Wikipedia:オフラインミーティング/ウィキペディア15周年イベントTokyo/さかおり備忘録的まとめ

Wikipedia:オフラインミーティング/ウィキペディア15周年イベントTokyoに参加しました。

執筆者・編集者としての観点から、主に地方病 (日本住血吸虫症)の執筆動機と、編集過程で感じた他利用者さんとの関わり合いについて話をさせていただきましたが、いかんせん大勢の方々の前で話をする経験に乏しく、上手く話が出来なかった部分が多々あり、この場をお借りし備忘録的にまとめたいと思います。

2016年2月10日現在、地方病 (日本住血吸虫症)の総編集回数は853版を重ねています。お時間があれば、地方病 (日本住血吸虫症)の記事をお読み頂いた後に、この備忘録をご覧くださればと思います。ひとつの記事の執筆編集の過程を通じて、執筆編集活動をされる方に、ほんの少しでも参考になることがあれば嬉しく思います。

地元記事を作りたい、けれど不慣れなことばかり[編集]

私がWikipediaの編集・執筆に参加したきっかけは、「地元の地理関連記事や神社仏閣、学校施設等の記事が無い」ので作りたいと言う、よくありがちなものでした。初心者の頃の自分の編集を改めて見てみると恥ずかしいものがあります。参加当初からWikipediaの編集方針等を理解していたわけでなく、編集を続けていく過程で、複数の他利用者さんから会話ページやノートページを通じアドバイスをいただき、徐々に慣れていったというのが正直なところです。

赤リンクを見て子供の頃を思い出す[編集]

編集を始めてしばらく経った頃、Portal:日本の都道府県/山梨県というものを見つけました。Wikipediaの編集活動は、黙々と孤独に行うものと思い込んでいた私は、同じジャンルで編集活動をされる方々が集うPortal の存在を知り、とても嬉しく思いました。そして、 Portal:山梨県を隅々まで眺めていると「執筆依頼」の赤リンクの中に、はるか昔に聞いたことがあるミヤイリガイという単語を見つけました。2009年11月27日 (金) 04:47 (UTC)の版この当時「ミヤイリガイ」は赤リンクでした。

ミヤイリガイという単語を見た時に、少しドキッとしました。そういえば子供の頃、聞いたことがあったな。確か小川や田んぼに住む巻貝で、そうそう地方病という病気の話だと思い出しました。

私は小学生の頃、学校の先生や周囲の大人が、某高校の生徒が地方病になったと大騒ぎしていたのを覚えています。この某高校生というのが最後の感染者であったことを、後日、この記事を執筆する過程で知りましたので、これは1978年(昭和53年)頃、私が小学4年生頃の事であろうと思います。その影響によるものか不明ですが、児童生徒への啓蒙活動の一環として県の関係機関の方が各校を訪れ、私の通っていた小学校でも全校児童が体育館に集まり、地方病についての話を聞いた記憶があるのですが、詳しい内容は覚えていません。

また、記憶が曖昧で前後関係がハッキリしないのですが同じ頃、学校の敷地内を流れる小さな水路で泥だらけになって友達と遊んでいると、年配の先生(男性教諭)から、地方病、地方病、水から出なさい!と物凄い剣幕で叱られ、小学生だった私は意味も分からず、とにかく地方病ミヤイリガイという単語だけが私の中に残りました。水路で泥遊びをするなど、今考えると恐ろしい話ですが、私が通っていたのは甲府市街に隣接した甲斐善光寺近くの小学校で、もともとミヤイリガイの生息は希薄なエリアでした。また、宅地とブドウ畑が混在する水田の存在しない地区ですし、しかも流行最末期の1970年代後半でしたから、周囲の人々も地方病についての知識や警戒心が、既にそれほど無かったのではないかと思います。実際、私を叱ったのはその年配の先生だけでした。いずれにしても叱られた後は、水路での泥遊びは止め、地方病、ミヤイリガイの単語は、やがて忘れてしまいました。

もちろん今になって考えれば、その後も地元のニュースや地元の新聞等で、地方病に関係する報道はあったはずなのですが、私自身は気付くことも特段意識することもありませんでした。ですから、Portal:山梨県でミヤイリガイの赤リンクを見た時、子供の頃の記憶が一気に甦り、この病気は一体何だったのだろうか?調べてみたいと思うようになりました。

執筆動機[編集]

2010年の春頃から資料や文献集めを始めました。主に山梨県立図書館の郷土史コーナー(当時は移転前の古い建物で、郷土史コーナーは最上階にあり何度も階段を上り下りしました)へ何度も足を運びました。ウェブ上でも検索をし、参考になりそうな文献のうち図書館で入手不能な何点かはAmazonで購入しました。

