ノート:世紀末ウィーン

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世紀末ウィーンとは?[編集]

「世紀末ウィーン」が「多くの場合、1938年のアンシュルス}までを指す、という説明に疑問があります。

  • 1938年まで含むのは、どう考えても長すぎるのではないでしょうか。
本項に対応するらしい英語版Wiener Moderneでは「おおよそ1890年から1910年の間」となってます。
世界史的には世紀末、ベルエポックの時代、大恐慌期を過ぎていると思いますが、ウィーンでは依然として世紀末段階だったのでしょうか。
ショースキーの『世紀末ウィーン』"Fin-de-siècle Vienna"に何年から何年まで、といった定義はないようですが、記述の大半は世界大戦までです。
  • コメント ブロック依頼で指摘させていただいた件について、こちらでお返事します。Greenland4さん、速やかな対応ありがとうございます。要出典タグを復帰させたこと、ひとまず了解しました。率直にいって申し訳ないのですが、一度疑いを持ってしまうと、このノートページへの上記コメントや本ページでのタグ貼りを見落としたという釈明も本当かどうか、すぐには信じられないようになっています。今後の問題として、この記事の射程をどこまでとするのかについて再検討していただければと思います。なお、ブロック依頼については当面これ以上コメントするつもりはありません。
歴史はつながっていますから、極端な例を言えば、日本の「幕末」を真珠湾攻撃まで結びつける解釈だってあるかもしれません。しかし、年代が離れれば離れるほど呼称とのずれが大きくなり、突飛な印象を与えるのは自然な話です。「世紀末ウィーン」でいえば、いくつかあるであろう有力な出典のうち、Greenland4さんはなぜ「広義」とされる解釈を主流とみなしたのでしょうか。この点が問われます。言葉の解釈に幅がある場合は、その違いについて説明し、主流とみなした理由などを含めれば違和感は小さくなるかもしれません。ついでに申し上げると、この冒頭部分でユダヤ系人物の活躍が特筆されていますが、私はこれにも引っかかりました。一方で「反ユダヤ主義」は概略にすら紹介されていないのになぜ?と。記事は概要あたりまでしか読まれない場合も多いため、はじめの数行に何を書き何を書かないかはとくに注意が必要だと思います。--みっち会話2020年11月28日 (土) 10:38 (UTC)[返信]

記事名と内容の祖語の解消[編集]

多言語版 (除く中国語版) ではWiener Moderne になっており、「世紀末ウィーン」「ウィーンの世紀末」などに比べより長期間を対象にしているようです。Wiener Moderne の日本語訳は「近代のウィーン」「近代ウィーン」あたりになるのでしょうか。

まず、「世紀末のウィーン」についてですが、Greenland4さんがブロック依頼で触れている池内紀『ウィーンの世紀末〈白水Uブックス 1020〉』白水社、1992年4月15日発行、ISBN 4-560-07320-1、8頁。には「ウィーンの世紀末というために私はまず1873年という都市を一つのしるしとしておいてみたいのだ。」とあり、その理由として、1.ウィーン万国博覧会、2.証券取引所での大暴落があげられています。Greenland4さんが言及されているように、279~320頁には「ウィーンの世紀末年表」1873~1924年があって、1924年は、カフカの死がその理由となっていることがわかります。また、山之内克子『ウィーン ブルジョア時代から世紀末まで〈講談社現代新書1276〉』講談社、1995年1月10日 第1刷発行、ISBN 4-06-149276-4、210頁。人びとの歓声のなかを誇らしげにウィーン入りしたアドルフ・ヒトラーこそ、「市民の時代」の最後の名残までも根こそぎ一掃することになった張本人であった。カール・E.・ショースキー安井琢磨訳『世紀末ウィーン—政治と文化』岩波書店、一九八三年九月九日 第一刷発行 や ヘルマン・バール西村雅樹訳『世紀末ウィーン文化評論集〈岩波文庫 青583-1〉』岩波書店、ISBN 978-4-00-335831-3 は、論集・論文集であり、「世紀末」や「近代」の定義については書かれていないようですが、後者では、1890年代末~1920年代をカヴァーしているのがわかります。

