容妃 (乾隆帝)
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容妃(ようひ、1734年10月11日—1788年5月24日)は、清の乾隆帝の側室。ウイグル人。姓はホージャ氏(和卓氏)。名前はファーティマと伝えられている。
生涯
[編集]入内以前の経歴は不明である。一説には15歳で回部の首長ホジ・ハン (霍集古,小和卓木) と結婚したが、後に二人は離婚した。
乾隆24年(1759年)、26歳で大小和卓の家族と共に北京入り、後に和貴人の位を授けられた。乾隆26年(1762年)、容嬪に進んだ。乾隆33年(1768年)、容妃にいたった。乾隆53年(1788年)、55歳で死去。ほとんどの遺産は和碩和恪公主(乾隆帝の九女)の娘と固倫和孝公主によって相続される。
またイスラム教徒であったため、宮中にも専用の肉を特別に与えられる。
香妃伝説
[編集]史書には彼女の記述は非常に少なくなっている。民国時代になると、乾隆帝には香妃という妃がいたという伝承がある。香妃が生来異香を有したことにちなむ名で,美貌で聞えていた。常に短剣を持ち帝を寄せつけなかったたため、皇太后によって自害を命ぜられる。その香妃は、容妃をモデルにした創作人物とされる。
伝記資料
[編集]- 『清史稿』