ジョージ・ミュラー
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| ジョージ・ミュラー | |
|---|---|
| 生誕 | 1805年5月27日 プロシア・クロッペンシュタット |
| 死没 | 1898年3月10日 イギリス・ブリストル |
| 職業 | 説教家 |
| 配偶者 | メアリー・グルーブス、スザンナ・サンガー |
ジョージ・フレデリック・ミュラー(George Fredrick Müller (ドイツ語: George Friedrich Müller)、1805年5月27日 - 1898年3月10日)はプロシア生まれで、イギリスで活躍した孤児院経営者、宗教家、説教家。世俗に頼らず神のみに頼るという方法を生涯貫き、多くの孤児たちを救済した。日本においては、孤児事業のパイオニアとなった石井十次の岡山孤児院のモデルとなり、石井の思想に決定的な影響を与えた<[1]。また来日し、新島襄に招聘され同志社で講演をするなどして、山室軍平などに多大な影響を及ぼした。[2]。また英国教会史的には、プリマス・ブレズレンのジョン・ダービ(ネルソン・ダービーと表記されることが多い)と意図せず神学論争をし、それを契機にブラザレン運動初期段階において二つの流れを形成する大きな影響を与えた人物としても注目されるている点は特筆すべきである[3]。
目次 |
生涯 [編集]
- 1805年 プロシア、クロッペンシュタットで誕生。
- 1825年 小さな家の集会を訪問した後、入信
- 1829年 ロンドン、ユダヤ人宣教会で働くためにロンドンに行く。
- 1829年 病床に付す。瀕死の重病になる。
- 1829年 デボンのテイマンスで回復する。このこと、ヘンリー・クラークに出会う。また、プリマス・ブレザレンの創始者に出会う。
- 1930年 ロンドン、ユダヤ人宣教会との関わりを離れる。テインマスのエベネゼルチャペルで牧師に就任する。
- 1830年 ヘンリー・クラークと共にブリストルのギデオン・チャペルの牧師になる。
- 1834年 聖書知識協会を設立
- 1836年 最初の孤児達の家をブリストル、ウィルソン・ストリートに設立
- 1849年 ブリストルのアシュリーダウンに孤児院を設立(アレン・ハウス)
- 1857年 アシュリーダウンに二番目の孤児院を設立(ブルーネル・ハウス)
- 1862年 アシュリーダウンに三番目の孤児院を開設(ミュラー・ハウス)
- 1866年 ヘンリー・クラークが死去
- 1869年 四番目の孤児院をアシュリーダウンに設立。(デイビー・ハウス)
- 1870年 最後の孤児院を、アシュリーダウンに設立。(カボット・ハウス)メアリー夫人が死去。
- 1871年 スザンナ・サンガーと結婚
- 1878年 宣教旅行開始。42カ国を32万キロ旅する。
- 1878年 ホワイトハウスでラザフォード・ヘイズアメリカ大統領と会見する。
- 1892年 最後の宣教旅行を終える。
- 1894年 スザンナ夫人が死去
- 1897年 ビクトリア女王即位60周年の際、ベテスダ・チャペルで説教する。
- 1898年 92歳で死去
書籍 [編集]
著書 [編集]
- 『祈りの力』 マルコーシュ・パブリケーション ISBN 4872071255 1993年
- 『信仰』 いのちのことば社ポケット・ディボージョン ISBN 9784264021209 2003年
伝記 [編集]
- A・T・ピアソン『信仰に生き抜いた人』 いのちのことば社
- A・E・C・ブルックス編『ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣』 いのちのことば社 ISBN 4264008387 2004年
- 金井為一郎 『信仰勝利者-ジョージ・ミュラー』東光社 1926年
研究書 [編集]
- 木原活信「ジョージ・ミュラーが石井十次に及ぼした影響」(pp.1-26) 同志社大学人文科学研究所編『石井十次の研究』角川書店、1999年
- 木原活信(1993)「同志社のアイロニー ―山室軍平の中途退学-」『新島研究』第82号,pp.139-162.
脚注 [編集]
- ^ >木原活信「ジョージ・ミュラーが石井十次に及ぼした影響」(pp.1-26) 同志社大学人文科学研究所編『石井十次の研究』角川書店、1999年に詳細が記載されている
- ^ 木原活信(1993)「同志社のアイロニー ―山室軍平の中途退学-」『新島研究』第82号,pp.139-162.参照
- ^ Cord,F.R.(1968).A History of the Bresthren Movement,Regent College Publishing:Vancouber.