ノート:中田考/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
過去ログ1 過去ログ2

観点、および出典

現在の記事を見たところでは、編集者自身による「中田孝」氏への評価が書かれているように思われます。また、この人物がイスラム原理主義について解説した文を典拠として『進化論を否定している』と記述するのはおかしいのではないでしょうか。

存命人物の伝記であるという点からも、記述の修正が必要であるように感じられます。 -- NiKe 2007年8月28日 (火) 05:10 (UTC)

<ジズヤ・平等>の評価について

評価のセクションについて、Info-jaに以下の箇所は特に事実に反する、と指摘がありました。

  • 『ジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等』などと明確な虚偽を述べている

と書かれていますが、中田氏の発言

  • 「その代わりに税金を払う。そのかわりに生命と財産と信仰とそれから名誉ですね、これがイスラームの人とまったく同じように守られる。そういうシステムです。これがズィンミー、庇護民という人たちです。」(論議を呼んだ発言のセクションより)

でも「平等」とは言っていません。「税金を払う。そのかわりに生命と財産と信仰とそれから名誉ですね、これがイスラームの人とまったく同じように守られる。」ということです。中田氏はCISMORの研究会でも同様の発表をされています。レジュメによれば

ということです。このため、上記箇所はとりあえずコメントアウトさせていただきました。--miya 2007年11月4日 (日) 02:26 (UTC)

まず最初にご指摘ありがとうございます。しかしこの件に関しては誤解の責任は中田氏の言葉にあると思われます。中田氏はズィンミーの信仰、財産、名誉などの保障に関して『イスラームの人たちとまったく同じように』保障されると発言されました。しかし実際は典拠で示したとおり、そして中田氏が最新の発言でお認めになっているように信仰、生命、財産の保証について差別待遇が存在しています。
この場合『まったく同じように保障される』という言葉を用いるのは日本語の用例として不適切であり、いずれにせよそのことは明記しておくべきだと思います。中田氏が『ムスリムとまったく同じように』と発言した以上、それだけ見れば中田氏が信仰、生命、財産の保障に関して非ムスリムとムスリムが平等であるかのように発言した見えるのは自然だと考えられます。中田氏がもし当初からムスリムと非ムスリムはイスラームの支配下では平等ではないという意図で発言を行ったのでしたら、『非ムスリムも生命、財産、名誉を一定程度保障される』と書くべきでした。
それから、中田氏の意見が必ずしもムスリムの多数派ではなく、異論も多いこと(仏像はゴミ、イスラームの家・戦争の家というドグマetc)はすでに典拠を示していますので独自研究ではありません。
最後に、評価の項目に関して再審議することには賛成です。どうもご意見ありがとうございます。YODAFON 2007年11月4日 (日) 06:03 (UTC)
まず、理由をノートに書く前にコメントアウトしてしまった軽率さをお詫びします。それにもかかわらず冷静なお返事をいただき、ありがとうございました。
「平等であるかのように発言した見える」というのは、事実かもしれません。しかしそれはそう受け取る人がいたというだけであり、『ジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等』という言葉を中田氏自身が実際に述べたのではない以上(中田氏の書いたものの中にこの言葉があるならご指摘ください)、「明確な虚偽を述べている」とウィキペディア上で書くのは不正確ですし、中立的な観点にも反します。書くとしても「Aという発言がBという誤解を招いた」と書くべきであり、この場合の「A」は、中田氏の発言を正確にあらわすものであることが必要です。たとえば(上のご説明を流用させていただければ)
  • 中田はズィンミーの信仰、財産、名誉などの保障に関して『イスラームの人たちとまったく同じように保障される』と発言したため、『ジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等』と言ったという誤解を招き、*****から批判された。
ところで、「まったく同じように」と本当に言ったのでしょうか?また上記の批判をしたのは誰なのでしょう。学会ですか?マスコミ?それともネット上の掲示板に集う人たちですか?どこでどう批判されたかということが明確でなければ、やはり本文に書くべきではないと思います。--miya 2007年11月4日 (日) 12:06 (UTC)
『まったく同じように』といったのは事実です。[1]にもそうかかれてあります。誤解に関しては・・・そうですね、常識的に見て日本語の表現として成り立たない、ということではだめでしょうか?『まったく同じように』は特別な指定のない限り、『平等・同等』であるという意味であるのは日本語の用例の常識としてみなすべきだと考えますが。、ウィキペディアでは『常識』を安易に振りかざすのは危険が伴うので、『誤解を招いた』の部分は削除されてもしかたがないかもしれません。
ただ、中田氏の実際に言った言葉、『イスラームの人たちとまったく同じように保障される』はイスラームの規範上偽であることは指摘させていただきます。もしご存知でしたら恐縮ですが、中田氏流にいえば、ズィンミーの人権は『イスラームの人たちとまったく同じようには守られない』のです。これは『まったく同じように』=『平等』かどうかとは別の命題でありますし、歴史的資料などで独立に証明されていることです。
ですので最低限、『中田はズィンミーの信仰、財産、名誉などの保障に関して『イスラームの人たちとまったく同じように保障される』と発言した』ことに続いて、これが歴史学的には偽であることを明記しておくべきと考えます。YODAFON 2007年11月4日 (日) 15:49 (UTC)
おっしゃるとおり「常識」は持ち出さない方がいいでしょう。「まったく同じように」についてはKotoitoさんと同じような感想を持ちました。--miya 2007年11月5日 (月) 14:51 (UTC)

