コンテンツにスキップ

ノート:火消

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

出典を確認させてください

[編集]

内容を補記しようと、資料を漁りつつ見ていたのですが、平凡社の『世界大百科事典』と内容が酷似しているのが気になりました。問題ない程度の翻案(偶然の一致)かどうか、ご確認をお願いいたします。出典が『世界大百科事典』でない場合、申し訳ないですが、執筆にあたっての参考文献をご教示ください。 検証のため、一部を以下に引用します。それぞれ、ウィキペディア部分を火消2009年9月11日10:59版、『世界大百科事典』部分を世界百科事典『火消(池上彰彦)』より引用しました。

  • 大名火消節
    • ウィキペディア)江戸最初の大火である桶町の大火の翌々年の寛永20年(1643年)、幕府は6万石以下の小大名16家を4組に編成し、1万石につき30名の人足を出させて防火に当たらせた。
    • 世界百科事典)江戸最初の大火である桶町の大火の翌々年の 1643 年 (寛永 20),幕府は 6 万石以下の小大名 16 家を 4 組に編成し, 1 万石につき 30 名の人足を出させて防火に当たらせた。
  • 定火消節
    • ウィキペディア)しかし、宝永元年(1704年)には10組に削減され、以後幕末まで10組体制が続いたため、十人火消とも呼ばれた。
    • 世界百科事典)しかし 1704 年 (宝永 1) 10 組に減少され,以後幕末までその規模が続いたので, 十人火消ともよばれた。
  • 町火消節
    • ウィキペディア)町火消は初め、武家屋敷の消火活動は許されなかったが、享保7年(1722年)にそれが認められ、享保17年(1732年)には浅草米蔵の御蔵火消を定火消に代わって命じられた。さらに、延享4年(1747年)の江戸城二の丸炎上の際には、余燼(よじん)を消すためではあったものの江戸城内に入ることを許された。
    • 世界百科事典)町火消は初め武家屋敷の消火活動は許されなかったが, 1722 年にそれが認められ,32 年には浅草米蔵の御蔵火消を定火消に代わって命じられ,さらに 47 年 (延享 4) の江戸城二の丸炎上の際は,余燼 (よじん) を消すためではあったが江戸城内に入ることを許された。

一部を抜粋してみました。ご確認よろしくお願いします。--R.Lucy 2009年9月11日 (金) 12:31 (UTC)[返信]

外部リンク先を見たら、消防防災博物館のこのページ[1]やこのページ[2]とも酷似した文章があるようですね……というか酷似どころではなく、全角数字を半角にして、西暦と元号を入れ替えただけで、あとは丸ごとコピペされた文章がある(しかも短文ではなく分量が多い)ので、これはさすがにどうしようもないでしょう。削除依頼に提出します……--Tondemonai 2009年9月12日 (土) 07:29 (UTC)[返信]

Wikipedia:削除依頼/火消により、削除となりました。--Kinori 2009年9月19日 (土) 01:36 (UTC)[返信]
削除につき、とりあえず新規に作成しました。著作権侵害版から引き継いだ文章はありません。--Tondemonai 2009年9月19日 (土) 11:20 (UTC)[返信]
改稿お疲れ様でした!--R.Lucy 2009年9月21日 (月) 13:33 (UTC)[返信]