ノート:ルーム・セルジューク朝

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122.133.9.143さんのの編集で、アナトリアのギリシア語使用住民のローマ人意識のフレーズが除去されましたが、中世から近代国民国家イデオロギーの席捲までのキリスト教徒ギリシア語話者が、自らをローマ人と規定していたことは常識に類すると思っていました。そうともいえない要素があるのでしょうか?ノートでの議論をお願いいたします。--ウミユスリカ 2007年5月22日 (火) 22:19 (UTC)[返信]

マスウード2世以後の君主について[編集]

本によってルーム・セルジューク朝の最後の君主が

  • マスウード2世(井谷鋼造先生の「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」)
  • マスウード3世(三橋冨治男先生の著書、マントランの『トルコ史』、東洋文庫の『モンゴル帝国史』4巻に収録されている系図、尚樹啓太郎先生の『ビザンツ帝国史』に収録されている系図)

と異なっており、他言語版でもマスウード2世を最後のスルターンとしているもの(en:Sultanate of Rumpl:Sułtanat Rumutr:Anadolu Selçuklu Sultanları、)、マスウード3世を最後のスルターンとしているもの(de:Liste der Seldschuken-Fürstenfr:Sultanat de Roum)に分かれています。このあたりの事情をご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか……。--オオミズナギドリ会話2012年3月10日 (土) 14:46 (UTC)[返信]

カイホスロー1世で、同じ記事であるのに歴史の最盛期の部分では勝利したが戦闘の前後に陣没、年表では敗北して戦死、となっている?どちらが正しいのでしょうか?勝利と敗北、陣没と戦死は違うのでは?あと、この記事に関係するカイホスロー1世、テオドロス1世、アレクシオス3世の記事ではカイホスロー1世は敗北で戦死になっている?--尾張者会話2012年3月17日 (土) 09:06 (UTC)[返信]

年表の記述を修正するのを忘れていたため(出典が付加されていない改稿前の記事と、2012年3月8日 (木) 10:12‎の改稿後の記事)、本文と矛盾する記述になっていたようです。
関連する記事のテオドロス1世ラスカリスについては出典が無く、アレクシオス3世アンゲロスカイホスロー1世は独自研究が含まれた記事を多量に投稿する方が立項した記事なので(Wikipedia:投稿ブロック依頼/ドルチェットWikipedia:コメント依頼/虚偽の出典が提示された記事を大量に投稿するユーザーについて 20120304#1)、それぞれの記事(特にアレクシオス3世とカイホスロー1世)の信憑性は怪しいです。--オオミズナギドリ会話2012年3月17日 (土) 09:28 (UTC)[返信]

ですが他の3つでは敗北、戦死となっているので大幅に記事を改稿した御方と3つの記事を書いたお方に説明・新たな出典をを求めます。--尾張者会話2012年3月17日 (土) 09:38 (UTC)[返信]