『規範的イスラーム』以外の価値観に関する記述

追記、中田氏が10月6日の研究会で公式に彼の理想とする『規範的イスラーム』以外の価値観を認め、それらとの共存を可能にするための方策を提示されたことを確認しました。評価は別としてこのことは中田氏の重要な主張ですので、記事の中に書いておきます。YODAFON 2007年11月4日 (日) 06:17 (UTC)

それ以外の評価について

このような明白な事実誤認を含むYODAFON氏の加筆、特に「要出典」の評価については、いったんすべてコメントアウトして、ノートでその正確性や客観性、出典を議論すべきではないでしょうか。--miya 2007年11月4日 (日) 02:26 (UTC)

さきほど以下の部分をコメントアウトしました。この項目は存命人物に関するものなので、特にネガティブな記述については確かな出典を求めます。以下の「評価」はだれがどこで表明しているものでしょうか。またその「評価」は百科事典の人物記事に記載できるほど的確なものでしょうか。--miya 2007年11月4日 (日) 04:47 (UTC)


  1. その余りにも原理主義的・教条主義的なイスラーム理解から、非ムスリムは無論ムスリムの多くも含め、信教の自由と平等、人権の尊重といった価値観を重んずる人々から極めて厳しい批判を浴びている[要出典]
  2. また自身は敬虔なムスリムである人間でも信教の自由を理解し、護持する人間は多数おり<ref>かつて私たちはタリバンのようだった ここではかつて中田と同様イスラーム原理主義を擁護していたが、現在では世俗法とイスラームの共存を信じているムスリム知識人の意見が紹介されている。</ref>、中田の主張する『イスラームの価値観』はかなり偏狭なものであるという主張もある[要出典]
  3. その他、イスラーム法の専門家であり、原理主義者でありながらズィンミー制度に対して『ジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等』などと明確な虚偽を述べていることなどから、その学問的誠実性を疑う声もある[要出典]
  4. 科学的議論すら行わず一方的に進化論を否定し創造論を擁護している点も批判の対象である[要出典]
  5. 一方でイスラーム復興・イスラーム原理主義を掲げる団体・個人や、そこまで行かずとも保守的考えを持つムスリムからは、当然のことながら『イスラームの良き価値観』を擁護する論客として篤い尊敬を集めている[要出典]
  6. 更にムハンマド風刺画問題で示した態度から、狂信的ムスリムではあるがそれはイスラーム法という一定のルールに厳格にしたがっているためであり、その点で戒律をも都合の良いように曲解する自己中心的な狂信者とはある程度一線を画しているという評価もある[要出典]
中田考2007-11-04T02:11:15; YODAFON氏の版より転記し、#追加--miya 2007年11月4日 (日) 04:47 (UTC)

評価の出典

YODAFONさんの加筆にあった「評価」をしたのは具体的には誰なのでしょうか。お答えをお待ちしています。--miya 2007年11月5日 (月) 14:51 (UTC)

