ノート:半古典論

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独自研究ではないかと思います。全量子論/半量子論というのですら耳慣れない言葉ですが(まあ使わないことはありませんが)、全古典論に至っては聞いたことのない用語です。Wikipedia に記事を書きますと、各種サイトが引用しますし、検索エンジンでも筆頭に出てきかねませんから、用語を捏造しないようにお願いします。

また、半古典論ということばを「電磁場は古典論で、電子は量子論で」と定義するのは量子光学においての話で、量子力学の他の分野にはそれに応じてそれぞれの半古典論がありますので、そのあたりも注意して執筆いただきたいとおもいます。時間が出来たら僕も書き足しますが、とりあえず読者に注意を促す意味でタグをつけました。--An apple zealot 2009年1月23日 (金) 18:39 (UTC)[返信]


物理現象の「解釈」と「取り扱い」という、日本語としてさほど難しくもない言葉の、意味の区別がまったくつかないまま、混乱する方向に記事を書き換える困った人物がいて、読者が必要な情報を受取って学習する機会を削ぐ形で、百科事典の価値を著しく下げていると感じたので、とりあえず「量子光学」で設定されている「枠組みの例」を出しました。あくまでも説明のために、一つの領域で設定されている具体例を示しただけです。これによって「解釈」と「取り扱い」の意味を学習し、どのような近似的解決が行なわれているのか、読んで理解することが出来るようになりました。

「量子光学」以外の量子論には別の形の「取り扱いの枠組み」があり、それを私やWikiInnocentさんが書かなかったことは「注意」に値するとAn apple zealotさんは主張なさっておられますが、私は本文で『量子光学などの分野で光と物質の相互作用を扱う枠組みには、』と書いています。『量子光学の分野で』と書かず「など」の言葉を補ったのは、他の分野の存在を視野に納めているからです。けっしてそれらを知らないわけでも、無視しているわけでもありません。このような記述が何を意味しているのか、An apple zealotさんはきちんと読みこなせていないように見えます。一つの例を示せば十分に目的を達しているので、他の分野のことに触れる必要性を感じていないのです。An apple zealotさんは、「全ての分野の項目を書かなかったのが悪い」と、まるで他人を責めるような書き方をしているように読めます。ウィキペディアは、必要性を感じた人が、必要な項目を自分に出来る範囲で執筆していけばよいのです。全ての分野の全ての項目をしっかり書き上げてからアップロードするように、他人を「注意」するのは、この場合適切な行為ではありません。「他人に対して、無理な分量の執筆を強要する発想を抱いている」と受取られることにもなりかねません。ウィキペディアが現時点で執筆途上にあって不完全なことは、私や他の執筆者の責任ではありません。ウィキペディアは永遠に未完の百科事典なのです。もちろんこれは、他人に「注意」を与えれば解決するような問題ではないので、論理的妥当性がない発想に基づく物事の解決に繋がらない行動を取っているとみなされることになります。