アレクシオス3世とカイホスロー1世と執筆した方は対話拒否のため長期のブロック中、テオドロス1世の執筆者は半年ほど編集を行っていない(そもそも、テオドロス1世は他言語版からの翻訳記事なのですが)ため、説明は不可能です。
そして、記事にTemplate:信頼性要検証を貼付されておられましたが、あの記述の典拠にした書籍(「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」、『改訳 トルコ史』)はどちらも二次資料です。そして、何故自分が別のアカウントで執筆した資料の参考文献を提示していただけないのか、7年超にわたって編集を行っていながらwikipediaにおける一次資料と二次資料の判別すらつかないのか、タグの使い方すら理解していないのか不思議でなりません。--オオミズナギドリ会話2012年3月17日 (土) 09:49 (UTC)[返信]
連日の編集大変お疲れ様です。
自分もあまり良くは存じませんが、手許にある1971年に Muḥammad Javād Mashkūrという人が編集したルーム・セルジューク朝の資料集 Akhbār-i Salājiqa-yi Rūm(『ルーム・セルジューク朝の諸情報』) の系図によると、ルクヌッディーン・クルチ・アルスラーン4世の後、その息子ギヤースッディーン・カイホスロー4世(在位1266-84)が即位しますが、その後を継いだのが彼の従兄弟でイッズッディーン・カイカーウース2世の息子ギヤースッディーン・マスウード2世(在位1284-97)になっています。マスウード2世にはファラームルズ Farāmurz という兄弟がいたようでして、マスウード2世の後を継いだのがこのファラームルズの息子アラーウッディーン・カイクバード3世(在位1297-1302)だったようです。「マスウード3世」というのはこのカイクバード3世の息子のギヤースッディーン・マスウード3世のことのようです。一応このギヤースッディーン・マスウード3世が(系図によれば)スライマーン・イブン=クタルミシュを初代とするルーム・セルジューク朝19代目にして最後の当主ということのようです。
ここからが分からないのですが、イルハン朝のガザンの時代、ガザンは敵対する王族や諸侯を次々粛正して行っていますが、ガザン即位直後にルーム地方を管轄していたのがジャライル部族出身のバルトゥ Bāltū で、結局バルトゥはガザンに謀反を働いた嫌疑で処刑されてしまいます。ルーム・セルジューク朝のマスウード2世はこのバルトゥと通じていたとしてガザンの命令で廃位され、代わりに甥のカイクバード3世が即位させられる事になったようです。しかしこのカイクバードもガザンに敵対したとしてやはり廃位させられたようでして、英語版ではカイクバード3世の廃位を受けて、マスウード2世が復位したということのようです。英語版ではマスウード2世とカイクバード3世との間でスルターン位の交替が繰り返されているような感じになっているようで、実際に史料上でそう記述されているのかはまだ調べられていません。
その交代劇とカイクバード3世の息子のギヤースッディーン・マスウード3世がどう絡んでいるのかもまだ分かりませんが、ルーム・セルジューク朝史についての専著か論文、あるいは史料でどうなっているかもう少し良く調べねばならなそうです。--Haydar会話2012年3月17日 (土) 19:05 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。『東洋史研究』に収録されている井谷先生の「モンゴル侵入後のルーム」で、このあたりの事情について言及されていないか調べたいところなのですが、もうちょっと時間がかかりそうです。(ルーム・セルジューク朝に関する論文を多く執筆されている井谷先生がマスウード2世を最後の君主としていたこと、マスウード3世を最後の君主とする2冊の書籍(『トルコの歴史』、1968年に出版された『改訳 トルコ史』の底本)が出版された時期がいずれも古いこと、井谷先生の「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」と三橋先生の『トルコの歴史』には、マスウード2世とマスウード3世はどちらもカイセリで急死したと書かれていることより、「研究が進んで「これまで最後の君主とされていたマスウード3世」とマスウード2世は同一人物だと見なされるようになったのかなあ」とも思いましたが…。)
今のところはマスウード3世を最後の君主としている二次資料が多いことと、山川出版社の『西アジア史 2 イラン・トルコ』と平凡社の『新イスラム事典』に収録されている(おそらくは)井谷先生が作成された系図では1308年の滅亡時の君主の名前を確認できないことより、本文のルーム・セルジューク朝#国家の形骸化、滅亡と歴代君主の一覧ではマスウード3世を最後の君主としています。--オオミズナギドリ会話2012年3月18日 (日) 11:12 (UTC)[返信]
オオミズナギドリさん 重ねてお疲れ様です。井谷先生の「モンゴル侵入後のルーム」は、1243年のキョセ・ダグの戦いから1261年までを対象としておりますが、副題に「兄弟間のスルタン位争いをめぐって」とあるようにギヤースッディーン・カイホスロー2世の死後にイラン総督府やフレグの西征などモンゴル帝国の複雑な動向に翻弄されながら展開したイッズッディーン・カイカーウース2世とルクヌッディーン・クルチ・アルスラーン4世の兄弟の間で争われた後継争いについての論文でして、残念ながらマスウード2世とマスウード3世、カイクバード3世といったルーム・セルジューク朝最末期までは扱われていません。