「論議を呼んだ発言」部の削除について

いろいろと読んでみましたが、「論議を呼んだ発言」部分を消します。この部分、まず論議を呼んだこと自体について出典がありません。出典があればよいのですが、そうでなければ独自研究の可能性が高くなります。また、見出しを変えて「中田氏の発言」というようなかたちで取り上げる場合では、なぜこれらの発言があえて取り上げられるのか、という点でYodafonさんがそのご興味から恣意的に発言を取り上げてきて、おっしゃりたいことをおっしゃっているだけではないのか?ということになります。この記事は存命人物の伝記にあたりますので、なかなか難しい点はあるかもしれませんが、中田さんの著書に対する書評など、なるべく信頼できる情報源に基づく記述が行われるべきです。

また、その内容についても一次史料的に許されるのは中田さんが「〜」といった、という点までであって、その解釈は自明でなければ独自の解釈となります。たとえばうえにあるズィンミー云々ですが、

「要するに軍務には奉仕しない。その代わりに税金を払う。そのかわりに生命と財産と信仰とそれから名誉ですね、これがイスラームの人とまったく同じように守られる。そういうシステムです。これがズィンミー、庇護民という人たちです。」

との中田さんの発言があります。これを引いたあとYodafonさんは、

「実際にはズィンミーには差別が課されるのが『イスラーム法の原則』であり、各種の人権は『イスラームの人たちとまったく同じように』は守られない。この差別は過酷な抑圧となることもままあった。」

と続けていらっしゃいます。ここでYodafonさんは、生命と財産と信仰と名誉、を人権と解釈されませんでしたか? また、「まったく同じように守られる」ことをズィンミーとムスリムが平等と解釈されませんでしたか? 中田さんは差別が課されないとも、各種の人権がまったく同じように守られるともいっていません。

そしてそのあとに田所さんの文章を出典として「生命と財産と信仰とそれから名誉ですね、これがイスラームの人とまったく同じように守られる。」は誤りであると断じていらっしゃいます。これも法学的議論と歴史的事象を混同しています。議論されるべきは(といってもやはり「中田考」の記事内で扱えば独自研究になるでしょうが)、「生命と財産と信仰とそれから名誉ですね、これがイスラームの人とまったく同じように守られる。」という理念を持つ制度であるか、そうではないかということであって(わたくしも公益論あるいは手続き上のあり方との係わりから一般向けの講演とはいえ「まったく」はいい表現とは思いません)、ズィンミー制が歴史的にどのように機能したかはまた別問題です。また方法的にも中田さんの記述を批判するために田所さんだけを引っ張り出すということも疑問を感じます。なぜ田所さんなのか。そしてなぜ一方は誤りとするのに、なぜ一方を無批判に信頼できるのか。このあたりにも問題があるように思います。

もう少し独自研究信頼できる情報源検証可能性に慎重であって欲しい感じがしますが、これは直接会話ページに申し上げようと思います。--Kotoito 2007年11月5日 (月) 08:11 (UTC)

おっしゃられることはよく分かりました。しかしひとつ強い疑問を感じます。まず、
>『ここでYodafonさんは、生命と財産と信仰と名誉、を人権と解釈されませんでしたか? また、「まったく同じように守られる」ことをズィンミーとムスリムが平等と解釈されませんでしたか? 中田さんは差別が課されないとも、各種の人権がまったく同じように守られるともいっていません。』
とのことですが、ここには誤解があります。私は“生命と財産と信仰と名誉、を人権(全体)と解釈”したのではなく、ただ単にそれら(信仰、生命、財産、自由)を人権(もちろん人権全体ではなく、これらの事項に関する“人権”です)と仮に総称しただけです。人権全体に関して中田氏が話していないことはこちらも了解していますし、したがって『まったく同じように』の対象が“生命、財産、信仰、名誉”に限定されていることも承知しています。ですから“人権は『イスラームの人たちとまったく同じように』は守られない”の部分はそのまま“生命と財産と信仰とそれから名誉はイスラームの人たちとまったく同じようには守られない”という意味です。もしこれらを“人権”と総称することが不適切と言われるのなら、誤解を招かないよう最初から“生命、財産、信仰と名誉”と書き、問題となっているのが『生命、財産、信仰と名誉』の保障に関する平等性であることを明確にするべきでした。お詫び申し上げます。


