カラ・ブカ

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カラ・ブカ(Qara buqa、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人将軍の一人。『圭斎集』巻11高昌偰氏家伝などの漢文史料における漢字表記は合剌普華(hélá pǔhuá)。

概要[編集]

カラ・ブカの祖先は代々国相を輩出した天山ウイグル王国の名家で、カラ・ブカはチンギス・カンに仕えたユリン・テムルの八男にあたる。幼い頃は母の奥敦氏と益都に暮らしていたカラ・ブカは、ある時一族のために学問を修めることを思い立ち、保定に赴任していた父の下を訪れて自らの志を語った。ユリン・テムルはカラ・ブカの志を奇貨とし、ウイグル文字と経書を習わせたところ、カラ・ブカは天性の才能を発揮してこれをすぐに習得したという。中統3年(1262年)、李璮の叛乱が起こると、母の住まう益都も叛乱に巻き込まれたため、奥敦氏は末子のトレ・ブカとともに逃れた。そのため一時奥敦氏は音信不通となり、その間カラ・ブカはこれを嘆いた。その後、従叔父のサルギスや兄のトゥルミシュとともに李璮討伐に従事し、無事母を連れて帰還することができた[1]

李璮討伐を経てサルギスはカラ・ブカの器量を高く評価し、自らの才能はカラ・ブカに及ばないと述べてクビライに推挙した。そこでクビライはカラ・ブカを召喚してケシクテイ(宿衛)に入れ、後に商山鉄冶都提挙とされたが、この地位は弟に譲った。南宋への出兵が始まると兵糧の確保が問題となり、カラ・ブカは行都漕運使に任命されて1万5千の兵を率いて兵站の確保に従事するようになった。南宋の平定後、クビライに対して学校を興し旧南宋民の有志を登用することで旧南宋領の統治を安定させる案を上疏し、クビライに受け入れられている[2]

ある時、米20万を船で輸送していたところ、船が転覆したために10分の1を損なってしまったため、時の権臣アフマド・ファナーカティーからこれを賠償するよう要求される事件が起こった。カラ・ブカはアフマドの要求に強く抗議し、朝廷もカラ・ブカの主張を認めてアフマドの要求を退けたため、カラ・ブカはアフマドの怒りを買ってしまった。そこでカラ・ブカは左遷されて寧海路ダルガチとされ、さらに江西宣慰使を経て広東都転運塩使、兼領諸番市舶の地位に移った[3]

この頃、塩の密売人である陳良臣が江西一帯で叛乱を起こし、江西行省の命によって招討使ダシュマンとカラ・ブカがこれを討伐することになった。カラ・ブカは先鋒を務めて反乱軍の首魁を討伐した後、自ら反乱軍の拠点を訪れて多くの叛乱兵をもとの生業に戻らせ、犠牲を最小限にとどめた。また、欧南喜なる人物が王を称して叛乱を起こした時には、10万と号する叛乱軍を元帥課児伯海牙・宣慰都元帥白佐・万戸王守信らとともにこれを平定した[4]

それから間もなく、ベトナム遠征が始まると再び兵站の確保を担当することになった。しかし東莞・博羅の境界に至った所で賊の欧・鍾らと遭遇してしまい、カラ・ブカは自ら賊数十名を殺す活躍を見せたものの、衆寡敵せず最後には捕らえられた。賊はむしろカラ・ブカを領主に祭り上げようとしたが、 カラ・ブカはこれを拒絶し、遂に中心岡で殺された。カラ・ブカが殺害された日の夕べ、その妻はカラ・ブカが自らの死を告げる夢を見たという逸話が残っている[5]

子孫[編集]

カラ・ブカには偰文質と越倫質(オグルンチ)という二人の息子がいた。偰文質は吉安路ダルガチを務めて偰直堅・偰哲篤・偰朝吾・偰列篪・偰玉立という5人の息子を持ったが、この5人全員が科挙に登第して進士になり一族はより繁栄した。偰文質はウイグル帝国時代に先祖が居住していた「偰輦傑河(=セレンガ川)」に因んで「偰」を姓とし、以後この一族は「高昌偰氏」として知られるようになる[6]

越倫質には泰定4年(1327年)に進士となった善著という息子がおり[7]、その息子の正宗・アルスラン(阿児思蘭)らも至正5年(1345年)と至正8年(1348年)に相継いで登第している[8]

高昌偰氏[編集]