集史』のルーム・セルジューク朝史はカイクバード3世のところで終わっていますが、内容もガザンの命令でカイクバード3世が捕縛されたあたりでルーム・セルジューク家そのものの記述は終わっており、その後は事後処理を行ったクトルク・シャー・ノヤンやチョバンなどのモンゴル部将たちがガザンの命令でどう行動したか、といったことしか書かれていないようです。同じくイルハン朝末期の歴史家ムスタウフィー・カズヴィーニーが著した『選史』のルーム・セルジューク朝の部分でも、同王朝の最後はマスウード2世とカイクバード3世で終わっており、ガザン没後のイルハン朝側の認識としては、どうもマスウード2世とカイクバード3世でルーム・セルジューク朝は終わったと見ていた感じがします。
肝心の『イスラーム百科事典』やトルコ語版の方のルーム・セルジューク朝の部分をまだ調べられておらずあまり大したことが言えないのが情けないところですが(汗 『ルーム・セルジューク朝の諸情報』の序論にあるギヤースッディーン・カイホスロー3世の項目の末尾で色々説明されていますが、ざっと見た限りですと、どうやらマスウード2世がカイクバード3世のあと復位し、イルハン朝のオルジェイトゥの時代、ヒジュラ暦708年(1309年)にコンヤで没し、その後はチョバン家の子息たちなどがアナトリアの統治権を握り、ギヤースッディーン・マスウード、多分マスウード2世のことだと思いますが、これを最後にルーム・セルジューク朝が断絶した、というような説明がされているようです。
脚注ではこれらのことについての典拠としては、
・フセイン・ナムク・オルコン Huseyin Namık Orkun 氏という多分トルコの研究者の『テュルク史』( Türk tarihi, Ankara, 1946, p.78-103)、
・Claude Cahen 氏の『オスマン・トルコ以前』(Pre-Ottoman Turkey : a general survey of the material and spiritual culture and history, c. 1071-1330, 1968, p.293-303)、
・Tamara Talbot Rice 氏の『小アジアにおけるセルジューク朝』( The Seljuks in Asia Minor(Ancient peoples and places ; v. 20)., c1961. p.79-80)の3つほどの研究書をあげているようです。現在の自分にはいささかアクセスが難しいものもあるようですので、『ルーム・セルジューク朝の諸情報』で編者の M.J. Mashkūr 氏が上記の文面の根拠として、どこまでこれら3冊に依拠しているのか確認するのは、まだしばらく時間が掛かりそうです。もうひとつ、M.J. Mashkūr 氏が『ルーム・セルジューク朝の諸情報』が掲げている系図で「カイクバード3世の息子のマスウード3世」について一応脚注を施しているのですが、「彼の貨幣に基づく」というような短い付言と、その根拠としているらしい(Revue hist ott. III. p.191)というような書誌情報を載せているのですが、これが何の略記なのかいまひとつ分かりませんでした。他に系図であげられているルーム・セルジューク朝の女性王族についての脚注で、例えばカイホスロー3世の娘のホダーヴァンド・ハトゥン Khudāvand Khātūn のところでも(Revue hist ott. XII. p.745)とあるので、雑誌かオスマン朝以前を扱った貨幣研究か何かの大部な著書だと思うのですが、まだ特定出来ていません。
ネットで検索したところ、こちらのサイトの紹介によりますと、Claude Cahen 氏は The Formation of Turkey. The Seljukid Sultanate of Rum: 11th to 14th century(Holt, P. M. trans. 2001)という本も発表しているようでして、そこでモンゴル宮廷に連行されたカイクバード3世の死やマスウード2世の復位についても説明があるみたいです。一応、『ルーム・セルジューク朝の諸情報』にも収録されているチョバンの息子テムル・タシュに献呈されたアクサラーイーによるルーム・セルジューク朝史『月夜史話と善き同行者( Masāmarat wa al-Akhbār Musāyarat al-Akhyār )』(1323年)にはカイクバード3世の廃位からマスウード2世の死まで扱われているようですが、割と分量があるうえ自分にはあまり見慣れないルーム・セルジューク朝内外の廷臣たちの行動についても色々書かれているようでして、予備知識無しで素読できるか自信がありません。ルーム・セルジューク朝史について無知さ加減を思い知らされて忸怩たる思いですが、取り敢えずは Claude Cahen 氏の著書をひとまずの目標として確認しつつ、そこで典拠となっている史料や(貨幣研究などの)関連研究をさらに調べるなどして(のべでどのくらい時間が掛かるか分かりませんが)ひとつひとつ検証出来ればと考えています。--Haydar会話2012年3月18日 (日) 19:14 (UTC)[返信]