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[[1953年]]、部族の長がイスラエル帰還の夢を見たのをきっかけに、突如として[[ユダヤ教]]に回心。一度は部族ぐるみで徒歩による[[イスラエル]]移住を図るも、大自然に阻まれて挫折。しかしこれ以降、徐々にユダヤ教徒が増えていき、[[1972年]]までには数百人の部族民がユダヤ教の信仰に戻っていた。
[[1953年]]、部族の長がイスラエル帰還の夢を見たのをきっかけに、突如として[[ユダヤ教]]に回心。一度は部族ぐるみで徒歩による[[イスラエル]]移住を図るも、大自然に阻まれて挫折。しかしこれ以降、徐々にユダヤ教徒が増えていき、[[1972年]]までには数百人の部族民がユダヤ教の信仰に戻っていた。


イスラエルのユダヤ人団体がこれを知り、ブネイ・メナシェをイスラエルに移住させるべく尽力。この結果、[[1994年]]から[[2003年]]にかけて800人のブネイ・メナシェがイスラエルのユダヤ人入植地に移民した。彼らの入植地は[[ガザ]]地区や[[ヨルダン川]]西岸地区など、特に争いの多い地域である。彼らがイスラエル入植を許されたのは、[[パレスチナ問題]]での領土争いを背景に、ガザ地区やヨルダン川西岸地区でのユダヤ人口を増やし、これらの地区におけるイスラエルの覇権を既成事実化したいというイスラエル政府の意向が関係していたともいわれる。
イスラエルのユダヤ人団体がこれを知り、ブネイ・メナシェをイスラエルに移住させるべく尽力。この結果、[[1994年]]から[[2003年]]にかけて800人のブネイ・メナシェがイスラエルのユダヤ人入植地に移民した。{{要出典範囲|彼らの入植地は[[ガザ]]地区や[[ヨルダン川]]西岸地区など、特に争いの多い地域である。彼らがイスラエル入植を許されたのは、[[パレスチナ問題]]での領土争いを背景に、ガザ地区やヨルダン川西岸地区でのユダヤ人口を増やし、これらの地区におけるイスラエルの覇権を既成事実化したいというイスラエル政府の意向が関係していたともいわれる。|}}


[[2004年]]、[[セファルディム]]の主席[[ラビ]]である[[シュロモ・アマル]]から、正式にメナシェ族の末裔として認定を受ける。ただし彼らがメナシェ族の末裔であるとの[[人類学]]的な根拠は薄く、アマルの決定は民族的なものというよりもむしろ政治的なものだったといわれている。これ以降、ブネイ・メナシェは[[帰還法]]のもとに堂々とイスラエルに移住できるようになったが、彼らは永らくユダヤ教から離れていたため、イスラエル移住には完全な改宗を経ることという条件が付けられた。
[[2004年]]、[[セファルディム]]の主席[[ラビ]]である[[シュロモ・アマル]]から、正式にメナシェ族の末裔として認定を受ける。ただし彼らがメナシェ族の末裔であるとの[[人類学]]的な根拠は薄く、アマルの決定は民族的なものというよりもむしろ政治的なものだったといわれている。これ以降、ブネイ・メナシェは[[帰還法]]のもとに堂々とイスラエルに移住できるようになったが、彼らは永らくユダヤ教から離れていたため、イスラエル移住には完全な改宗を経ることという条件が付けられた。

2010年11月3日 (水) 19:20時点における版

ブネイ・メナシェ("メナシェの子供たち" בני מנשה)とは、インド北東部(マニプールミゾラム)の少数派ユダヤ人

失われたユダヤ10支族の1つであるマナセ人(メナシェ族)の末裔という言い伝えを持つが、チベットビルマ系の山岳狩猟部族の系統に属し、永らくアニミズムを信仰していた。しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、宣教師の影響でほぼ全員がキリスト教に改宗。

1953年、部族の長がイスラエル帰還の夢を見たのをきっかけに、突如としてユダヤ教に回心。一度は部族ぐるみで徒歩によるイスラエル移住を図るも、大自然に阻まれて挫折。しかしこれ以降、徐々にユダヤ教徒が増えていき、1972年までには数百人の部族民がユダヤ教の信仰に戻っていた。

イスラエルのユダヤ人団体がこれを知り、ブネイ・メナシェをイスラエルに移住させるべく尽力。この結果、1994年から2003年にかけて800人のブネイ・メナシェがイスラエルのユダヤ人入植地に移民した。彼らの入植地はガザ地区やヨルダン川西岸地区など、特に争いの多い地域である。彼らがイスラエル入植を許されたのは、パレスチナ問題での領土争いを背景に、ガザ地区やヨルダン川西岸地区でのユダヤ人口を増やし、これらの地区におけるイスラエルの覇権を既成事実化したいというイスラエル政府の意向が関係していたともいわれる。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

2004年セファルディムの主席ラビであるシュロモ・アマルから、正式にメナシェ族の末裔として認定を受ける。ただし彼らがメナシェ族の末裔であるとの人類学的な根拠は薄く、アマルの決定は民族的なものというよりもむしろ政治的なものだったといわれている。これ以降、ブネイ・メナシェは帰還法のもとに堂々とイスラエルに移住できるようになったが、彼らは永らくユダヤ教から離れていたため、イスラエル移住には完全な改宗を経ることという条件が付けられた。

2005年9月、ラビ委員会によって700人のブネイ・メナシェが完全にユダヤ教へ改宗。この段階で、9000人が改宗手続を待っていた。

2005年11月、インド国民であるブネイ・メナシェをユダヤ教に改宗させてイスラエルに移民させることについてインド政府から抗議を受けたため、イスラエル政府がブネイ・メナシェの改宗を中止すると決定。武器輸出の得意先であるインドから不興を買うのを恐れたためといわれている。

イスラエル政府がガザとヨルダン川西岸からのユダヤ移民の引揚を決定したため、2005年以降、ブネイ・メナシェの立場は極めて不安定になっている。

関連項目