ノート:久遠寺

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ここ数回の記述はちょっと富士門流寄りに過ぎる気がするのですが、かなり詳しい部分もあるので、完全に版を戻すにはためらいがあります。どなたか、詳しい方がいらっしゃれば中立的な立場から加筆・編集されてはいかがでしょう。Eekagen 2006年1月25日 (水) 13:54 (UTC)[返信]

同感です。と、同時に宗派によって異なる見解は日蓮宗あるいはそれぞれの宗派のところで書いたほうがよく、この項目ではあくまで寺院としての説明にしてはどうかと思います。建立の起源についてはなんらかの宗教上の記述は必要なので、簡単に両論併記して詳細は宗教項目に譲るというので良いと思います。寺院の説明はまだまとまっていないので今は手を出しませんが、いずれやるかもしれません。sphl 2006年2月14日 (火) 11:00 (UTC)[返信]

敬語表記について[編集]

日蓮や法主の行いについて、敬語表現が見られたが、中立的な観点からこれを改めた。--122.130.133.15 2009年7月30日 (木) 14:48 (UTC)[返信]

『版本法華経』について[編集]

山梨県立博物館の図録『山梨の名宝』展に掲載されいてる版本法華経の奥書部分を見ているのですが、この法華経は奉納されたのが天文19年で、晴信の署名があります。しかし同書では奥書部分で「信濃守」を称していることが指摘されており、写真で見ると確かに「信濃守晴信」と書いてあります。天文19年というと信濃守護・小笠原長時を追放した年なのですが、信玄が正式に信濃守護になったのは永禄年間の話です。これをいったいどう考えたら良いのでしょうか?

ひとるは信玄は長時を放逐した天文19年段階で信濃守を自称していたか、もうひとつは奥書部分が永禄期以降の後筆である可能性ですね。図録の解説を読むと前者っぽい感じなのですが、確証がありません。どなたか論文・文献などご存知の方は情報をお寄せ頂きたいです。--でここ会話2015年1月11日 (日) 14:38 (UTC)[返信]