チェリク (エルジギン部)

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チェリクモンゴル語: Čelig1259年 - 1305年)は、13世紀末から14世紀初頭にかけてモンゴル帝国大元ウルス)に仕えた政治家の一人。コンギラト部の一派、エルジギン部の出身であった。『元史』などの漢文史料では徹里(chèlǐ)と記される。

概要[編集]

チェリクの曾祖父のタイチ(太赤)はチンギス・カンに仕えて「馬歩軍都元帥」に任じられた人物で、金朝侵攻に活躍した功績により徐州邳州を与えられ、以後徐州に居住するようになった。チェリクは父を早くに亡くしてしまったが、母親の蒲察氏(女真人)より学問を教えられ育てられた。チェリクは至元18年(1281年)よリクビライに仕えるようになったが、クビライはチェリクの応対が優雅なのを気に入って常にそば近くに仕えさせたという。至元21年(1284年)より始まったナヤンの乱鎮圧戦にも参加し、反乱鎮圧軍が通過した地域の住民が飢えないよう食料を供給するよう進言し、クビライに採用されている[1]

至元24年(1287年)、チベット仏教僧のサンガ尚書省を拠点として絶大な権勢をふるうようになると、その権勢に危機感を覚えたチェリクは激しい口調でサンガを弾劾した[2]。 サンガを弾劾したことでチェリクはクビライの怒りを買ったが、粘り強くサンガの罪を訴えたことでクビライの理解を得て、サンガの失脚につながったという[3]

サンガの失脚後、チェリクは福建行省の平章政事に任じられ、福建に赴任した。福建地方の中でも汀州漳州は盗賊の欧狗が長らく平定されずいたため、チェリクは軍を率いて盗賊の平定に向かったが、軍の規律を厳しくして投降者には酒食をふるまって厚く遇したため多くの盗賊が続々と投降したという。やがて欧狗は部下によって捕らえられてチェリク軍に引き渡され、欧狗が晒し首とされたことで汀州・漳州の盗賊は完全に平定された[4]

至元31年(1294年)にクビライが危篤となると、チェリクは急ぎクビライの下に馳せ参じてそば近く仕え、クビライが崩御すると上都におけるクリルタイでテムルの即位を支持した。大徳元年(1297年)には江南諸道行台御史大夫に任じられ、次いで大徳7年(1303年)には江浙行省平章政事とされた[5]。なお、江浙行省平章政事への任命は、同時期に江浙行省左丞相とされた董士選とともに海商の朱清張瑄らの失脚に対応するためのものであった[5]。当時、大元ウルス朝廷は江浙地方から海上輸送される税糧に大きく頼っていたが、朱清・張瑄ら豪商が私利のため囲田を大々的に開発したことによって水道が塞がれるという弊害が起こっていた[6]。そこで、新たに江浙行省に赴任したチェリク・董士選がらが水利事業に携わり、数万の人卒と4ヶ月の期間を経て水運路の改善を行った[6][7]

