エリザベート・テレーズ・ド・ロレーヌ (1664-1748)
エリザベート・テレーズ・ド・ロレーヌ Élisabeth-Thérèse de Lorraine | |
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称号 | エピノワ公妃 |
出生 |
1664年4月5日 ロレーヌ公国、ナンシー |
死去 |
1748年3月7日(83歳没) フランス王国、パリ、オテル・ド・マイエンヌ |
配偶者 | エピノワ公ルイ1世・ド・ムラン |
子女 |
ルイ2世 アンヌ・ジュリー |
家名 | ギーズ家 |
父親 | リルボンヌ公フランソワ・マリー |
母親 | アンヌ・ド・ロレーヌ |
エリザベート・テレーズ・ド・ロレーヌ(Élisabeth-Thérèse de Lorraine, 1664年4月5日 ナンシー - 1748年3月7日 パリ)は、ブルボン朝時代フランスの貴族女性。宮廷での通称は、婚前はコメルシー姫(Mademoiselle de Commercy)、結婚後はエピノワ公妃(Princesse d'Épinoy)。
生涯
[編集]リルボンヌ公フランソワ・マリーとその妻アンヌ・ド・ロレーヌ(1639年 - 1720年)の間の第4子・三女。
姉ベアトリスと共にルイ14世王の長男グラン・ドーファンの取り巻きになり、ドーファンの異母妹ナント姫(コンデ公妃)の友人となった。さらに別の異母妹第一ブロワ姫(コンティ公妃)に侍女として仕えた。また、伯父ヴォーデモン公や親類のヴァンドーム公とも親しかった[1]。サン=シモン公爵によれば、彼女はマントノン夫人のスパイだと噂されていた。
1691年10月7日、9歳年下のエピノワ公ルイ1世・ド・ムランと結婚。間に1男1女をもうけるが、1704年に死別した。なお、1724年の5月と7月に相次いで娘と息子に先立たれた。
エピノワ公妃は母方の祖父母、ロレーヌ公シャルル4世と公妃ベアトリクスの孫の中で唯一結婚し、嫡出子を得ていた。そのため祖母の公妃が所有していたベルヴォワール男爵領、キュザンス、サン=ジュリアン・アン・モンターニュ、ヴィユマルイユ、ヴォークルトワ及びサン=ジャン=レ=デュー=ジュモーの相続者となった。さらに1721年従叔母のトスカーナ大公妃マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンスが亡くなった際には、大公妃が実子への相続を拒否したために、その遺産についても相続者に指名された[2]。また、後継者のいないヌムール公爵未亡人マリー・ドルレアン=ロングヴィルからサン=ポル伯爵領を購入した[3]。
1748年、パリの自邸オテル・ド・マイエンヌにて83歳で死去[4]。エピノワ公妃の豊かな遺産は、すでに大変な資産家であった孫のスービーズ公シャルル・ド・ロアンの財産の一部に加えられた。
子女
[編集]- ルイ2世・ド・ムラン(1694年 - 1724年) - エピノワ公、ジョワイユーズ公
- アンヌ・ジュリー・ド・ムラン(1698年 - 1724年) - 1714年スービーズ公ジュール=フランソワ=ルイ・ド・ロアンと結婚、スービーズ公シャルル・ド・ロアンの母
引用・脚注
[編集]- ^ Goldhammer, Arthur, tr., Saint-Simon and the court of Louis XIV [Translated memoirs of Saint-Simon], The University of Chicago Press, London, 2001, p.33
- ^ Acton, Harold (1980). The Last Medici. Macmillan. pp. 272–273
- ^ “Women in power”. guide2womenleaders.com. 2010年3月26日閲覧。
- ^ von Rosen, Laurent Tahon. “Ducs de France: les 32 quartiers des ducs français et de leurs épouses”. Googlebooks.org. 2010年4月7日閲覧。