「朝鮮放送協会」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ECLIPSE (会話 | 投稿記録)
cat
編集の要約なし
90行目: 90行目:


[[Category:韓国のメディア|ちようせんほうそうきようかい]]
[[Category:韓国のメディア|ちようせんほうそうきようかい]]
[[Category:放送|ちようせんほうそうきようかい]]

2006年3月6日 (月) 05:40時点における版

朝鮮放送協会(ちょうせんほうそうきょうかい)は日本統治時代朝鮮でラジオ放送を実施していた社団法人。基幹局の京城中央放送局はJODKのコールサインで知られていた。


放送局所一覧(1945年8月現在)

・京城中央放送局(呼出符号JODK)
  所在地: 京畿道京城府貞洞1-10
  周波数: 第1放送 - 710kc(1927年2月16日開始)、第2放送 - 970kc(1933年4月26日開始)
・釜山放送局(呼出符号JBAK)
  所在地: 慶尚南道釜山府大庁町一丁目7
  周波数: 第1放送 - 650kc(1935年9月21日開始)、第2放送 - 1030kc(1941年8月開始)
・平壌放送局(呼出符号JBBK)
  所在地: 平安南道平壌府梧野里130
  周波数: 第1放送 - 820kc(1936年11月15日開始)、第2放送 - 1090kc(1936年11月15日開始)
・清津放送局(呼出符号JBCK)
  所在地: 咸鏡北道清津府目賀田町8-3
  周波数: 第1放送 - 850kc(1937年6月5日開始)、第2放送 - 1100kc(1941年8月開始)
・咸興放送局(呼出符号JBDK)
  所在地: 咸鏡南道咸興府山手町一丁目79
  周波数: 第1放送 - 780kc(1938年10月30日開始)、第2放送 - 1050kc(1939年4月開始)
・裡里放送局(呼出符号JBFK)
  所在地: 全羅北道益山郡裡里邑南中町86
  周波数: 第1放送 - 570kc(1938年10月1日開始)、第2放送 - 1100kc(1942年4月開始)
・大邱放送局(呼出符号JBGK)
  所在地: 慶尚北道大邱府院垈洞1169
  周波数: 第1放送 - 800kc(1940年10月30日開始)、第2放送 - 1070kc(1941年4月19日開始)
・光州放送局(呼出符号JBHK)
  所在地: 忠清南道光州府社町117-2
  周波数: 第1放送 - 780kc(1942年3月21日開始)、第2放送 - 1040kc(1942年3月21日開始)
・大田放送局(呼出符号JBIK)
  所在地: 忠清南道大田府北町15
  周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 880kc(1944年11月10日開始)
・元山放送局(呼出符号JBJK)
  所在地: 咸鏡南道元山府栄町15
  周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 900kc(1943年11月10日開始)
・海州放送局(呼出符号JBKK)
  所在地: 黄海道海州府広石町
  周波数: 第1放送 - 800kc(1943年8月開始)、第2放送 - 1080kc(1943年11月10日開始)
・新義州放送局(呼出符号JBLK)
  所在地: 平安北道新義州府常盤町九丁目10
  周波数: 第1放送 - 600kc(1943年8月開始)
・春川放送局(呼出符号JBMK)
  所在地: 江原道春川郡春川邑大和町106
  周波数: 第1放送 - 600kc(1944年12月20日開始)
・木浦放送局(呼出符号JBNK)
  所在地: 全羅南道木浦府陽洞86-1
  周波数: 第1放送 - 1280kc(1942年11月1日開始)
・馬山放送局(呼出符号JBOK)
  所在地: 慶尚南道馬山府上南町
  周波数: 第1放送 - 600kc(1943年4月30日開始)
  ※ 1943年4月30日、放送所として開始、1944年1月、放送局に昇格
・城津放送局(呼出符号JBPK)
  所在地: 咸鏡北道城津府旭町460
  周波数: 第1放送 - 600kc(1943年11月開始)
・清州放送局(呼出符号JBQK)
  所在地: 忠清北道清州郡清州邑石橋町
  周波数: 第1放送 - 600kc(1945年6月16日開始)
・江陵放送局(呼出符号JBRK)
  所在地: 江原道江陵郡江陵邑校洞里
  周波数: 第1放送 - 600kc(1941年12月6日開始)
  ※ 1941年12月6日、移動放送中継所として開始、1943年11月、放送局に昇格
・開城放送所
  所在地: 京畿道開城府池町59
  周波数: 第1放送 - 600kc(1942年10月開始)
・長箭放送所
  所在地: 江原道高城郡長箭邑長箭里258
  周波数: 第1放送 - 600kc(1944年3月開始)
・瑞山放送所
  所在地: 忠清南道瑞山郡瑞山邑東門里103
  周波数: 第1放送 - 600kc(1945年3月開始)
・鎮南浦放送所(未開所)
  所在地: 平安南道鎮南浦府
  周波数: 第1放送 - 600kc(予定)
  ※ 1945年8月15日、太平洋戦争終結によって建設中断


