。ま、何度言っても同じでしょうが。
ま、いずれにしても、無知なジャンルに出てきてどうこうするより、得意なジャンルの不備を正すほうが効率的だと思いますけどね。--永尾信幸 2011年6月18日 (土) 21:04 (UTC)
C言語」を挙げられているようですが、状況は以下のように大きく異なります。
  • 長期に要出典が貼られているからといって記述除去されるべきとは思っていないと何度か言っているつもりです。上に書いたことと被りますが、参考文献節に書籍が挙げられているにもかかわらずそれを読まずに、その参考文献に書かれている記述を出典なしを理由に編集除去したら、そりゃ指摘されるのは仕方のないことでしょう。私がここで行っているのはそういうことではないつもりです。以下、本発言中では、{{要出典}}と言えば単に出典を求めていること、{{正確性}}と言えば出典が付かない限りは除去されてもしかたがない、正確性の担保を必要とする記述を意味していると考えてください。
  • (この記事に要出典を貼った時点で)何ら参考文献が示されていないがために読者に基礎知識を得る機会が提供されていなかった「国電」と、(永尾信幸さんが記事を確認したであろう時点で)参考文献が2冊示されていて読者に基礎知識を得る機会が提供されており、その書籍を読めば{{要出典}}を貼らずとも理解できる部分がある「C言語」とを同列に話されても困ります。永尾信幸さんが要出典案として提示していただいたところで言えば、『はじめてのC』あたりであれば、C言語が「手続き型言語」であることや「コンパイラ言語」であることはまず書いてあるでしょう。『プログラミング言語C』であれば、言語仕様寄りな部分、「モジュール内だけで有効な名前を使うことが出来る(スコープ)」に関する記述もまずあるでしょう。もちろん、記事本文の記述と出典足り得る情報源が対応付いていないから、どの記述がどの書籍のどのページに由来するものであるかを示せていないという問題はあり、その意味において当該書籍を読んだ上で、{{要出典}}ではなく{{要ページ番号}}を要求するということはありかも知れません。それから「フリーフォーマット」については、その前段(フォーマットが如何にフリーであるかという個々の説明)に出典が付けば、≪専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説≫(参考)レベルの話だと思いますから、そこ独立には出典は不要と思います。
  • 私の提示しているのは、様々な人が過去に別の場所で疑問に感じた記述に要出典を貼るというものです。そして各記事、貼る箇所は数少ない箇所(大抵は1箇所)です。参考文献に書籍が挙げられていて、要出典する記述が、当該書籍のある場所を読めば出典足り得る情報が得られる記述だったとしても、それに関する情報を書籍から読み落としているかもしれませんし、そもそも、様々な人が過去に別の場所で疑問に感じた記述なのだから、参考文献とは別に、局所的な出典があって然るべきだろうと思っています。対して、単一記事内で大量の要出典を貼ることを想定した「C言語」のケースでは、どう考えても参考文献に挙げられた書籍を読んでいない前提での話としか思えませんし、そうであれば個人的な疑問に基づく/荒らし的な/報復的な要出典付与などと思われてもしかたがないのではないでしょうか?私のケースとこれらを同列に話すことには疑問を感じます。もし仮に、この記事に『国電物語 -国電の歴史を読み解く、その成り立ちから俗称まで』(書籍名は適当に考えました)といった書籍が参考文献に挙げられていたら、それを読まずに{{要出典}}を私が貼ったとして、それに対して「それは参考文献に挙げられている書籍のP.100に書かれています。参考文献に挙げられている書籍くらい読め。」と指摘することはありかもしれません。ただ前述の通り、その記述に疑問を持った人が複数いるなら、より局所的な出典があって然るべきと私は思っています。いずれにしても、「国電」についてはそういう、読者が基礎知識を得る機会が提供されていなかった状況でした。尤も「国鉄153系電車」のように蔑称に出典なしというのでは、参考文献に挙げているだけでは不充分だと思いますから、「参考文献に挙げられている書籍くらい読め」というのはなしだと思います。それこそページ番号付きの独立出典が必要かと。蔑称に出典なしについては{{正確性}}を貼っておいてもいいかなと思うくらいです。そして、それは「国電」の「酷電」においても同じ状況でした。
