タブン (ウイグル人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タブンモンゴル語: Tabun、? - 1243年)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は塔本(tǎběn)。

概要[編集]

タブンの父は「国老」を意味する称号を授けられた天山ウイグル王国の重臣で、タブンは鷹揚な人柄から「揚公」とも呼ばれていた[1]

タブンはチンギス・カンに仕えて各地を転戦し、遼西方面に進出したときには平灤・白霫諸城の攻略に功績を挙げた。軍中で妄りに人殺しをする者が居た時には「国の根本は民であり、殺人は国に何の利益ももたらさない」と述べてやめさせたという。これを聞いたチンギス・カンはタブンを取り立て、金虎符を授けて白霫諸郡に駐屯させた[2]

その後、タブンは興平に移ったものの、興平は長年にわたる兵乱によって荒廃していた。タブンは現地の不老を呼び出して聞き取りを行い、税を薄くして生活を安定させ、700戸しかなかった人口を1・2年の内に1万戸近くに増加させた。1234年甲午)には李仙・趙小哥らが起こした乱を鎮圧している[3]

1243年癸卯)に病で亡くなり、息子のアルキシュ・テムルが後を継いだ[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「塔本、伊吾廬人。人以其好揚人善、称之曰揚公。父宋五設託陀、託陀者、其国主所賜号、猶華言国老也」
  2. ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「塔本初従太祖討諸部、屡阨艱危。復従囲燕、征遼西、下平灤・白霫諸城。軍士有妄殺人者、塔本戒之曰『国之本、民也。殺人得地、何益於国。且殺無罪以堅敵心。非上意』。太祖聞而喜之、賜金虎符、俾鎮撫白霫諸郡、号行省都元帥、管内得承制除県吏、死囚得専決」
  3. ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「久之、徙治興平。興平兵火傷残、民惨無生意。塔本召父老問所苦、為除之、薄賦斂、役有時。民大悦、乃相与告教、無違約束、帰者四集。塔本始至、戸止七百、不一二年、乃至万戸。出己馬以寛駅人、貸廉吏銀、其子銭不能償者、焚其券。農不克耕、亦与之牛、比歳告稔、民用以饒。庚寅、詔益中山・平定・平原隷行省。甲午、盗李仙・趙小哥等作乱、塔本止誅首悪、宥其詿誤」
  4. ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「癸卯立春日、宴群僚、帰而疾作、遂卒。是夕星隕、隠隠有声。遺命葬以紙衣瓦棺。贈推誠定遠佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封営国公、諡忠武。子阿里乞失鉄木児」

参考文献[編集]

  • 元史』巻124列伝11塔本伝