こうして複数の資料や文献を読み進めるうちに、この病気の歴史の輪郭がおぼろげながら見えてきました。正直、大きな衝撃を受けました。子供の頃なんとなく聞いたことがあった病気にこのような経緯があったのかと。自分の故郷にこのような歴史があったのかと。近年になって地方病の話が小学校の授業等で行われ始めていることは後に知りましたが、自分がこの病気について、何故これまで正確に知ることがなかったのかが不思議でした。折を見て地元の同級生数人に「地方病」の話をしましたが、私と同様に、病気の名前は聞いたことはあるが詳しく知っているという人は誰もいませんでした。

自分の故郷で起きた、この病気の歴史経緯を、ぜひ多くの人に知ってもらいたい。単純ですが、これがこの記事を書きたいと考えた動機です。

ただ、この病気の歴史をWikipediaの記事として書くのには、大きく分けて2つの問題があるのではないかと考えました。

  • 1つ目は、病気の原因解明や撲滅に至る過程が、非常に煩雑で関係人物も多岐にわたり、期間も100年以上に及ぶ長期間であること。これをどのようにまとめるのか。
  • 2つ目は、この病気に対する誤解や偏見といったものに対する懸念でした。一般的に寄生虫といえば忌み嫌われる対象でしょう。また、この寄生虫病の感染経路は経皮感染で、血管内部に寄生するタイプなのですが、寄生虫病と聞いただけで経口感染による消化器系の寄生虫を連想し、「不衛生」「衛生概念の欠如」と言ったものを無意識に連想してしまいます。それに加え特定地域のみに発症するというデリケートな問題を含んでいます。下手に書いてしまうと特定地域への偏見や差別を助長しかねない、という懸念がありました。

これらの懸念を踏まえ、誤解や偏見が生じないように何を書くべきなのか。どのような構成が良いのか。最初は非常に悩みましたが、悩んだ挙句、やはり病気の撲滅に至る経過を、できるだけ時系列に沿って書くのが、読んでくださる方にとって一番分かり易いでしょうし、やや複雑なこの病気のメカニズムを理解して頂けるのではないか。そして、書くのなら徹底的に拘って書きたい、中途半端なものを書くことは出来ない、そう考えました。もちろん、そのためには全体の構成に細心の注意を払い、時系列の整合性が取れていなければなりません。ひとまず2010年9月15日 (水) 06:22 (UTC)の版で最初の投稿を行いました。今この版を見てみると不確実な記述が見られますし時系列の整合性も弱く、セクション名や構成もあまり良くありません。それでも、とりあえず書いてみて、徐々に加筆して問題があれば内容を修正していこうと考えていました。Wikipediaの良いところは、常に上書きが出来ること。当たり前のことですがこれって実は凄いことだと思います。その後も、新たな文献や資料を入手し既存の出典と内容を比較し、内容の修正や加筆を何度も重ねていきました。履歴を見ると翌年2011年6月以降、一気に加筆量が増えていますが、これはこの頃になると、複数の文献や資料の大まかな内容が自分の頭の中で咀嚼され、記述内容や記事構成の全体像が固まってきたからです。もちろん、この間にも他利用者さんの編集もありますし、記事名についてノートで議論が平行して行われていました(改名についてはノート:地方病 (日本住血吸虫症)/過去ログ1参照。ここでは割愛します)。

文献資料収集と写真撮影、情報の取捨選択[編集]

前述したように使用した文献や資料については、図書館での文献や古新聞記事の閲覧、Amazonでの書籍購入、研究者によるウェブ上のサイトの閲覧が主体です(いずれも当該記事末尾に提示してあります)。

地方病予防溝渠プレート
日本住血吸虫発見の記念碑

記事中にある写真については、多くを自分の足を使って撮影しました。特に苦労したのはコンクリート水路に埋め込まれた「地方病予防溝渠」のプレートです。あれだけ長大なコンクリート水路があっても、このプレートが埋め込まれているのは、用水路毎に「1つ」ですし、プレート自体のサイズも小さなものなので探すのは大変です。また、せっかく見つけても汚れていたり文字が消えかかっていたり等、適切なものは中々見つけられませんでした。ようやく状態の良いプレートを見つけたときは本当に嬉しくて、水路の溝に身を乗り出して撮影しましたが、周囲の人からは不審者に思われたかも知れません。それができたのもWikipediaの匿名性が大きかったと思います。しかし、重要な被写体ではあるが、匿名で撮影してWikipediaへアップしてしまうのは不適切な被写体がありました。それは「杉浦医院」と「三神内科医院」関連の画像です。どちらも他人所有の敷地内や屋内に被写体があるケースです。ちょうどその頃、杉浦医院は「風土伝承館杉浦医院」としてプレオープンした頃でしたし、三神内科医院にいたっては現在も開業されている医院です。

