ノート:ガダルカナル島の戦い

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日本軍撤退後について[編集]

調べたのですが、記事にあるような記述を発見することができませんでした。撤退に際して相当数の日本兵が取り残されたことは間違いありませんが、狙撃兵として意図的に配置されたものがあったのでしょうか。また、「餓島」と呼ばれた島でどうやって自力で食料収集が可能だったのでしょうか。 (もっともあり得るのは、米軍から盗み出すことですが) 横田庄一氏などの例を見れば、数年以上の年月を生き残った日本兵がいた可能性は大いに考えられるのですが、米軍と何らかの交戦を継続しながら、というのは、非常に考えにくいように思えます。--Inti-sol 2006年12月30日 (土) 14:23 (UTC)[返信]

生命判断の初出その他について[編集]

1942年12月頃からアウステン山の守備についていた兵士たちの間で不思議な生命判断が流行り出したと言われる。辻政信参謀の戦後著書に初出がある。以後、この余命の判定の記述は小尾靖夫『人間の限界』、五味川純平『ガダルカナル』などのガダルカナル戦の関連著書に引用されている。」

↑この記述はおかしいです。私は小尾靖夫『人間の限界』の原文はもっていませんが、五味川純平「ガダルカナル」(文春文庫)には、「歩124連隊旗手小尾少尉の日記によると」(同書P398)と明記されており、出典の表示も、(小尾靖夫「人間の限界」12月27日の項)と日記の日付まで特定されています。一方、辻は11月中にはガダルカナルを離れており(もちろんその時点でもガダルカナルは飢餓地獄にはあったが)、12月のアウステン山の兵士たちの風聞を直接耳にすることは不可能です。このことから見て、結果的に著書の出版が辻と小尾でどちらが早かったにしろ、実際には小尾が辻の記述を「引用」というのはあり得ないでしょう。そうである以上、「引用原文には大本営参謀の辻政信の主観と終戦直後の当時の「大東亜戦争=非人道的な戦争」とする世相の反映が見られると言えよう。」というのは事実ではないと思われます。--Inti-sol 2007年8月13日 (月) 14:05 (UTC)[返信]

→オリジナルは小尾軍旗少尉の個人日誌で間違いないと思います(公刊戦史「陸軍南太平洋戦史(1)」に小尾少尉の記述を基礎に12月にアウステン山周辺の将兵にこのような風聞が出ていたことが記載されています)。しかし、初出であるべき小尾少尉の「人間の限界」は昭和35年の「実録太平洋戦争3」に収載されるまでの公表版を追いかけられていませんので、戦後「ベストセラー作家」となった辻参謀のものを初出としました(辻、川口の個人的怨恨からか、連隊旗を管理していた小尾軍機小隊長の記述から引用している旨の記載は辻の著書にはありません)。両方とも公刊戦史収載のものと一字一句同じ記載です。できれば、小尾少尉の初出書が分かればよいのですが・・・記述は触らないようにします。--Yuki Sue 2007 2007年8月14日 (火) 23:55 (UTC)[返信]

了解しました。推測ですが、小尾軍旗少尉の個人日誌の公表は、昭和35年のその本がおそらく初めてでしょう。そうだとしても、小尾はその場にいて、辻はいなかった以上「この余命の判定の記述は小尾靖夫『人間の限界』~に引用されている。」というのは、やはり関係がひっくり返っていると思われます。一応、初出は辻の著作であることについては触れるように修正します。それから、「公刊戦史「陸軍南太平洋戦史(1)」に小尾少尉の記述を基礎に12月にアウステン山周辺の将兵にこのような風聞が出ていたことが記載されています」ということは、本文中の「公刊戦史はもとより部隊戦闘詳報(当時、アウステン山の守備についていたのは東海林部隊及び第38師団第228連隊の稲垣大隊とみられる)にも記録は残っていない。」も誤りということになりますね。その部分も訂正しておきます。--Inti-sol 2007年8月15日 (水) 06:19 (UTC)[返信]
小尾少尉のエピソードの加筆修正の件、有難うございました。結局、引用部分の刊行順では昭和25年、養徳社の辻著『ガダルカナル』が初出、その後昭和35年に中央公論社の『実録太平洋戦争』シリーズ第3巻に小尾軍旗少尉の『人間の限界』で少尉手記の全文掲載、さらに昭和43年3月の戦史叢書に一部転載されたというのが今のところ確からしいところですね。また、辻政信参謀のガダルカナル島脱出は1942年11月8日の便の鼠輸送によるとのことで、辻がこの風聞の記述に接したのは戦後、著述作業に着手した頃と考えるのが妥当のようです。--Yuki Sue 2007 2007年8月15日 (水) 13:41 (UTC)[返信]