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サンディーノは'''アウグスト・ニコラス・カルデロン・サンディーノ'''('''Augusto Nicolás Calderón Sandino''')として、[[太平洋]]側の寒村[[ニキノオモ]]で白人の中規模コーヒー地主のドン・グレゴリオ・サンディーノと、その農場で働いていた[[インディオ]]の女中、マルガリータ・カルデロンの間に[[私生児]]として生まれた。後にグレゴリオが結婚するとアウグストを正式に自分の息子だと認知し、サンディーノは9歳まで母親と共に暮らした後、父親と家族の家に移り住んだ。
サンディーノは'''アウグスト・ニコラス・カルデロン・サンディーノ'''('''Augusto Nicolás Calderón Sandino''')として、[[太平洋]]側の寒村[[ニキノオモ]]で白人の中規模コーヒー地主のドン・グレゴリオ・サンディーノと、その農場で働いていた[[インディオ]]の女中、マルガリータ・カルデロンの間に[[私生児]]として生まれた。後にグレゴリオが結婚するとアウグストを正式に自分の息子だと認知し、サンディーノは9歳まで母親と共に暮らした後、父親と家族の家に移り住んだ。


当時のニカラグアでは[[ウォーカー戦争]]以前から対立し、時折内戦を起こしていた自由党派と保守党派が都市ごとに別れて激しく対立していたが、ドン・グレゴリオは熱心な自由党派であり、サンディーノも父親の影響を受けて自らも自由党派を名乗り、後に護憲戦争が始まった時は自由党軍の将軍として参戦する。
当時のニカラグアでは[[ウィリアム・ウォーカー|ウォーカー戦争]]以前から対立し、時折内戦を起こしていた自由党派と保守党派が都市ごとに別れて激しく対立していたが、ドン・グレゴリオは熱心な自由党派であり、サンディーノも父親の影響を受けて自らも自由党派を名乗り、後に護憲戦争が始まった時は自由党軍の将軍として参戦する。


サンディーノは私生児だったが、グレゴリオから長男としての扱いを受け、当時それなりの知識人であった父親の書斎にあった本をよく読み、学んだ。[[ローマ帝国]]史の本を読んで、自分の名前のCはカルデロンではなくセサル([[ガイウス・ユリウス・カエサル]]のスペイン語読み)だったということにしたのもこの頃である。
サンディーノは私生児だったが、グレゴリオから長男としての扱いを受け、当時それなりの知識人であった父親の書斎にあった本をよく読み、学んだ。[[ローマ帝国]]史の本を読んで、自分の名前のCはカルデロンではなくセサル([[ガイウス・ユリウス・カエサル]]のスペイン語読み)だったということにしたのもこの頃である。

2007年11月6日 (火) 12:46時点における版

アウグスト・セサル・サンディーノ(中央)

アウグスト・セサル・サンディーノ(Augusto César Sandino, 1895年5月18日 - 1934年2月21日)は、ニカラグア革命家1927年から1933年にかけての駐ニカラグアアメリカ海兵隊に対する抵抗運動の指導者であった。政治的な理由によりアメリカ政府からは盗賊と見なされ、その功績は彼をラテンアメリカの英雄とした。

彼はウルグアイホセ・エンリケ・ロドーが認めた、アングロ・アメリカとは異なるラテン・アメリカの精神的な価値を体現する存在として、ロドーがアリエルを書いてからずっと燻っていた、ラテンアメリカにおけるアメリカ合衆国の支配に対する抵抗運動のシンボルとなった。サンディーノはニカラグア民族主権防衛軍を組織し、アメリカ軍を不正規ゲリラ戦に引きずり込み、その捕縛の手からうまく逃げおおせ、最終的にはアメリカ軍に撤退を強いてニカラグア政府からも著しい譲歩を得た。しかしながら彼は1934年にニカラグア国家警備隊司令官のアナスタシオ・ソモサ・ガルシア将軍によって殺害される。しかし、彼の遺志はサンディニスタ民族解放戦線に引き継がれ、1979年にニカラグアを親子三代に渡って支配していたソモサ独裁政権は打倒された。

生い立ち

サンディーノはアウグスト・ニコラス・カルデロン・サンディーノ(Augusto Nicolás Calderón Sandino)として、太平洋側の寒村ニキノオモで白人の中規模コーヒー地主のドン・グレゴリオ・サンディーノと、その農場で働いていたインディオの女中、マルガリータ・カルデロンの間に私生児として生まれた。後にグレゴリオが結婚するとアウグストを正式に自分の息子だと認知し、サンディーノは9歳まで母親と共に暮らした後、父親と家族の家に移り住んだ。

当時のニカラグアではウォーカー戦争以前から対立し、時折内戦を起こしていた自由党派と保守党派が都市ごとに別れて激しく対立していたが、ドン・グレゴリオは熱心な自由党派であり、サンディーノも父親の影響を受けて自らも自由党派を名乗り、後に護憲戦争が始まった時は自由党軍の将軍として参戦する。

サンディーノは私生児だったが、グレゴリオから長男としての扱いを受け、当時それなりの知識人であった父親の書斎にあった本をよく読み、学んだ。ローマ帝国史の本を読んで、自分の名前のCはカルデロンではなくセサル(ガイウス・ユリウス・カエサルのスペイン語読み)だったということにしたのもこの頃である。

1921年に彼は酒場で酒を飲んでいた時に酔った勢いで刃物を取り出し、著名な保守党派の息子タゴベルト・リバスの暗殺を試みてしまった。当然ニカラグアにいられなくなったサンディーノは、その後ホンジュラスグアテマラに逃亡し、結局メキシコに逃れる。メキシコで彼はタンピコの港近くにあるスタンダード・オイルの精製所で働くことになった。

メキシコ時代

ゲリラ指導者として

サンディーノ戦争終結

暗殺

外部リンク