セクストゥス・フリウス

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セクストゥス・フリウス
Sextus Furius (Medullinus Fusus)
出生 不明
死没 不明
出身階級 パトリキ
氏族 フリウス氏族
官職 執政官(紀元前488年)
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セクストゥス・フリウスラテン語: Sextus Furius)、またはフリウス・メドゥッリヌスまたはフリウス・ルフスまたはフリウス・メドゥッリヌス・フフス共和政ローマ初期の政治家・軍人。紀元前488年執政官(コンスル)を務めた。

出自[編集]

パトリキ(貴族)であるフリウス氏族の出身。氏族としては最初の執政官となった人物である。フリウス氏族はローマで最も古いパトリキの一つであり、共和政時代全期間を通じて、高官を輩出している。墓標の碑文から、フリウス氏族はトゥスクルム(en)の出身と思われる。コグノーメン(第三名、家族名)はリウィウスディオニュシオスも記しておらず、紀元前488年の執政官を354年の年表ではルティルスとウィゲッリウス(二度目)、467年に作成されたConsularia Constantinopolitanaではナウティウスとルフスとしており、その他にメドゥッリヌス、フススまたはメドゥッリヌス・フススとされる場合もあって確かではない[1]

経歴[編集]

紀元前488年に執政官に就任。同僚執政官はスプリウス・ナウティウス・ルティルスであった[1][2]。この年に、ローマを追放されていたガイウス・マルキウス・コリオラヌスウォルスキ軍を率いてローマに侵攻し、ローマを包囲している。市民はルティルスとルフスにコリオラヌスと交渉するように要請した[3]。交渉使節の中には、過去に執政官を務めたマルクス・ミヌキウス・アウグリヌスポストゥムス・コミニウス・アウルンクススプリウス・ラルキウス・ルフスプブリウス・ピナリウス・マメルキヌス・ルフス、およびクィントゥス・スルピキウス・カメリヌス・コルヌトゥスが含まれていた[1][4]。コリオラヌスは当初交渉を拒否したが、最終的には妻と母に説得されて撤退した。このため、フリウスはウォルスキに対して襲撃部隊を派遣することができた[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Broughton 1951, p.19.
  2. ^ ディオニュシオス『ローマ古代誌』、VIII, 16
  3. ^ リウィウスローマ建国史』、II:39.9
  4. ^ ディオニュシオス『ローマ古代誌』、VIII, 22, 4-5

参考資料[編集]

関連項目[編集]

公職
先代
ガイウス・ユリウス・ユッルス
プブリウス・ピナリウス・マメルキヌス・ルフス
執政官
同僚:スプリウス・ナウティウス・ルティルス
紀元前488年
次代
ティトゥス・シキニウス
ガイウス・アクィッリウス・トゥスクス