前史

日本のラジオ放送1925年に東京、大阪、名古屋で開始され、1926年には社団法人日本放送協会が設立された。朝鮮総督府逓信局でも1924年2月にラジオ放送に関する調査研究に着手し、同年11月には京城(現在のソウル)の逓信局施設から日本語による実験放送を開始した(呼出符号J8AA)。また、同年12月、朝鮮語による新聞を発行していた朝鮮日報社でも、朝鮮語によるラジオ放送の実験を公開した。さらに、1925年8月になると逓信局でも朝鮮語による実験放送を開始し、日本人・朝鮮人両者からラジオ放送開始への期待が高まった。


創設

1926年2月、京城放送局創立準備委員会が社団法人設立と放送用無線電話私設を申請し、同年11月には社団法人京城放送局設立が、同年12月には放送用無線電話私設が許可された。京城放送局の呼出符号はJODKで、これは「日本で4番目に許可された放送局」という意味をもつ。京城放送局は1927年1月に試験放送を開始、同年2月16日に本放送を開始した。放送対象区域は朝鮮一帯、波長345m(周波数870kc)、出力1kW、放送編成は日本語7、朝鮮語3の比率による交叉放送であった。ところが、出力が小さいため受信状態が悪く、また、聴取料が月2円と高額であったことなどから、聴取契約数は思うように伸びなかった。その後、1927年7月には放送編成を日本語6、朝鮮語4の比率に変更、同年10月には聴取料を月1円に引き下げたが、開局から4年を経過しても聴取契約数は約1万1千に止まっていた。


朝鮮語による第2放送

社団法人京城放送局では経営不振を打開するために、1931年2月、朝鮮語専用の第2放送の実施計画に着手し、途中、朝鮮総督府と日本放送協会の経済的・技術的支援を受け、1932年4月には経営母体も社団法人朝鮮放送協会に改組(京城放送局は京城中央放送局に改称)しながら、第1放送(日本語)の増力と第2放送の新設を果たした。第2放送の開始は1933年4月、日本語と朝鮮語を分離した放送は日本人・朝鮮人の双方に好評で、同年末の聴取契約数は3万2千に達したが、主に日本人世帯の聴取契約数が増加した。当時、ラジオ放送を聴くためには月額1円というやや高額な聴取料が必要(1938年4月、75銭に引き下げ)であり、貧困層の多い朝鮮人世帯にはなかなか普及しなかったのである。加えて、あまり送信出力が大きくない京城中央放送局1局からの放送を朝鮮全土に到達させるのは、地形的にも困難であった(1937年4月、第2放送が50kWに増力し全土で聴取可能に)。しかし、ラジオは個人の家庭以外にも、食堂、喫茶店、農村の集会所など人がよく集まるところに設置されており、聴取者数は決して少なくなかった。1920年代の朝鮮語新聞とともにこのラジオ放送が近代朝鮮語の確立に与えた影響は小さくないといわれる。ところが、朝鮮語による放送は朝鮮での日本語の普及、皇民化を妨げるという主張が後を絶たず、朝鮮語放送廃止論がしばしば台頭した。日中戦争が長期化し、さらに太平洋戦争が始まると、内地同様に朝鮮の放送も戦時色が強くなり、第2放送で人気のあった歌謡番組も戦意高揚歌ばかりとなった。1942年4月、放送電波管制のため京城中央放送局からの第2放送は一時休止されたが、地方局にも第2放送設備を新設して、1943年11月に再開された。


終末

1945年8月の太平洋戦争終結後も京城中央放送局は日本軍によって警備され、朝鮮放送協会による日本語放送(第一放送)も継続されていたが、9月、京城に進駐した米軍によって日本軍は武装解除され、同時に日本語放送も廃止された(10月、日本人職員解雇)。1948年6月、米軍政当局から朝鮮放送協会に放送事業が移管され、同年8月、大韓民国成立とともに朝鮮放送協会は大韓放送協会と改称した。その後、数次の変遷を経て、現在の韓国放送公社(KBS)へとつながっている。