イヴェット・ショヴィレ

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イヴェット・ショヴィレYvette Chauviré, 1917年4月22日 - ) は、フランスパリ出身のバレエダンサー、バレエ教師。

優雅な容姿と高度な技巧を併せ持ち、20世紀フランスにおける最も優れたバレリーナの一人に数えられている。ルドルフ・ヌレエフは、彼女のことを「legend」と称した[1]

経歴[編集]

10歳でパリ・オペラ座バレエ学校に入り、ボリス・クニアセフとヴィクトール・グソフスキーに師事[2]。その後セルジュ・リファールに学び、以後もそのキャリアを通じて指導と助言を受け続けた[2]。1929年に『ジャンヌの扇』で初めてソロを踊り、1934年にパリ・オペラ座のコール・ド・バレエとなった。

その後間もなくカドリーユとなり、翌1935年1月にコリフェに昇進。1936年にリファールの『裸の王様』を初演し、スジェに昇進した1937年には映画『白鳥の死』に出演[2]。翌1938年にプルミエ・ダンスールとなり、1941年12月にリファールが彼女のために振付けた『イシュタル』の初演後に、エトワールに任命された[2]

ショヴィレはほとんどの古典作品で重要な役柄を踊ったが、『ジゼル』のタイトルロールが最も代表的な作品である[2][3]。また、彼女はオペラ座のエトワールでありながら、恩師のボリス・クニアセフとのコラボレーションも継続し、『La Legende du Bouleau』や『Piccolo』のような新作も発表した。リファール作品も、『白の組曲』(1943年)、『音楽劇』(1946年)など、数多くを初演している[2]

1946年にリファールが政治的な理由でオペラ座を追われると、ショヴィレも彼に従い、同年から1947年にかけてモナコの新モンテ・カルロバレエ団で踊った[2]。1947年オペラ座に復帰し、リファールの『ミラージュ』を初演して大成功をおさめる[2]。1949年、ヴィクトール・グゾフスキーの『グラン・パ・クラシック』を初演した後再びオペラ座を離れ[2]ミラノ・スカラ座に移る。数年後、彼女は英国ロイヤルバレエに招かれ、ルドルフ・ヌレエフと踊った後パリに戻った。

1955年、ジョン・クランコの『美しきエレーヌ』を初演、1957年には、グゾフスキーがベルリン・バレエで初演した『椿姫』で、マルグリットを演じた[2]

1972年、当たり役の『ジゼル』『瀕死の白鳥』を踊ってオペラ座を引退[2][3]。その後はオペラ座バレエ学校[2]、パリ国際ダンス・アカデミー校長などをつとめ[2]シルヴィ・ギエムモニク・ルディエールマリー=クロード・ピエトラガラエリザベット・モーランイザベル・ゲランドミニク・カルフーニといったエトワールに自らの知識を伝えた。時折舞台にも出演し、1985年にはヌレエフ版『ロミオとジュリエット』で、キャピュレット夫人を演じた[2]。また、彼女はミラノ・スカラ座での『ジゼル』の再演の際には振付も手がけた。1998年には、80歳記念ガラが盛大に挙行された[3]

今日では、彼女はフランスで最も偉大なバレリーナの一人と考えられており、プリマ・バレリーナ・アッソルータの称号を贈られた数少ないエトワール・ダンサーの一人でもある[4]

ショヴィレは、優れた画家でありオペラ座の舞台芸術も手がけたコンスタンチン・ネポ(1915年 - 1976年)と結婚した。

叙勲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ MÉMOIRES D'ÉTOILES, YVETTE CHAUVIRÉ”. Lieurac Productions. 2014年3月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「オックスフォードバレエダンス事典」、226 - 227頁
  3. ^ a b c 「バレエ・ダンサー201」、197頁
  4. ^ Staff (undated). "Yvette Chauviré" (in French). etoiledelopera.e-monsite.com. Retrieved 2 September 2013.
  5. ^ Décret du 13 juillet 2010 portant élévation aux dignités de grand'croix et de grand officier

参考文献[編集]

  • デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル著、鈴木晶訳「オックスフォードバレエダンス事典」平凡社、2010年5月
  • ダンスマガジン編集部編「バレエ・ダンサー201」新書館、2009年4月

外部リンク[編集]