ズヴェニスラヴァ・ボリソヴナ

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ズヴェニスラヴァ・ボリソヴナ(もしくはログヴォロドヴナ)ロシア語: Звенислава БорисовнаもしくはРогволодовна、1127年以前 - 1173年以降)はポロツク公フセスラフの孫、ボリスあるいはログヴォロド(フセスラフの子として記録のある、ボリスとログヴォロドと同一人物とみなす説がある)の娘にあたる人物である。ポロツク公国修道女で、修道名はエヴプラクシヤ(エフプラクシヤ、エウプラクシヤ(ロシア語: Евпраксия))。

生涯[編集]

ズヴェニスラヴァに関しては、従姉妹の修道女・エヴフロシニヤを記した聖人伝『聖女イェフロシニア伝(ru)[注 1]に言及がある。

エヴフロシニヤの影響を受けたズヴェニスラヴァは、エヴフロシニヤの建設したポロツクの救世主修道院(現・救世主聖エヴフロシニヤ修道院(ru))で剃髪式を行い、修道名を得た。その後、1169年ごろにエヴフロシニヤと、その兄弟のダヴィドとともに、エルサレムへ巡礼に向かった。1173年にエヴフロシニヤはエルサレムで没するが、その臨終の際に、エヴフロシニヤの十字架(ru)を故郷・ポロツクに持ち帰ることをズヴェニスラヴァに託した。この十字架は紆余曲折を経て現在は行方不明となっているが、13世紀まではポロツクにあった[注 2]。また、ズヴェニスラヴァを『聖女イェフロシニア伝』の著者とみなす仮説がある[2]

ズヴェニスラヴァの没年は1202年とみなされることが多い。ただし実際は、根拠となっている年代記の1202年の記述は別の人物に関するものであり、ゆえに正確な没年は不明である。いくつかの史料によれば、ズヴェニスラヴァは正教会によって聖列に加えられており、その記憶日は5月24日とされている[3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 書籍名は日本語文献内の表記に従う[1]
  2. ^ エヴフロシニヤ・ポロツカヤ#エヴフロシニヤの十字架en:Cross of Saint Euphrosyne等を参照されたし。

出典[編集]

  1. ^ 早坂眞理『ベラルーシ 境界領域の歴史学』p104等
  2. ^ Кніга жыцій і хаджэнняў. Уклад. Мельнікаў А. А. Мн., 1994. С. 25-41.
  3. ^ Baumgarten N. Généalogies et mariages occidentaux des Rurikides Russes du X-е au XIII-е siècle /Orientalia Christiana. — Roma. — 1927. — N35.-95p.

参考文献[編集]