「C言語」のケースと同列に話をされても、上記のような理由から、ずれているように感じます。それでも「C言語」において、その分野に詳しくない読者視点で、しかも参考文献に挙げられている書籍を読んだ上で、それでもなお疑問に感じる記述に対して{{要出典}}を貼ること自体は別段咎められるものではないと思いますし、それは歓迎されるべきことだと思いますよ。もしそういう{{要出典}}があれば、出典補完するつもりです。こちらの分野においても、せめてその記事主題をターゲットにした書籍をいくつか参考文献に挙げておきませんか?「国電」においては「ゲタ電」の出典として提示いただいた『国電ものがたり』がその役目を担えるのかもしれないと思うのですが、それはこの分野に詳しい人によって行われるべきだろうと思います(何が有名どころか、何が正確性に定評があるか、何がその分野を知らない読者向けか、何がより詳しい読者向けか、そういった情報を知っているのはこの分野に詳しい人に限られる)。
それから、出典内容の確認については、私がよく知らない分野においては鵜呑みにしてしまうこともあるけど、私がよく知っている分野では、その記述の真偽においてある程度の判断が付くから、「それは違うだろ」「え?本当」と思うだろうし、そう思ったら出典を確認しにいく、但しそうするのは私がよく知っている分野だろう、と言っています。そして、そういう人が各分野に少しでもいたら、虚偽出典(意図的に虚偽となっている場合だけでなく、誤って虚偽となっている場合を含む)に関する問題はないだろう、と言っているのです。私にこの分野における虚偽出典を見極める力はないでしょうから、私が出典を確認することに意味はありません。出典なしの虚偽の記述も、出典付きの虚偽の記述も、そしてただ単に出典がない記述も、遠い将来的には解決されるべきものであろうと思っていますし、それにはその分野に詳しい人の関与が不可欠だと思っています。「出典なしの虚偽の記述」「ただ単に出典がない記述」の改善に対してもその分野に詳しい人の関与が不可欠であるだろうし、「出典付きの虚偽の記述」だからといって、その分野に詳しい人の手間が変わるわけではないと思います。永尾信幸さん個人にとっての手間を問うているわけではありません。この分野に詳しい執筆者全体にとっての手間を問うています。もし仮に、この分野に詳しい執筆者が揃って「出典付きの虚偽の記述」を見逃してしまうから手間が掛かるんだという主張であれば、それは執筆者の質を上げるしかないのでは?と感じます。でも私は、この分野に詳しい執筆者が揃って「出典付きの虚偽の記述」を見逃すとは思っていません。--NISYAN 2011年6月19日 (日) 05:25 (UTC) 補記 --NISYAN 2011年6月19日 (日) 06:32 (UTC)
苦しい答弁ですね。自分が関連するような記事に、そういうような話が及ぶと、これはこれで補完できるはずだ、これは大丈夫なはずだと言うわけで。今までNISYANさん自身が語ってきた「読者がどうやってその記述のある資料を知るか」という完璧な答えになってませんよ。
だいぶ上でも書きましたが、もうたいがいこういうやりとりは手間なんですよ。自分のジャンルの事も不備を正そうとせず、なんかパッと見で気がついた所にしゃしゃり出てくる。ウィキペディアが百科事典という威厳を得たいのであれば、専門知識のある方は、その専門のジャンルの記事をどんどん伸ばして行って欲しいですね。他人の記事をとやかくするヒマなど、本当にその記事を良くしようと思うならまず無いはずですけどね。
