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アンティオキア地震 (115年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標: 北緯36度06分 東経36度06分 / 北緯36.1度 東経36.1度 / 36.1; 36.1

アンティオキア地震 (115年)の位置(シリア内)
アンティオキア地震 (115年)
アンティオキア地震の震源地

115年のアンティオキア地震(115 Antioch earthquake)とは、ローマ帝国時代の西暦115年12月13日の早朝に、アンティオキア付近で発生したマグニチュード(M)7.5の大地震である[1][2]

被害

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この地震による被害は極めて壊滅的であり、死者数は260,000人に達し、世界でも史上稀に見る深刻な地震災害となった(115年の執政官であったマルクス・ペド・ウィルギリアヌス英語版もこの地震において死亡した[3])。揺れは数日間、昼夜を問わず断続的に続き、建物は次々に倒壊した。地震後に発生した津波の影響でも被害が顕著になった[4]。当時の皇帝であったトラヤヌスも地震で負傷し、余震が続く中円形闘技場に留まって避難したという[3]

アンティオキアは西暦526年にも大地震に襲われて甚大な被害を受けており、古代のうちに、世界的にも稀に見るような大震災に、本地震を含めて2回襲われている。

出典

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  1. ^ PDF資料 (1)
  2. ^ パリスの審判のモザイク”. 2017年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月19日閲覧。
  3. ^ a b カッシウス・ディオ, Roman History 68,24–25
  4. ^ PDF資料 (2)