さて、逆に質問ですが、『ズィンミーに対してはイスラーム法下で差別が存在し、信仰、生命、財産、名誉の保証も平等でない』わけで、これと『信仰、生命、財産、名誉がイスラームの人とまったく同じように守られる。』という中田氏の発言が両立しうる、つまり両者が自明的に等価ではないとKotoitoさんは主張されているようです。『常識』というものをあまり持ち出すのは心苦しいですし身勝手とも思いますが、やはり日本語の用例からして『まったく同じように守られる』というのは『平等に守られる』ことを通常意味すると考えますので、『生命と財産と信仰と名誉がイスラームの人々と平等には守られないが、それらは(イスラームの人々と)まったく同じように守られる』といえるのはたとえばどのような場合なのか簡潔に教えていただけないでしょうか?YODAFON 2007年11月5日 (月) 17:30 (UTC)
分かりやすくいえば、『平等に』=『まったく同じように』という命題を否定するために、『平等に』ではないが『まったく同じように』である(その逆も可能です)反例を専門知識のない方でも理解できるように示していただきたいのです。YODAFON 2007年11月5日 (月) 17:37 (UTC)
それから、中田氏の述べたのは『理念』であり、自分のいっていることは『歴史的現象』であってずれているというご意見についてですが、『理念』の面においてもズィンミー制度はズィンミーの『名誉、信仰、財産、生命をイスラームの人たちとまったく同じように』保障する制度とはいえないのではないですか?自分が典拠にあげた以外にもイスラーム法に明記された異教徒差別条項(問題となっている信仰、生命、財産、名誉に関するものも含めて)を載せているものはいくらでもありますが、制度の根幹である法規定がこうである以上『理念』の面においても中田氏の発言は、『差別してもまったく同じように保障している』という言い方が論理として成立しないかぎり不可能です。YODAFON 2007年11月5日 (月) 17:45 (UTC)
どうも自分が誤解を招いてしまう言い方をしてしまったようですね。『ズィンミーに対してはイスラーム法下で差別が存在し、信仰、生命、財産、名誉の保証も平等でない』の後半部は、中田氏の発言にはもちろん由来しません。自分が典拠(イスラーム法規定)などを参照して書いたことです。
中田氏の二回の発言をあわせて考えると、彼は『生命、信仰、財産、名誉の保障に関してはイスラームの人々とまったく同じように(=イスラームの人たちと平等に、ということでよろしいでしょうか?)保障されるが、それ以外の面では“まったく同じように”は扱われない(=平等ではない、ということですよね)。つまりズィンミー制度における差別・抑圧は信仰、生命、名誉、財産に関する権利以外のところに存在する。』と考えており、問題となっているのは中田氏の(そしてKotoitoさんの?)主張である(と思われる)『信仰、生命、名誉、財産に関する権利(人権、といってよいならば人権)の保障の平等性』が果たして偽か真かということです。上にも上げたように私はこれが偽であると考えております。なので『まったく同じ様に(平等に)まもられる』という根拠がありましたらお挙げください。YODAFON 2007年11月7日 (水) 01:54 (UTC)
(横から失礼)ウィキペディアは執筆者の個人的解釈を述べる場ではありません。念のため。--miya 2007年11月6日 (火) 05:15 (UTC)

インデント戻します。 では、Yodafonさんとしては

その他、イスラーム法の専門家であり、原理主義者でありながらズィンミー制度に対して『ジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等』などと明確な虚偽を述べていることなどから、その学問的誠実性を疑う声もある

という点については撤回されるということでよろしいですね。上の議論で明らかなようにジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等などとは中田さんがおっしゃっていません。さて、

問題となっているのは中田氏の(そしてKotoitoさんの?)主張である(と思われる)『信仰、生命、名誉、財産に関する権利(人権、といってよいならば人権)の保障の平等性』が果たして偽か真かということ