次に、「近代のウィーン」についてですがW.M.ジョンストン井上修一林部圭一岩切正介訳『ウィーン精神1—ハープスブルク帝国の思想と社会 1848-1938』みすず書房、ISBN 4-662-01768-7、3頁。には、ヘルマン・ブロッホが「ハープスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時代、ことにその間のウィーンを形容して、「陽気の黙示録 („fröhlichen Apokalypse")」といった」ことに言及し、その「陽気の黙示録」を描くことを本書の目標にしています。„fröhlichen Apokalypse" とは、Wiener Totentanz im späten 19 . Jahrhundert つまり「19世紀後半のウィーンの死の舞踏」のことで、20世紀には入らないはずなのですが、結果的に、1848年から1938年までを対象にしています。田口晃『ウィーン—都市の近代〈岩波新書(新赤版)1152〉』岩波書店、2008年10月21日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431152-2、ii頁 には「19世紀後半にウィーン市が自治権を回復し、1934年ファシズム体制のもとで自治権を喪失するまでのほぼ80年」とあります。わりと最近のものですと、Barbara Beßlich (hg.), Cristina Fossaluzza (hg.); unter mitarbeit von Tillmann Heise, Bernhard Walcher. „Kulturkritik Der Wiener Moderne 1890-1938“, Universitätsverlag Winter, ISBN: 978-3-8253-4646-1 があり、「近代のウィーン」として1890年から1938年までが扱われており、歴史的転換点として、1914 / 1918 (第一次世界大戦)、1933 / 1934 (オーストリア内戦)、1938 (オーストリア併合)が挙げられています。

以上のことを簡単にまとめると、「世紀末」系では、どんなに延ばしても1924年まで、「近代」系では、1938年までカヴァーできるということになります。したがって、記事名と記事内容の祖語を解消するための方策として、記事名を「近代ウィーン」「近代のウィーン」などに変更するのがよろしいかと思います。また、「多くの場合、1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)までのそれも含んで呼称する」に出典をつけるのはかなり困難 (多分無理) と思われますので、Greenland4さんが書き換えられたように、記事名を変更するまでの暫定的な措置として「本項では、1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)までのそれも含んで概説する。」としておいたほうが、読者から見てより理解しやすいのではないかと考えます。なお、記事名を変更したのち、「世紀末ウィーン」や「陽気の黙示録」などの用語説明も書いておいたほうがよいのではないかと思います。それでは。-- Takabeg会話2020年11月28日 (土) 14:17 (UTC)[返信]

ウィトゲンシュタイン[編集]

S.. トゥールミンA. ジャニク藤村龍雄訳『ウィトゲンシュタインのウィーン〈平凡社ライブラリー386〉』平凡社、2001年3月10日 初版第1刷、ISBN 4-582-76386-3、5頁。 (以前にTBSブリタニカから出ていたようです) には、「1895年から1914年にかけて、哲学はもちろんのこと、美術と建築、音楽、文学それに心理学において最も実り豊かで、独創的かつ創造的なウィーン生活の、文化的中心の一つを形成していた家庭で、彼はその青年時代を過ごしたのである。」とあり、使えそうだと思います。-- Takabeg会話2020年11月28日 (土) 14:17 (UTC)[返信]

ヒトラー[編集]

中島義道『ヒトラーのウィーン』新潮社、2012年1月20日 発行、ISBN 978-4-10-439708-2、3頁。に「本書の目標は、17歳から22歳までの5年3ヶ月にわたる「ヒトラーのウィーン時代」を覗き込むことである。」とあります。また、本書は、221頁~ の「ウィーン凱旋」という項目で終わっています。アウグスト・クビツェク『アドルフ・ヒトラーの青春—親友クビツェクの回想と証言』も参考になりますし、藤村瞬一『ヒトラーの青年時代』には「ウィーン空爆」に関するヒトラーの発言も書かれていて興味深いです。また、ジョンストンの作品にもショースキーの作品にもヒトラーへの言及が結構ありますので、参考にしてみてください。-- Takabeg会話2020年11月28日 (土) 14:17 (UTC)[返信]