「全古典論」という表現についてですが、これはAn apple zealotさんの手で削除しても加筆しても、なんら問題がないと感じます。「捏造」と断言していながら、なぜノートでわざわざ議論する必要があるのか、疑問を感じます。もし、断言できない微妙な部分を自覚している場合には、ノートを用いた他人との情報交換も必要でしょうが、断言出来ると確信しているのなら、自分の判断で適切に処置して良いと思います。判断力に自信がなく、他人の情報を頼りたい状況にあるのならば、「独自研究の捏造」などと決め付ける書き方をしてはいけません。「全量子論/半量子論」に対して、説明のために「全古典論」という表現が自然派生するのは日本語として必然です。光物性にお詳しいWikiInnocentさんの手でウィキペディアに書き込まれたということは、実際の教育/学習/知識の活用の現場などで使われている、生きた表現だと感じました。そこで、この部分はWikiInnocentさんの執筆を尊重して残しました。言語は生き物なので、表現のために省略したり、単語の頭や後ろに文字を追加する行為を認めて良いと思います。たとえば、「科学」という言葉に「非」を付けて「非科学」という表現を用いて説明した記事に対して、「科学に非ず」と書かずに「新しい用語を捏造した」行為は「独自研究」に該当すると決め付けて、レッテルを貼ってまで非難することが、正しいことなのかどうか、よく考えてみてください。本来ならば「全てが量子論という枠組み」「半分だけ量子論とする枠組み」「全部が古典論の枠組み」と書くべきところを、言葉を使いまわしているうちに、しだいに省略して表現する方向に推移していく状況を発見したからといって、即座に「用語を捏造している」と非難を浴びせて「独自研究だ」と決め付ける行為に妥当性があるのでしょうか。「全てが古典論」と書けば独自研究ではないが、「全古典論」と短縮して表現しただけで、たちまち解説内容まで独自研究に変化するといった発想には同意しかねます。このような表現上の長短の変化と、書かれている内容が独自研究かどうかは、本来無関係です。私がAn apple zealotさんの立場なら、独自研究のレッテルを貼ってまでわざわざノートに書き込んで議論するような手間はかけません。本文に2文字を補って「全てが古典論」と書き換えることで、問題は解決したと判断します。WikiInnocentさんの執筆を独自研究と決め付ける根拠が、たった2文字を短縮して表現したことの他にはないのであれば、「独自研究」のレッテル貼りはなんら問題の解決に繋がらない、不適切で妥当性のない行為と判断されることになるでしょう。このような形での乱用は、読者を無駄に惑わせることにも繋がり、好ましく受取られません。

An apple zealotさんの今回の行動は、問題の焦点が無意味な方向に無駄にズレていて、迷惑なだけのように見えます。An apple zealotさんがお示しになった行動の第三の問題点に言及します。『半古典論(はんこてんろん)は、電磁波は古典論的に扱い、電子や原子などの粒子を量子論的に扱う、物理学で用いられる近似的解決方法のこと。「半量子論」とも言う。』という記述に対して、[要出典]を付けたことは、不適切に見えます。なぜ「要出典」を付けたのか、理由がこのノートに明記されていません。「半量子論」という用語と、近似的解決の考え方は、一般的な大学の教育現場で使われている事例があるので、これに要出典を付ける行為は非常に不可解なものに見えます。もちろん、複数の大学で教えられている内容が「独自研究」に該当するという判断も、この場合は不可です。出典を示されなければ分らないような難しい解説は一切記されておらず、基本的なことしか示されてないので、本当にこの文面で出典が必要だと感じているのであれば、この項目を編集できるだけの基礎的な教養をお持ちでない、入口部分すら学んだことがない人物が、見当違いの迷惑な悪戯の類をして、正常な情報の流通を妨げているように見える、と結論するしかない状況のようです。ウィキペディアの編集者を読み手は選択できず、玉石混合の記事が出来上がってしまうシステムを採っている以上、このような不適切なレッテル貼りの問題行動が発生しても仕方がないのかもしれませんが、以前からなんらかの対処が必要と考えている人は多いようです。

これだけでここへの書き込みが終わっては、このケースでは何が問題視された結果として、私がわざわざ本文を編集したり、ノートに書き込んでいるのか、おそらくほとんどの方が把握できないままになると思うので、今回「半古典論」を編集した理由をここに明らかにしておきます。科学知識を学ぶ行為に対する「半古典論」という項目の位置付けは、かなり重要なものです。物理現象の「解釈」と「取り扱い」という、日本語としてさほど難しくもない言葉の、意味の区別がまったくつかないまま、混乱する方向に記事を書き換えるのは、好ましくないと感じたので、二つの言葉を明確に使い分けて見せたのです。科学知識というのは、人が作っていく未完の知識の体系なので、必ず近似的解決を採る形になることが、宿命と言えます。この視点から観察したときに、「半古典論」の本文の中で最も大切な文言は、「全て量子論を用いれば、実際に近い結果を得られる」という部分です。なぜ、「全て量子論を用いれば、実際と同じ結果を得られる」と書かないのでしょうか。これは特別な配慮の結果なのです。全て量子論を用いて人智を尽くした場合でも、やはりそれは近似的な解決にすぎない宿命を背負っているという発想が、この部分を執筆した著者の科学知識観の根底にあるからです。「半古典論」という項目は、「科学知識は真理と異なり、常に近似的解決しか出来ない未完の知識の体系」であることを、具体的に学び取ることが出来るテーマなのです。たとえば「科学的真理」などの言葉は、錯覚の産物にすぎないことが多いのです。科学知識がどのような特性を備えたものか正しく理解しない状態で生まれた、実質的な意味を持たない空虚な発想になっていて、本物の真理との間で矛盾を露呈してしまうことがよくあります。そのような誤った科学知識観を持っていると、科学知識を作ったり運用する面で、様々な影響が生じてしまいます。「半古典論」という項目は、近似的解決の典型的な好例であり、物理学の進化の過程を学びながら、正しい科学知識観を習得するのに向いている事例なのです。物理現象の「解釈」と「取り扱い」の意味の違いが分からないような人が不用意に編集して、内容を損なって、大切な学習の機会を大勢の人から奪い去ってよいものではないのです。

