ダナージー・ジャーダヴ

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ダナージー・ジャーダヴマラーティー語:धनाजी जाधव, Dhanaji Jadhav, 1650年[1] - 1708年)は、インドデカン地方マラーター王国の武将。歴戦の勇将でもあった。

歴史[編集]

1650年頃、ダナージーはサンタージー・ジャーダヴの息子として生まれた[1]

ダナージーは若年よりマラーターの指導者シヴァージー配下プラタープ・ラーオ・グージャルの軍に加わっていた。その後、軍功を上げてゆき、シヴァージーから重用された。

1689年のサンバージーの殺害後、新たにマラーター王となったラージャーラームシェンジ(ジンジー)に逃げ、その地を王都とした[2]

一方。ダナージーはサンタージー・ゴールパデーとともにマハーラーシュトラからカルナータカにかけてゲリラ戦を行い、ムガル帝国、そして皇帝アウラングゼーブへの抵抗をつづけた[2]

ダナージーは数多くの戦いに勝利し、1692年12月にはサンタージーとともにシェンジを攻撃したカルナータカ太守ズルフィカール・ハーンを破っているほか、1695年12月には再びヴェールール付近でズルフィカール・ハーンを破っている。

1703年11月、アウラングゼーブの息子カーム・バフシュを通じ、サンバージーの息子シャーフーを引き渡すよう協議を行った。だが、この協議は失敗に終わった。

1705年、ダナージーはマラーター兵40000人を率い、グジャラートに進軍した。その軍勢はスーラトを攻撃し、バルーチまでのグジャラートの領域を略奪した。

1707年、マラーター王子シャーフーがマラーター王シヴァージー2世とその母ターラー・バーイーを打倒しようとしたとき、歴戦の勇将でもあったダナージーはひそかにシャーフーを支持した[3]

1708年、シャーフーがマラーター王となった[3]。この年、ダナージーは死亡した。

脚注[編集]

  1. ^ a b Manohar Malgonkar (1971). Chhatrapatis of Kolhapur. Popular Prakashan. https://books.google.co.jp/books?id=h1ADAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 2013年6月5日閲覧。 
  2. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211
  3. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212

参考文献[編集]

  • 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年

関連項目[編集]