ノート:甲越同盟

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自分で書いた記事ですが、主に参照している記事が山梨県史資料ですので、武田氏に偏った内容あるいは表現であるように思います。もう片方の主体である越後側や相模、または織田政権からの観点も必要であると思いますので、自ら観点のテンプレを付与いたしました。--でここ 2007年12月6日 (木) 16:09 (UTC)[返信]

「勝頼の調停は不首尾に終わり、同年8月に景勝に起請文を与えた」とありますが、8月19日の勝頼の起請文は二人の和平を前提にしたものであり、8月20日付の和平の成就を喜ぶ勝頼書状もあります。9月の妻有への派遣を軍事同盟によるものとされていますが、上越市史や武田氏年表はそのような解釈はしていないと思います。--Thomo 2011年5月31日 (火) 06:23 (UTC)[返信]

ご指摘の通り、勝頼の景勝・景虎間の調停はいちおうの和議を成立させていますね。私も執筆当時は知識が不足しており、その後丸島氏の論考などを読み込むにつれ理解を深めまして、そのうち訂正したいと思います。Thomo様も、上杉・新潟県史サイドの情報などをご存知でしたら、執筆にご参加いただけると助かります。--でここ 2011年5月31日 (火) 11:11 (UTC)[返信]