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2008年7月12日 (土) 11:28時点における版

庭園風景
破壊された西洋館

円明園(えんめいえん)は、中華人民共和国の首都北京の北西10kmほどの郊外(北京市海淀区)にあり、その広さは3.5km2に及ぶ清時代に築かれた離宮の遺構である。

歴史

1709年清朝の4代皇帝康熙帝が、皇子の胤禛(いんしん。「しん」は「示」に「眞」)に与えた庭園がその起源となる。胤禛が皇帝に即位すると(雍正帝)、1725年以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。

6代乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。長春園の北側には、イエズス会士ブノワカスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。

ヨーロッパでは"Old Summer Palace"などの名で紹介され、ヴィクトル・ユーゴーは『たとえフランスノートルダム大聖堂のすべての貴重な品物を集めたとしても、この壮大で立派な東方の博物館と比肩することはできない』と褒め称えた。

しかし、1856年に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までイギリスフランス連合軍が侵入、彼らによって略奪、破壊され廃墟となった。その後も、戦乱や文化大革命などによる荒廃が進んだ。

1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に国の重点保護文化財に指定され、愛国主義教育の象徴として、そして観光資源として数多くの観光客を集めている。

現在では、廃墟のまま保存すべきか、一部でも復元すべきか中国国内で議論されている[1]

外部リンク