とお書きになっていますが、そんなことが問題なのではありません。

人権全体に関して中田氏が話していないことはこちらも了解していますし、したがって『まったく同じように』の対象が“生命、財産、信仰、名誉”に限定されていることも承知

されていたうえで、あえて

イスラーム法の専門家であり、原理主義者でありながらズィンミー制度に対して『ジズヤを支払えばムスリムと非ムスリムは平等』などと明確な虚偽を述べていることなどから、その学問的誠実性を疑う声もある

と学問的誠実性云々という非常に重大なことお書きになり、しかもこれについて出典も出されていないということが問題です。それこそ明確な虚偽を中田氏について書いたうえで、「誤解を招いてしまう言い方」ですませてしまうのはいかがなものかと思われます。ズィンミーとムスリムが不平等であったことは、どんな事典・概説書を参照しようがほとんど書いてあることですし、ジズヤを払えばそれが解消されるなどとはこれまた書いていないことです。それを中田さんが言っていなかったことと認識しているにもかかわらず言ったことにする。それこそ誠実性に問題がありませんか。

Yodafonさんが問題にされたい点については記事としての本項よりはむしろズィンミーにおいて妥当するのでそちらで議論を継続したいと思いますが、同じようにの意は、イスラーム法が平等に適用される、という意味だと私は思います。ムスリムが生命、財産、名誉が保護されるのは当然として、ズィンミーについても法学書ではジハードがらみのところにズィンミーの生命、財産、名誉は不可侵ないし指導者によって保障されると書いてあるはずです。また同様にズィンミーが宗教的自治にもとづき禁止していたり許可しているものをのぞき、ハッド刑が法に従って施行されます。「自分が典拠にあげた以外にもイスラーム法に明記された異教徒差別条項(問題となっている信仰、生命、財産、名誉に関するものも含めて)を載せているものはいくらでもありますが、制度の根幹である法規定がこうである」とおっしゃいますが、いったい誰のいつごろのどのような法学書なのでしょうか。ファトワーでしょうか。そもそも「規定」というのはいったいなんのことでしょうか。Yodafonさんがおっしゃるイスラーム法とは一体何なのですか? 「自分が典拠(イスラーム法規定)などを参照して書いた」解釈でしょうか。私は中田さんではありませんから、「同じように」がどのような意味から用いられたのかはわかりませんが、少なくとも他の中田さんのいろいろな文章からははそのように読み取れますし、別に学説的に「明確な虚偽」と断言するほどの勇気はありません。私も決して法学が専門なわけではありませんから偉そうなことは言えないのですが、正直に申し上げれば、ウマル憲章の記事をお書きになったYodafonさんですが、ジハード論およびズィンマ契約に関わる基本的な意味合いや法学書における見解、それ以上に肯定的・否定的をとわずズィンミーにかかわる論争の基本となるヨールやコーエンなどをあまり参照なさっていないのではないかという印象を受けざるを得ませんでした。

それこそルイスのいうようにズィンミーがらみの議論では、パラダイス的見解と迫害の地獄的見解がありますが、両者共に伝説的な色合いを帯びております。私は別にパラダイス的見解をとるものではありません。引き続きズィンミーのノートで「人権」概念の扱い方などをめぐっていくつか指摘させていただきたいと思います。たとえば現代的人権概念からすれば、前近代のムスリム被支配者もズィンミー被支配者も著しく人権を迫害されているのだ、ということを。--Kotoito 2007年11月8日 (木) 19:07 (UTC)


「原理主義」について

「教条主義的」「原理主義的」という言葉は非常にネガティブな印象を与えうるため、「『イスラーム原理主義』再考」を参考に、「イスラームの原理に忠実」あるいは「規範的」という、より中立的と思われる言葉に置き換えました。--miya 2007年11月6日 (火) 05:09 (UTC)

それでは逆に肯定的になりすぎると思われます、もう少しよい用語はないのでしょうか?YODAFON 2007年11月7日 (水) 01:11 (UTC)
『イスラームの原理に忠実』『規範的』はあくまで中田氏の自己主張であり、そのままウィキペディアに書くのは問題が多いと考え、修正しました。YODAFON 2007年11月7日 (水) 01:16 (UTC)