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脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝,「合剌普華、岳璘帖木爾子也。幼侍母奥敦氏居益都、嘗歎曰『幼而不学、有不堕吾宗者乎』。父時以断事官建牙保定、合剌普華往、白其志、父奇之、俾習畏兀書及経史、記誦精敏、出於天性。李璮畔、其母携季子脱烈普華避地登・萊間、音問隔絶、号泣徹晝夜。継従従叔父撒吉思平賊山東、卒奉其母以帰」
  2. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝,「撒吉思深加器重、自謂其才不及、言於世祖、召給宿衛。嘗以事至益都、於四脚山下置広興・商山二冶、以労授金符、為商山鉄冶都提挙、未及代、以職譲其弟。時兵南伐、餽運繁興、被選為行都漕運使、帥諸翼兵万五千人、従事飛輓。江南平、上疏言『親肺腑、礼大臣、以存国家之体。興学校、奨名節、以励天下之士。正名分、厳考課、以定百官之法。通泉幣、却貢献、以厚生民之本』。又言『江南新附、宜招旧族、力穡通商、弛征薄入、以撫馴其民、不然、恐尚煩宵旰之慮』。帝多采用其言」
  3. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝,「属漕米二十万、繇邗溝達于河、舟覆、損十之一、而又毎斛視都斛虧三升。時阿合馬専政、責償舟人。合剌普華伏闕抗言『量之踦贏、出於元降、而水道之虞、非人力所及。且彼雖罄其家、不足以償、苟朝廷必不任虧損、臣独当其辜』。詔勿治。阿合馬憤之、乃出合剌普華為寧海路達魯花赤、後遷江西宣慰使、未至官、改広東都転運塩使、兼領諸番市舶」
  4. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝,「時盗梗塩法、陳良臣扇東莞・香山・恵州負販之徒万人為乱、江西行省命与招討使答失蛮討捕之、先駆斬渠魁、以訊馘告、躬抵賊巣、招誘餘党復業、仍条言塩法之不便者、悉除其害。按察使脱歓大為姦利、遂奏罷之。群盗欧南喜僭王号、偽署丞相・招討、衆号十万。因図上其山川形勢、及攻取之策三十餘条、遂与都元帥課児伯海牙・宣慰都元帥白佐・万戸王守信等、分兵扼之」
  5. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝,「未幾、右丞唆都督兵征占城・交阯、属護餉道。比至東莞・博羅二界中、遇劇賊欧・鍾等、横絶石湾、其鋒鋭甚。合剌普華身先士卒、且戦且行、矢竭馬創、徒歩格闘、殺数十人、勇気益厲、以衆寡不敵、為所執。賊欲奉之為主、不屈、遂遇害于中心岡。是夕、其妻希台特勒氏、夢其来告曰『吾死矣』。知事張徳・劉閏亦夢之、二人相継死。而軍中往往見其乗騅督戦云。後贈戸部尚書・守忠全節功臣、諡忠愍」
  6. ^ 『圭斎集』巻11高昌偰氏家伝,「回紇……其地本在哈剌和林、即今之和寧路也。有三水焉、一並城南山東北流、曰斡耳汗。一経城西北流、曰和林河。一発西北東流、曰忽爾班逹弥爾。三水距城北三十里、合流曰偰輦傑河。……暾欲谷子孫既世為偉兀貴臣、因為偉兀人。又嘗従其主居偰輦傑河上、子孫宗暾欲谷為始祖、因以偰為氏焉、以河名也
  7. ^ 『圭斎集』巻11高昌偰氏家伝,「越倫質、蚤歳警敏篤学、無子弟之過、未仕而没。贈従仕郎山東東西道宣慰使司都事。一子曰善著、登泰定丁卯第、今承務郎天臨路同知湘潭州事、文質嘗謂玄」
  8. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝,「子二人偰文質・越倫質。偰文質官至吉安路達魯花赤、贈宣恵安遠功臣・礼部尚書、追封雲中郡侯、諡忠襄。子五人、偰直堅・偰哲篤・偰朝吾・偰列篪・偰玉立、皆第進士。偰哲篤官至江西行省右丞、以文学政事称于時。越倫質子善著、偰哲篤子偰百僚遜、善著子正宗・阿児思蘭、皆相継登第。一門世科之盛、当時所希有、君子蓋以為其忠義之報云」
  9. ^ B.Ögel 1964 p.152

参考文献[編集]

  • Bahaeddin Ögel. "Sino-Turcica: çingiz han ve çin'deki hanedanĭnĭn türk müşavirleri." (1964).
  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』彙文堂書店、1950年
  • 元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝
  • 新元史』巻136列伝33岳璘帖木児伝
  • 蒙兀児史記』巻45列伝27岳璘帖木児伝