ここまでの説明を読んでようやく、「半古典論 の変更履歴」に私があえて『「取り扱う」という必要不可欠なキーワードが削除されているも同然の状態』とコメントしている真意が、お分かりになった人も多いと思います。一見しても分からない望ましくない編集行為が存在することを悟ってもらうためなのです。現代人が持つ科学知識観にまで影響を与える、重要視されている項目という伏線が存在することを理解したうえで、必要に応じて「要出典」や「独自研究」という指摘をして、ノートでの対話を求めているのならばまだ良いのですが、今回のように、焦点が無意味な方向に無駄にズレてしまって、論理的な妥当性が認められないためなんらの問題の解決にも繋がらなず、ただ迷惑なだけのように見える状況では、正しいコミュニケーションを取ることは困難だと感じます。

「科学知識とは何か」という基本が分からない状態のまま、ネット百科事典の物理の項目を執筆したり添削することは、本来無理があります。ウィキペディアは、編集に特別な資格がなにも必要なく、また閲覧する読者が書き手を選んだり、記述内容を評価できないシステムになっている以上、問題の発生は仕方がないことなのかもしれません。--203.168.69.94 2009年1月24日 (土) 02:24 (UTC)[返信]

要出典を付けた理由は明記しないですみませんでした。ただ、量子光学という量子論のなかの一分野にいくまえに、ご存知のように、ふつうの量子力学の教科書をひらいて半古典論、半古典近似の項目をみますと、通常 WKB 近似とか、Bohr-Sommerfeld 量子化とか、書いてありますから、そのあたりをまず書いて、量子光学的用法はその次にしたほうがいいんではないかと思ったということです。通じるかとおもいましたが、言葉が足りませんでしたね。失礼しました。その点英語版 en:Semiclassical は非常に素直に書けてますね。少々素粒子に偏りすぎの感がありますが。

半古典論というテクニカルな内容から、科学的理解とはどうあるべきかというどういう教訓が得られるのかという難しい話は僕はわかりませんが、 得られる教訓が同じであるなら、量子光学に特化した例をとってくるより、テクニカルにも標準的な例を取ってきたほうがいいんではないかなと思いますが。 特に半古典論というのは半分だけ古典/半分だけ量子ということではなくって、ご存知のように h で展開して無限項あるうち第0項と第一項をとるというのが通常の用法ですから... お暇なら WKB 近似について書き加えていただけたらいいんですが。

あと、全古典論という言葉は WikiInnocent さんの独自研究/独自用法だったというのでそちらもご同意のようですのでそれは変更しましょう。

おしまいに、閲覧する読者が僕の記述は信用ならんから読みたくない/こいつは信用なりそうだからもっとよみたいというばあいは著者リストに An apple zealot があるかを確認したらいいわけですが、そちらのばあいは IP がときどき変化しているように見受けられまして追い掛けにくいです。今回折角ですから、隗より始めよとも申しますので、Wikipedia に登録なさってはいかがかと思います。--An apple zealot 2009年1月24日 (土) 15:43 (UTC)[返信]