和泉丸
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和泉丸(いづみ[1]まる / いずみまる[2])は、軍務官直轄(後の日本海軍)の軍艦[3]。艦名は和泉国による[1]。なお記録では和泉艦という名称も使われている[4]。
艦型
[編集]暗車(スクリュープロペラの意味)[5]、 汽船との記録があるが[3]、その他建造所、原名、要目などの詳細は不明である[1][2]。乗員は明治元年時に41人と記録が残る[6]。
艦歴
[編集]元土佐藩所有の軍艦で慶応4年6月(1868年)に明治政府が土佐藩から購入した[3]。『日本海軍史』によると6月10日に命名[7]、また『聯合艦隊軍艦銘銘伝』によると6月12日に購入とされている[2]。翌明治2年2月(1869年3月から4月)、兵庫で修理を行った[8]。7月20日(新暦7月20日)に久留米藩へ預ける通達が出された[9][10]。 8月(新暦9月頃)、函館での残党追討の命令が出ていた「和泉」に、帰藩の命令が出された[4]。その後の消息不明[1]。
明治4年辛未12月13日(1872年1月22日)の元久留米県からの報告で「和泉丸を商人田中庄助へ貸し下げ」とある[5]。
艦長
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本海軍史』第9巻、85頁によると、明治2年7月20日まで。
出典
[編集]- ^ a b c d #艦船名考(1928)p.7
- ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(2014年、普及版)pp.31-32、和泉(いずみ)
- ^ a b c #日本近世造船史明治(1973)p.170
- ^ a b #M2公文類纂拾遺/兵部省書類鈔録50-画像1、「和泉艦 其艦函館表残賊追討申付置候処彼地平定ニ付被免帰國候事 八月 兵部省」
- ^ a b #M4公文類纂26/和泉丸外2船商人貸下の件画像1-2、乙二号大日記二百七号。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像7、明治元年戊辰艦船総数表
- ^ 『日本海軍史』第7巻p.461、和泉(初代)
- ^ #M2公文類纂拾遺/兵部省書類鈔録 アシロット船残金画像2
- ^ #M2公文類纂/千代田形引揚和泉丸預画像1-2、56号海軍日誌p.97。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像9-10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、7月。
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像8、明治二年己巳 軍務官 兵部省、正月。
- ^ #M2公文類纂/三上三郎以下2名辞令画像1-2、二号海軍掛日記6/17、(2月)18日。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。(国立公文書館)
- 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/海軍掛日記 2月 三上三郎以下2名辞令』。Ref.C09090015200。
- 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/海軍日誌 7月 千代田形艦御引揚相成和泉丸御預云々久留米藩へ達』。Ref.C09090020000。
- 『公文類纂 明治2年 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 福島弥太六船長代其他乗退艦出仕等件々達 附副長の名号廃止云々及大小銃火入稽古云々並御誕生日祝砲其外横須賀横浜行幸等の達』。Ref.C09090026100。
- 『公文類纂 明治2年 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 アシロット船残金其外件々の答及金員請取の件軍務官答』。Ref.C09090027200。
- 『公文類纂 明治4年 巻26 本省公文 艦船部/乙2大日記 和泉丸外2船商人貸下の件三潴縣届』。Ref.C09090404400。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
関連項目
[編集]- 和泉 (防護巡洋艦) - 2代目和泉
- 大日本帝国海軍艦艇一覧