カルロッタ・パッティ

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カルロッタ・パッティ
Carlotta Patti
基本情報
生誕 1840年
死没 1889年6月27日
フランスの旗 フランス パリ
ジャンル クラシック
職業 ソプラノ歌手

カルロッタ・パッティCarlotta Patti 1840年頃 - 1889年6月27日[1])は、19世紀ソプラノ歌手オペラで活躍し、妹には有名なソプラノのアデリーナ・パッティがいる。様々な出典の間で彼女の生年は揺らいでおり、1835年[1]、1840年[2]1842年[3]などの説がある。

音楽家一家に生まれたカルロッタは幼い頃アンリ・エルツピアノを習っており、その後妹を追う様に歌の道へと入った。カルロッタは子どもの頃に、歩く際に明らかに足を引きずる障害を負ってしまう。このことが原因で、彼女はオペラへの出演を避けて専ら演奏会の舞台に上がることを好んでいた。デビューは1861年ニューヨークの音楽アカデミーにおいてであった。同年、バーナード・ウルマン[注 1]と共に北米ツアーを行い、成功を収めている。1863年にはロンドンロイヤル・オペラ・ハウスでの演奏会においてイギリスデビューを果たし、パリウィーンでも出演が続いた。妹ほどの名声を得ることはできなかったものの、それでもカルロッタはアメリカ、イギリス、オーストラリアなどで演奏会を行い、トップ級の地位を手にしていた[1][3]。彼女はその非常に広い声域によって知られており、アルティッシモ[注 2]によりG#にまで届く声が出たと伝えられる[4]。彼女はこの声域が栄えるよう、モーツァルトの「魔笛」から『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』をよく歌っていた[1][5]。カルロッタは1889年6月27日のためパリで没した。

脚注[編集]

注釈

  1. ^ 1817年生まれ、ハンガリー出身の興行主。アメリカで活躍した。(Bernard Ullman
  2. ^ 訳注:木管楽器において、倍音を利用することにより最高音域を奏でる奏法。イタリア語で「非常に高い」の意。(Altissimo

出典

  1. ^ a b c d Stephen, Leslie; Lee, Sir, Sidney (2010). Dictionary of National Biography. Volume 46. Princeton University: BiblioLife. p. 56. ISBN 1-147-07039-3 
  2. ^ Klein, Herman (1977). “Appendix Q”. The Reign of Patti. Opera Biographies (2 ed.). Arno Press. p. 427 
  3. ^ a b “Carlotta Patti”. The Argus. (1880年4月3日). http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/5980748? 2010年6月1日閲覧。 
  4. ^ “Death of Carlotta Patti”. The Mercury. (1889年7月1日). http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/9215296?searchTerm=carlotta+patti 2010年6月1日閲覧。 
  5. ^ Grove, George; Fuller-Maitland, John Alexander; Wodehouse, Adela Harriet Sophia (Bagot) (1883). A Dictionary of Music and Musicians (A.D. 1450-1880) by Eminent Writers, English and Foreign. 3. Macmillan Publishers. p. 734