一つの文章を追記するには、どれだけの文献を下調べしなければならないかは、専門をお持ちであればおわかりでしょう?単に雑誌に載っていたとか、単にこの本に載っていた程度で、それを容認して良いのかどうか、要は査読(検証)をきっちり発表前に自分でも行う必要があるわけですから、当然他の意見が無いかとか、そういう事も調べてから加筆しなければなりません。百科事典に一文追記するというのは、それだけ手間暇かかり時間がかかる行為なのです。だから百科事典には威厳があるわけですよ。
簡単に文を改変する方がいます。たいていは、詳しく調べた方ではありません。ウィキペディアではそういう方の編集も歓迎されていますから、そこは良いでしょう。では、その改変に当たってその記事を専門にする方は、当然その改変の是非を調べます。それは多数の文献をひもとくことになるでしょうが、歴史的な事象を示す改変であれば、年月を特定しやすいために比較的調べるのは楽です。そして、その中で改変にあたって歴史的事実と違うなどの面が発覚したら、その利用者に対してメッセージを発します。
利用者ページに直接聞きに行くというのが一番効果的で、記事にはウォッチリストをつけていてもノートに付けてない人も居ますから、ノートに告示したからと行って改変者本人に伝わるとは限りません。よって、ノートに状況説明して要出典を貼ってもいいのですが、本人のページで、改変の件を聞くというのも一つの方法ですね。そのような手順を踏んでいれば、比較的加筆者の勘違いなども本人が気づいてくれて修正など行ってくれたりもするわけです。
ただ、完全に虚偽だと思える場合は、有無を言わせず除去しますけどね。それは、専門的にそのことをやってるからこそなせる技です。そこにはわざわざ要出典などを示す必要も無い、それこそ専門だからこその話です。ちなみに、私はルール的には自分のブログに記事を書いて「出典、自分のブログ」とやってもOK(推奨はされてませんけどね)なのですが、ルールを逆手に取るような事は嫌なのでそういう事は言いません。逆に専門だからこそ、慎重に過去の文献を調べる、だからこそ関連資料類を100万ページ以上デジタル化して検索性を向上させる努力などをしているわけですよ。
で、加筆者と何かあったら連絡して確認する、つまり相談し連携をとるのは、たとえ同じジャンルの中でも行えば効果的なわけですから、ジャンル外の人が何か不具合について知りたいのであれば、まずそういう事を進めるべきだったのにというのも最初から言ってる話で。
自分の中ではここまでやって言われる筋合いはないと言うおごりがあるのでしょうね。プロジェクトに告知までした自分になんの非があるのか等々。その後、関連する方々の利用者ページに意見を聞きに行きましたか?というような改善案も書かせてもらいましたが、自分ではプロジェクトに告知した事で満足だったんでしょうね。その時点から、ずっと自分が不得手なジャンルなんだから、もっと意見を聞く事をすすめる。つまり連携・相談して欲しいと言ってるんですけどね。
青いひかりは見つかったが赤いひかりは見つからない・・・こんな事も、相談を自分からもっと広めたら、簡単に情報も入手できたでしょうに。でも、自分の中ではちょちょっと回りを見渡して、誰も何も言ってくれないイコール鉄道関係者は皆知らない。なんて決めつけてしまう(こういうのを主観的暴走という風に思ってるわけで)上、赤いひかりの出典が無いなどと大きな声で言いふらす。で、何か言われると「出典を出してこないから悪いんじゃないか」と言う。
記事を良くしようと本当に思うなら、こんな短絡的行動は取りませんよ。もっとじっくり、関係する人に聞くなどして出典を探そうとするはずです。では、なぜそれをしないのか。そう、別に出典なんて本当はどうでも良いからですよ。記事が良くなるとかそういう思いで出典を追加させようとしてるわけじゃないからです。そういう想いがあったら、こんな短絡的行動は取りませんから。
