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『[[山海経]]』(大荒北経)には赤い木で、青い葉・赤い華であると記されており、[[郭璞]]の注による増補では[[崑崙]]の西にあたる西極(西の果て)に立っている<ref>『山海経 中国古代の神話世界』 高馬三良 訳 [[平凡社]]〈[[平凡社ライブラリー]]〉 1994年 ISBN 4582760341 172頁</ref>とも書かれている。 |
『[[山海経]]』(大荒北経)には赤い木で、青い葉・赤い華であると記されており、[[郭璞]]の注による増補では[[崑崙]]の西にあたる西極(西の果て)に立っている<ref>『山海経 中国古代の神話世界』 高馬三良 訳 [[平凡社]]〈[[平凡社ライブラリー]]〉 1994年 ISBN 4582760341 172頁</ref>とも書かれている。『[[淮南子]]』墜形訓では、[[建木]]からみて西に生えており、枝には10個の太陽かついて地を照らしている<ref>『淮南子』墜形訓「若木在建木西,末有十日,其華照下地」</ref>とある。 |
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建木や、東のはてに立っている[[扶桑]]と共に、世界を構成する重要な役割をもつ巨樹・神樹と見られていたと現代では考えられている。中国の[[三星堆遺跡]]から出土した青銅器([[青銅神樹]])は、この若木をかたどっているのだろうと考察されている<ref>[[萩原秀三郎]] 『稲と鳥と太陽の道』 [[大修館書店]] 1996年 ISBN 4-469-23127-4 63-65頁</ref>。 |
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=== 太陽と巨樹 === |
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東のはて(東極)の扶桑と西のはて(西極)の若木は、ともに太陽がこれをつたって天地を移動する巨大な木という役割をもって考えられていたとみられている。 |
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若木は、『山海経』では大荒北経のほぼ最後に記載されているが、「日月の入るところ」(日没の地)という表現は、むしろ大荒西経<ref>『山海経 中国古代の神話世界』 高馬三良 訳 [[平凡社]]〈[[平凡社ライブラリー]]〉 1994年 ISBN 4582760341 161-166頁</ref>に必要以上に頻発する。対となる「日月の出るところ」は大荒東経に同様に多用されており、こちらには扶木(扶桑)の記述がある。昆侖(崑崙)や西極についての記述も大荒西経に存在する点からみれば、「西」に位置するものであるといえよう。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年1月16日 (木) 13:10時点における版
若木(じゃくぼく)は中国の伝説で西のはてにあるとされる巨木である。
『山海経』(大荒北経)には赤い木で、青い葉・赤い華であると記されており、郭璞の注による増補では崑崙の西にあたる西極(西の果て)に立っている[1]とも書かれている。『淮南子』墜形訓では、建木からみて西に生えており、枝には10個の太陽かついて地を照らしている[2]とある。
建木や、東のはてに立っている扶桑と共に、世界を構成する重要な役割をもつ巨樹・神樹と見られていたと現代では考えられている。中国の三星堆遺跡から出土した青銅器(青銅神樹)は、この若木をかたどっているのだろうと考察されている[3]。
太陽と巨樹
東のはて(東極)の扶桑と西のはて(西極)の若木は、ともに太陽がこれをつたって天地を移動する巨大な木という役割をもって考えられていたとみられている。
若木は、『山海経』では大荒北経のほぼ最後に記載されているが、「日月の入るところ」(日没の地)という表現は、むしろ大荒西経[4]に必要以上に頻発する。対となる「日月の出るところ」は大荒東経に同様に多用されており、こちらには扶木(扶桑)の記述がある。昆侖(崑崙)や西極についての記述も大荒西経に存在する点からみれば、「西」に位置するものであるといえよう。
脚注
- ^ 『山海経 中国古代の神話世界』 高馬三良 訳 平凡社〈平凡社ライブラリー〉 1994年 ISBN 4582760341 172頁
- ^ 『淮南子』墜形訓「若木在建木西,末有十日,其華照下地」
- ^ 萩原秀三郎 『稲と鳥と太陽の道』 大修館書店 1996年 ISBN 4-469-23127-4 63-65頁
- ^ 『山海経 中国古代の神話世界』 高馬三良 訳 平凡社〈平凡社ライブラリー〉 1994年 ISBN 4582760341 161-166頁