オットカール1世 (シュタイアーマルク辺境伯)
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オットカール1世 Ottokar I. | |
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シュタイアーマルク辺境伯 | |
オットカール1世が姉妹の初代トラウンキルヒェン女子修道院長アタに杖と鍵を渡している。 | |
在位 | 1056年 - 1075年 |
死去 |
1075年3月29日 教皇領、ローマ |
配偶者 | ヴィリビルク・フォン・エッペンシュタイン |
子女 |
アダルベロ オットカール2世 |
家名 | オタカール家(トラウンガウ家) |
父親 | オタカール5世 |
母親 | ヴィリビルク・フォン・ヴェルス=ランバッハ |
オットカール1世(ドイツ語:Ottokar I., ? - 1075年3月29日)またはオタカール1世(Otakar I.)は、キームガウ伯、およびシュタイアーマルク辺境伯(在位:1056年 - 1075年)。
生涯
[編集]オットカール1世はオタカール5世とヴェルス=ランバッハ伯アルノルト2世の娘ヴィリビルクの間の息子である。1048年にキームガウ伯であったことが記録に見られる。ヴェルス=ランバッハ伯家が断絶した後、オットカール1世はカランタニア辺境伯となったが、辺境伯領はトラウンガウにあった居城シュタイアー城からシュタイアーマルクの名で呼ばれるようになった。オットカール1世は、おそらくケルンテン公アダルベロの娘と思われるヴィリビルク・フォン・エッペンシュタインと結婚した。オットカール1世はヴェルス=ランバッハ伯家の所領の継承者であり、1056年以降はランバッハのフォークトでもあった。また、トラウンキルヒェン、オーバーミュンスターおよびパーセンベウークのフォークトであり、アドモント修道院の創建者の一人でもあった。ガルシュテン修道院も創建した。
息子のアダルベロとオットカール2世は叙任権闘争において互いに争った。辺境伯位を継承していたアダルベロは1082年に殺害され、オットカール2世が辺境伯となった。
子女
[編集]参考文献
[編集]- Karl Brunner: 907–1156. Herzogtümer und Marken. Vom Ungarnsturm bis ins 12. Jahrhundert (= Herwig Wolfram (ed.): Österreichische Geschichte.). Ueberreuter, Wien 1994, ISBN 3-8000-3521-9.
- Hans Pirchegger: Geschichte der Steiermark. Band 1: Bis 1283. (= Allgemeine Staatengeschichte. Abt. 3: Deutsche Landesgeschichten. Werk 12, 1). Pertes, Gotha 1920.
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