イスラーム原理主義という用語が極めて負の印象を帯びていること、また、中田氏がその概念の限界性を指摘している中であえて同氏の思想に対して「原理主義」という用語を使うには、なんらかの積極的な意義があるものと考慮されます。したがって、「中田氏は原理主義的である」との主張者はかかる用語をあえて使用することの積極的な意義について説明するべきではないでしょうか。 また、かかる主張を行ううえでは、「イスラーム原理主義」の定義自体も明らかにされる必要があると考えます。 たとえば、ワッハーブ派の主要敵はスーフィズムですが、中田氏が『イスラームのロジック』において存在一性論(pp.146-49)を紹介し、「ウラマーゥがスーフィーを兼ね、一身にシャリーアを体現することが理想である、との理念は失われることはなかった」(同書、p.235)とした上で、古典的スーフィズム理論である「隠れた王国」に言及するというのは、原理主義者にはありえない行動であると思われるのですが、この点について、どのような解釈がありうるのかご説明いただければと思います。--Ks imes 2007年11月11日 (日) 07:44 (UTC)

バーミヤーンおよびイラク人質云々について

出典とされたURIの内容を検討するに、「問題ない」との記述は問題があるように思われます。バーミヤーンについては、イスラーム法上の解釈を示したうえで、宗教的不寛容によるものとする報道のあり方について、それ自体が宗教的不寛容ではないか、という見解を示したものであって、中田氏個人が問題ないとする記述は見られません。またイラク人質云々については、イスラーム法上正当化されるかどうかに対する答えであって、これまた中田氏個人が問題ないと述べているわけではありません。したがって、中田氏がイスラーム法上適法か否かという問いに対する答えであって、これらを中田氏が「問題ない」と言ったとするのは誤解を生じかねない危険性があると考えます。まして文脈上、そうではない可能性に言及することで、破壊・殺害がなくても、それもまた違法ではないという立場の合法性を言明することで、暗黙裏に個人としての痛痒を示しているとさえ思えますが、いかがでしょうか。--Kotoito 2007年11月8日 (木) 19:57 (UTC)

中田氏が示したのはイスラーム法上の合法・不当であり、それは個人としての見解に直結しないというのは理解します。しかしここから個人としては反対だったということを読み取るのは行き過ぎであり、イスラーム法上の見解を述べ、何も個人的な異論をさしはさんでいない以上肯定・黙認ととるのが妥当ではないでしょうか?ただ中田氏の発言から彼の個人的見解を推察するのは読者の役割ですので、『イスラーム法上の合法性を主張した』という現行の記述で妥当と思われます。YODAFON 2007年11月9日 (金) 01:36 (UTC)

政教分離原則に対しては、「戦争の阻止に何らの役割も果たさなかった」と断じ[1]、また『イスラーム世界にあるまじきこと』と攻撃している。[2][3]

政教分離原則に対しては、「戦争の阻止に何らの役割も果たさなかった」と断じ[1]、また『イスラーム世界にあるまじきこと』と攻撃している。[2][3]との表記についてです。『イスラーム世界にあるまじきこと』と引用符にて囲まれている表現が脚注[2]において参照されている「イスラーム主義とシャリーア」の中には見出されなかったのですが、この項の執筆者はいかにして『イスラーム世界にあるまじきこと』という表現を用いられたのか、ご説明願います。なお、「イスラーム主義とシャリーア」にある記述は、「イスラ五世界の最高学府アズハルの「大ウラマー(イスラーム学者)機関」は『イスラームと統治の諸原則』の内容をイスラームの教えに反するとして発禁とし、アリー・アブドゥッ=ラーズィクからアズハルのアーリム(ウラマーの単数)の資格を剥奪した。以後、イスラーム学界ではイスラームの政教一元の原則が再確認されコンセンサスが成立し、研究者の間には政教分離を擁護する者はいない。それは植民地支配の落とし子であるアラブ諸国の憲法にさえ反映されており、それらの憲法はほとんどはいわゆる「国教条項」を有し、「イスラームは国教である」と、明文でイスラームが国家の宗教であることを謳っている。以上からも明らかなように、イスラーム世界においては「政教一元」は学界のみならず「公的」に国家のレベルでも承認された議論の余地のない共同主観的「真理」である。」との客観的内容です。--Ks imes 2007年11月11日 (日) 11:49 (UTC)