大徳9年(1305年)、中書平章政事に任じられて中央に呼び戻されたが、同年10月に47歳にして病死した[8]。没後、チェリクの家に残された財産は少なく、人々はチェリクの清廉さを改めて賞賛したという[9]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻130列伝17徹里伝「徹里、燕只吉台氏。曾祖太赤、為馬歩軍都元帥、従太祖定中原、以功封徐・邳二州、因家於徐。徹里幼孤、母蒲察氏教以読書。至元十八年、世祖召見、応対詳雅、悦之、俾常侍左右、民間事時有所咨訪。従征東北辺還、因言大軍所過、民不勝煩擾、寒餓且死、宜加賑給、帝従之、乃賜辺民谷帛牛馬有差、頼以存活者衆。擢利用監。二十三年、奉使江南、省風俗、訪遺逸。時行省理財方急、売所在学田以価輸官。徹里曰『学田所以供祭礼・育人才也、安可鬻』。遽止之。還朝以聞、帝嘉納焉」
  2. ^ 植松 1997, p. 31.
  3. ^ 『元史』巻130列伝17徹里伝「二十四年、分中書為尚書省。桑哥為相、引用党与、鉤考天下銭糧、凡昔権臣阿合馬積年負逋、挙以中書失徴奏、誅二参政。行省乗風、督責尤峻。主無所償、則責及親戚、或逮繋隣党、械禁榜掠。民不勝其苦、自裁及死獄者以百数、中外騒動。廷臣顧忌、皆莫敢言。徹里乃於帝前具陳桑哥奸貪誤国害民状、辞語激烈。帝怒、謂其毀詆大臣、失礼体、命左右批其頬。徹里辯愈力、且曰『臣与桑哥無仇、所以力数其罪而不顧身者、正為国家計耳。苟畏聖怒而不復言、則奸臣何由而除、民害何由而息。且使陛下有拒諫之名、臣窃懼焉』。於是帝大悟、即命帥羽林三百人往籍其家、得珍宝如内蔵之半。桑哥既誅、諸枉繋者始得釈。復奉旨往江南、籍桑哥姻党江浙省臣烏馬児・蔑列・忻都・王済、湖広省臣要束木等、皆棄市、天下大快之。徹里往来、凡四道徐、皆過門不入」
  4. ^ 『元史』巻130列伝17徹里伝「進拜御史中丞、俄升福建行省平章政事、賜黄金五十両・白金五千両。汀・漳劇盜欧狗久不平、遂引兵征之、号令厳粛、所過秋毫無犯。有降者、則労以酒食而慰遣之、曰『吾意汝豈反者耶、良由官吏汚暴所致。今既来帰、即為平民、吾安忍罪汝。其返汝耕桑、安汝田裡、毋恐』。他柵聞之、悉款附。未幾、欧狗為其党縛致於軍、梟首以徇、脅従者不戮一人、汀・漳平」
  5. ^ a b 植松 1997, p. 306.
  6. ^ a b 植松 1997, pp. 319–320.
  7. ^ 『元史』巻130列伝17徹里伝「三十一年、帝不豫、徹里馳還京師、侍医薬。帝崩、与諸王大臣共定策、迎立成宗。大徳元年、拜江南諸道行台御史大夫。一日、召都事賈鈞謂曰『国家置御史台、所以粛清庶官・美風俗・興教化也。乃者御史不存大体、按巡以苛為明、徴贓以多為功、至有迫子證父・弟證兄・奴訐主者。傷風敗教、莫茲為甚。君為我語諸御史、毋庸效尤為也』。帝聞而善之、改江浙行省平章政事。江浙税糧甲天下、平江・嘉興・湖州三郡当江浙什六七、而其地極下、水鐘為震沢。震沢之注、由呉松江入海。歳久、江淤塞、豪民利之、封土為田、水道淤塞、由是浸淫泛溢、敗諸郡禾稼。朝廷命行省疏導之、発卒数万人、徹里董其役、凡四閲月畢工」
  8. ^ ただし、『元史』世祖本紀ではチェリクが中央に呼び戻された年を1307年のこととしている(宮2018,354/414頁)
  9. ^ 『元史』巻130列伝17徹里伝「九年、召入為中書平章政事。十月、以疾薨、年四十七。薨之日、家資不満二百緡、人服其廉。贈推忠守正佐理功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国、追封徐国公、諡忠粛。至治二年、加贈宣忠同徳弼亮功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封武寧王、諡正憲。子朶児只、江浙行省左丞」

参考文献[編集]

  • 植松正『元代江南政事社会史研究』汲戸書院、1997年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻130列伝17徹里伝
  • 新元史』巻197列伝94徹里伝
  • 蒙兀児史記』巻105列伝97徹里伝
  • 国朝名臣事略』巻4平章武寧正憲王