「京極為兼」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''京極為兼'''(きょうごくためかね:[[1254年]]-[[1332年]][[3月21日]]は、[[鎌倉時代]]後期の[[歌人]]。父は[[藤原為家]]の3男で京極家の祖[[京極為教]]。母は[[三善雅衡]]の娘。冷泉為兼・入江為兼とも呼ばれる。
'''京極為兼'''(きょうごくためかね、[[建長]]6年([[1254年]]- [[元徳]]4/[[元弘]]2年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[1332年]][[4月16日]]))は、[[鎌倉時代]]後期の[[歌人]]。父は[[藤原為家]]の3男で京極家の祖[[京極為教]]。母は[[三善雅衡]]の娘。冷泉為兼・入江為兼とも呼ばれる。


若い頃に祖父藤原為家に[[和歌]]を学んだ。[[1280年]](弘安3年)東宮煕仁親王(後の[[伏見天皇]])に出仕し、院及びその側近らに和歌を指導して[[京極派]]と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、[[持明院統]]として皇統の迭立に関与したことから、[[1298年]](永仁6年)[[佐渡国]]に配流となった。[[1303年]](嘉元元年)に帰京が許されている。[[勅撰和歌集]]の撰者をめぐって[[二条為世]]と論争するが、[[院宣]]を得て[[1312年]](正和元年)「[[玉葉和歌集]]」を撰集している。翌[[1313年]](正和2年)[[伏見上皇]]とともに[[出家]]し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。[[1315年]](正和4年)再び[[鎌倉幕府]]の[[六波羅探題]]に捕らえられ、翌[[1316年]](正和5年)[[土佐国]]に配流となり、帰京を許されないまま[[河内国]]で没した。
若い頃に祖父藤原為家に[[和歌]]を学んだ。[[1280年]]([[弘安]]3年)東宮煕仁親王(後の[[伏見天皇]])に出仕し、院及びその側近らに和歌を指導して[[京極派]]と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、[[持明院統]]として皇統の迭立に関与したことから、[[1298年]]([[永仁]]6年)[[佐渡国]]に配流となった。[[1303年]]([[嘉元]]元年)に帰京が許されている。[[勅撰和歌集]]の撰者をめぐって[[二条為世]]と論争するが、[[院宣]]を得て[[1312年]]([[正和]]元年)「[[玉葉和歌集]]」を撰集している。翌[[1313年]](正和2年)[[伏見上皇]]とともに[[出家]]し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。[[1315年]](正和4年)再び[[鎌倉幕府]]の[[六波羅探題]]に捕らえられ、翌[[1316年]](正和5年)[[土佐国]]に配流となり、帰京を許されないまま[[河内国]]で没した。


家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。「玉葉和歌集」「風雅集」に和歌が入集している。
家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。「[[玉葉和歌集]]」「[[風雅和歌]]」に和歌が入集している。


{{stub}}
{{People-stub}}
[[category:鎌倉時代|きょうこくためかね]]
[[category:鎌倉時代|きょうこくためかね]]
[[category:藤原氏|きょうこくためかね]]
[[category:藤原氏|きょうこくためかね]]
[[category:歌人|きょうこくためかね]]
[[category:歌人|きょうこくためかね]]
{{生没年|きようこくためかね|1254年|1332年}}

2005年11月25日 (金) 15:12時点における版

京極為兼(きょうごくためかね、建長6年(1254年) - 元徳4年/元弘2年3月21日1332年4月16日))は、鎌倉時代後期の歌人。父は藤原為家の3男で京極家の祖京極為教。母は三善雅衡の娘。冷泉為兼・入江為兼とも呼ばれる。

若い頃に祖父藤原為家に和歌を学んだ。1280年弘安3年)東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、院及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践践した後は政治家としても活躍したが、持明院統として皇統の迭立に関与したことから、1298年永仁6年)佐渡国に配流となった。1303年嘉元元年)に帰京が許されている。勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て1312年正和元年)「玉葉和歌集」を撰集している。翌1313年(正和2年)伏見上皇とともに出家し、法号を蓮覚のちに静覚と称した。1315年(正和4年)再び鎌倉幕府六波羅探題に捕らえられ、翌1316年(正和5年)土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。

家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。「玉葉和歌集」「風雅和歌集」に和歌が入集している。