「ウィリアム・アンダーソン (医師)」の版間の差分
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'''ウィリアム・アンダーソン'''(William Anderson, FRCS , MRCS , LRCP、[[1842年]][[12月18日]] - [[1900年]][[10月27日]])は、[[イギリス]]の[[医師]]である。1873年に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たった。[[日本美術]]の[[コレクション]]を作ったことでも知られる。 |
'''ウィリアム・アンダーソン'''(William Anderson, FRCS , MRCS , LRCP、[[1842年]][[12月18日]] - [[1900年]][[10月27日]])は、[[イギリス]]の[[医師]]である。1873年に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たった。[[日本美術]]の[[コレクション]]を作ったことでも知られる。 |
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[[ロンドン]]の[[ショーディッチ]]で生まれた。[[アバディーン]]などで医学を学び、セント・トーマス病院でジョン・サイモン |
[[ロンドン]]の[[ショーディッチ]]で生まれた。[[アバディーン]]などで医学を学び、セント・トーマス病院でジョン・サイモン(John Simon)やクラーク(Wilfrid Le Gros Clark)のもとで働いた。1873年に日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮の[[解剖学]]、[[外科学]]の[[教授]]となり、[[軍医]]の養成を行った。後に日本政府から[[旭日章]]を受勲した。1880年に帰国し、セント・トーマス病院の外科医補になり、解剖学の上級教員になった。1891年にロイヤル・アカデミーの解剖学教授となった。1898年に被角血管腫の患者の報告したことでも知られ、この遺伝病のアンダーソン・ファブリー病([[ファブリー病]])には、彼の名前がつけられている<ref>{{Cite web|url=http://www.bad.org.uk/about-us/history/biographical/ww2-and-its-aftermath|title=British Association of Dermatologists - WW2 and its Aftermath|website=www.bad.org.uk|language=en|access-date=2018-08-05}}</ref>。 |
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この間日本美術の収集を行い、多くの版画や画本を集め、その時代のヨーロッパで最も優れたコレクションをつくりあげた。後にこのコレクションは[[大英博物館]]に売却された。 |
この間日本美術の収集を行い、多くの版画や画本を集め、その時代のヨーロッパで最も優れたコレクションをつくりあげた。後にこのコレクションは[[大英博物館]]に売却された。 |
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[[1891年]]に[[ロンドン日本協会]](The Japan Society of the UK)が設立されると、初代理事長となった<ref name="nagaoka_1997">{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1997.1|author=[[長岡祥三]]|title=日本協会の創立者アーサー・ディオシー|journal=英学史研究|publisher=日本英学史学会|volume=29|date=1997|accessdate=2016-3-3}}</ref>。 |
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== 参考文献 == |
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* P. Beighton, G. Beighton: The man behind the syndrome. Springer-Verlag, 1986, ISBN 0-387-16218-6, S. 53f. |
* P. Beighton, G. Beighton: The man behind the syndrome. Springer-Verlag, 1986, ISBN 0-387-16218-6, S. 53f. |
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* Anderson, William (1842–1900) The Royal College of Surgeons of England, vom 2. Oktober 2009 |
* Anderson, William (1842–1900) The Royal College of Surgeons of England, vom 2. Oktober 2009 |
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* W. Anderson: A case of "Angeio-keratoma". In: Br J Dermatol Band 10, 1898, S. 113-117. doi |
* W. Anderson: A case of "Angeio-keratoma". In: Br J Dermatol Band 10, 1898, S. 113-117. ,{{doi|10.1111/j.1365-2133.1898.tb16317.x}} |
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* J. Fabry: Ein Beitrag zur Kenntnis der Purpura haemorrhagica nodularis (Purpura papulosa haemorrhagica Hebrae). In: Arch Dermatol Syphilol Band 42, 1898, S. 187-200. |
* J. Fabry: Ein Beitrag zur Kenntnis der Purpura haemorrhagica nodularis (Purpura papulosa haemorrhagica Hebrae). In: Arch Dermatol Syphilol Band 42, 1898, S. 187-200. |
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2019年7月3日 (水) 07:14時点における版
ウィリアム・アンダーソン(William Anderson, FRCS , MRCS , LRCP、1842年12月18日 - 1900年10月27日)は、イギリスの医師である。1873年に日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たった。日本美術のコレクションを作ったことでも知られる。
ロンドンのショーディッチで生まれた。アバディーンなどで医学を学び、セント・トーマス病院でジョン・サイモン(John Simon)やクラーク(Wilfrid Le Gros Clark)のもとで働いた。1873年に日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮の解剖学、外科学の教授となり、軍医の養成を行った。後に日本政府から旭日章を受勲した。1880年に帰国し、セント・トーマス病院の外科医補になり、解剖学の上級教員になった。1891年にロイヤル・アカデミーの解剖学教授となった。1898年に被角血管腫の患者の報告したことでも知られ、この遺伝病のアンダーソン・ファブリー病(ファブリー病)には、彼の名前がつけられている[1]。
この間日本美術の収集を行い、多くの版画や画本を集め、その時代のヨーロッパで最も優れたコレクションをつくりあげた。後にこのコレクションは大英博物館に売却された。
1891年にロンドン日本協会(The Japan Society of the UK)が設立されると、初代理事長となった[2]。
著書
- W. Anderson, Aiko Mabuchi: The Pictorial Arts of Japan. Neuauflage, 2008, ISBN 4-861-66028-9
- W. Anderson: The Deformities of the Fingers and Toes. Neuauflage, Nabu Press, 2010, ISBN 1-177-93480-9
脚注
- ^ “British Association of Dermatologists - WW2 and its Aftermath” (英語). www.bad.org.uk. 2018年8月5日閲覧。
- ^ 長岡祥三「日本協会の創立者アーサー・ディオシー」『英学史研究』第29巻、日本英学史学会、1997年、2016年3月3日閲覧。
参考文献
- コトバンク
- P. Beighton, G. Beighton: The man behind the syndrome. Springer-Verlag, 1986, ISBN 0-387-16218-6, S. 53f.
- Anderson, William (1842–1900) The Royal College of Surgeons of England, vom 2. Oktober 2009
- W. Anderson: A case of "Angeio-keratoma". In: Br J Dermatol Band 10, 1898, S. 113-117. ,doi:10.1111/j.1365-2133.1898.tb16317.x
- J. Fabry: Ein Beitrag zur Kenntnis der Purpura haemorrhagica nodularis (Purpura papulosa haemorrhagica Hebrae). In: Arch Dermatol Syphilol Band 42, 1898, S. 187-200.