ま、そういう事で専門外の話に首を突っ込むんだったら、連携・相談と言ってるんですが、そういう方向には一向に話を進めませんよね。何故かというと、面倒だからでしょう。加筆者に細かく事情を聞いたりしながらすすめるより、ルールで「出典は加筆者の義務」とあるんだから記事に要出典を貼る方が楽ですからね。また、個別でノートにお願いにいくと、よからぬ被害(反論を受けたり、嫌がらせを受けたりする)にあうかもしれないという点も、そういう行動に消極的にしてる理由かも知れませんけどね。
先に書いたように、C言語の記事ですら山のように出典を示さなければならない部分があるのですから、まずそれから改善されたらいかがでしょう?そのジャンルに専門の方が、伸ばしてこそ、記事も活きようと言うものです。
このノートですが、私の方も忙しいので、同じ説明を繰り返すだけのこのような事は無意味と感じています。ですので、もうこの辺でと思いますのでよろしくお願いします。--永尾信幸 2011年6月19日 (日) 08:24 (UTC)
どうも{{要出典}}に対する考えの違いじゃないかと思うのです。記事の発展過渡期に一時的に記事中に{{要出典}}が貼られていることについて、何ら問題とは私は思いません。そして、過去に記載不記載で議論のあったことだから出典が必要だろうと思っているから、記事の発展を願って{{要出典}}を貼ったと。事前にノートで聞こうが、その結果は最終的に記事に反映するつもりです。つまり、詳しい人の協力のもとで出典足り得る情報源が得られたなら出典付与、1週間か2週間か待って出典が得られそうにないなら要出典付与と。ノートで事前に聞いたところで、要出典が貼られる可能性と期間(1週間か2週間か)が少なくなるだけで、結果は何も変わりはしないと思っています。個々の記事における≪連携・相談≫にはその程度の差しか生まれないと思っています。その程度の効果しかないことを敢えてノートで行う必要はあるのでしょうか?ただ、この記事では、記事の発展のために行った行為が即座に差し戻されるなどのような、考えの違いによる誤解がありそうだったから「私は長期間出典が得られないことだけを以って記述除去するつもりはない」などのいろいろな説明を行っているだけです。それを、≪誰も何も言ってくれないイコール鉄道関係者は皆知らない≫なんて根拠のない憶測を挟んだ話をするから、話がずれていっているだけだと思っています。--NISYAN 2011年6月19日 (日) 08:47 (UTC) 誤字訂正 --NISYAN 2011年6月19日 (日) 19:42 (UTC)
ここだけ補記。≪「読者がどうやってその記述のある資料を知るか」という完璧な答えになってませんよ≫については、参考文献を読めばある程度解決すると書いているはず。まだ成長過渡期の現段階のWikipediaで私は完璧を求めていませんし、この記事においても完璧な改善を求めていません(本文中の記述と出典との対応付けまでは私が求めなかったというのも、完璧を求めていない現れの一つ)。ただ、この記事には出典だけでなく参考文献にあたるものも、私が要出典を付与した時点ではなかったわけで、読者が情報を知るための手助けとなるもの(筆者を信用しろ、以上のもの)はなかったわけです。段階的にでもいいから、この分野も改善されてほしいと思っています。方法は提示しましたが、実際にどういう面をどういう段階を踏んで改善していくかは詳しい人が決めていけば良いと思うので、それ以上はタッチしません。--NISYAN 2011年6月19日 (日) 19:42 (UTC)
  • 結果は何も変わりはしないと思っています
  • 個々の記事における≪連携・相談≫にはその程度の差しか生まれないと思っています
  • 根拠のない憶測

NISYANさんが、そう考えてるのであれば、別にそれでいいのではないでしょうか?ウィキペディアが威厳ある百科事典になるように三大方針にのっとり正確性の追求など含め今後も頑張ってもらえればと思います。--永尾信幸 2011年6月19日 (日) 19:00 (UTC)

ではそのように。--NISYAN 2011年6月19日 (日) 19:42 (UTC)