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主君・房定が亡くなる前年に没し、家督は嫡子・能盛に継がれた。-->[[山吉久盛]]の子。[[永正]]8年([[1511年]])、[[本成寺]]に2通の安堵状を発給している。
主君・房定が亡くなる前年に没し、家督は嫡子・能盛に継がれた。-->[[山吉久盛]]の子。[[永正]]8年([[1511年]])、[[本成寺]]に2通の安堵状を発給している。


父久盛は[[守護代]][[長尾邦景]]の忠実な被官であった[[文安]]3年([[1444年]])以降は史料に現れず、邦景父子没落時の[[山吉氏]]の動向は不明とされている、邦景父子が没落し新た新守護代家が成立するなかでも、山吉氏の[[蒲原郡]]代、[[三条城]]代としての地位はゆるぎなかった。
父久盛は[[守護代]][[長尾邦景]]の忠実な被官であったが、[[文安]]3年([[1444年]])以降は史料に現れず、邦景父子没落時の[[山吉氏]]の動向は不明とされている。しかし[[応永の乱 (越後国)]]で邦景父子が没落し新た新守護代家が成立するなかでも、山吉氏の[[蒲原郡]]代、[[三条城]]代としての地位はゆるぎなかったとされ、守護代[[長尾能景]]時代の[[延徳]]4年([[1492年]])に山吉四郎右兵衛尉正綱が史料上登場してくる。この正綱や正盛とほぼ同時代に登場する[[山吉能盛]]と正盛との関係は不明とされる<ref>『三条市史 上巻』137頁、「山吉能盛」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)</ref>

守護代[[長尾能景]]時代の[[延徳]]4年([[1492年]])に山吉四郎右兵衛尉正綱が史料上登場してくるが、この正綱や正盛とほぼ同時代に登場する[[山吉能盛]]との関係は不明とされる<ref>『三条市史 上巻』137頁、「山吉能盛」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)</ref>。
==脚注==
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2011年4月16日 (土) 19:45時点における版

山吉 正盛(やまよし ゆきもり、生没年不詳[1])は室町時代武士

概要

山吉久盛の子。永正8年(1511年)、本成寺に2通の安堵状を発給している。

父久盛は守護代長尾邦景の忠実な被官であったが、文安3年(1444年)以降は史料に現れず、邦景父子没落時の山吉氏の動向は不明とされている。しかし、応永の乱 (越後国)で邦景父子が没落し新たな新守護代家が成立するなかでも、山吉氏の蒲原郡代、三条城代としての地位はゆるぎなかったとされ、守護代長尾能景時代の延徳4年(1492年)に山吉四郎右兵衛尉正綱が史料上登場してくる。この正綱や正盛とほぼ同時代に登場する山吉能盛と正盛との関係は不明とされる[2]

脚注

  1. ^ 『山吉家家譜』では生年永享12年(1440年)、没年明応2年(1493年)とされる。『越後三条山吉系図』では天文3年(1534年)121歳で死去と記載されている。正盛が登場する確実な史料とは年代的に齟齬がある。正室も『山吉家家譜』は上杉頼方の女とするが、『越後三条山吉系図』では桃井義直の女とするなど異同が大きい。山吉家の系譜に関しては、戦国時代以前は信がおけないとされている(『三条市史』136頁)。
  2. ^ 『三条市史 上巻』137頁、「山吉能盛」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)

参考文献

  • 『三条市史 上巻』
  • 『三条市史 資料編第2巻』