意を決して「杉浦医院」と「三神内科医院」に赴き私の素性を明かし、写真撮影のお願いとWikipedia記事内で画像を使用したい旨をお話させていただき、ご快諾いただけました。杉浦医院(風土伝承館)は館長のN様がご丁寧に対応くださり、また貴重な『俺は地方病博士だ』の復刻版までご提供頂き、記事内で画像を使用することが出来ました。思わぬところで出典を見つけた一例でした。三神内科医院は院長(2011年当時)の三神柏様(三神三朗氏の御令孫)が、診察の合間に時間を作ってくださり直々にご案内してくださいました。私は、ただただ恐縮するばかりでしたが、おかげで「日本住血吸虫発見碑」を撮影することができました。また、祖父三神三朗氏にまつわる様々なエピソードを聞かせていただきましたが、その内容については記事中に書くわけにもいきません(WP:VERIFY)ので、私の中に留めておきます。

一方で WP:VERIFYに抵触しない情報であっても、出典があるからといって、確認できた内容全てを書くことは、いたずらに記事サイズを肥大化させ、何よりも可読性を損なうと考えました。また、内容があまりにも悲惨なもの(死亡した罹患者家族の手記、新聞記事の一部等)は話題に触れないようにしました。例えば、婚約中の若い女性が検診で地方病感染を知り、将来を悲観して自ら命を絶った新聞記事(昭和27年の山梨日日新聞記載)などです。

この記事の主題は「地方病撲滅の経緯」ですから、原因不明の奇病→住民の訴え→調査研究・メカニズム解明→対策の立案→住民・行政・医師らによる撲滅活動→終息。この一連の流れを軸にして、大筋から外れることのない重要と思われる出来事を中心に編集しました。

複数の編集者さんからの協力と助言[編集]

住血吸虫の生活環/氷鷺さん作成
ミヤイリガイ生息密度を表した甲府盆地の有病地地図/氷鷺さん作成

こうして加筆を徐々に進めていくと、記事内容について他利用者さんとの関わり合いが始まりました。まず、2011年7月30日 (土) 07:32 (UTC)Halowandさんが編集された差分です。「地方病とホタル」という新たなセクションを設けた加筆で、後に「地方病対策の負の側面」というセクション名になる部分です。 これまで地方病撲滅への経緯を軸に加筆してきた私には、思いつかない発想でした。しかし客観的に考えると、これは大きな意味でのWP:NPOVだとすぐに気づきました。

また、用語の使い方に不慣れな私をフォローして下さった例もあります。ノート2011年10月13日 (木) 09:07 (UTC)の版氷鷺さんがコメントくださった疑問点に、私は出典元の内容を引用してノート2011年10月13日 (木) 10:07 (UTC)の版のように返答したところ、Ksさんがこのように手直しして下さいました。本当に嬉しかったです。[返信]

氷鷺さんはまた、細かい文章の校正や見直しをしてくださり、ライフサイクルの他言語版ファイルからの翻訳作成[1]、有病地地図の作成[2]、更には記事中の図表の改良(差分)等、私の編集を尊重して下さりながら、記事の改善にご協力してくださいました。やがて秀逸な記事の選考が行われますが、ここでも氷鷺さんから条件付賛成票としてご提言、アドバイスを頂きました。それに応える形で加筆したのが(差分)、 記事を総括する意味を持つ「日本住血吸虫症撲滅の影響と評価」のセクションです。これにより記事の完成度が更に上がり充実したのではと感じました。また、ここで紹介させていただいたお3方以外にも、改名提案に携ってくださったぱたごんさんをはじめ、多くの方々の誠意と協力により、記事の質が高められていきました。

地域に根ざした利用者への期待[編集]

地方病 (日本住血吸虫症)、この記事の大半は私が書いたものですが、その陰では多くの方々の善意や協調によるご助言やご協力が多々あったと感謝しています。この記事を良いものにしたい、そう考えて加筆し続けていた私は、ご協力くださる度に感謝し感激していました。ウェブ上とは言え、そのような方々に出会い接することの出来た私は幸運だったと思っています。

基本的な方針や事項を守り、他利用者さんと互いに尊重し合い、そして真摯に執筆に取り組めば、時間がかかったとしても良い結果が生まれると思います。秀逸な記事に選ばれたことで、多くの方々にこの病気の歴史を知って頂けることとなり、「自分の故郷で起きた、この病気の歴史経緯を、ぜひ多くの人に知ってもらいたい。」という当初の執筆動機は叶えられたと思っています。そして先祖代々甲府盆地で闘ってきた多くの先人方の想いを、生粋の山梨県人の端くれとしてWikipediaに作成できた達成感のようなものを感じました。

最近、日本語版Wikipediaのオフライン活動として、プロジェクト:アウトリーチ/ウィキペディアタウンというものが日本各地で行われ始めています。私自身がそうであったように、地元の人間だからこその観点(勿論POVに配慮した上で)、地元の人間だからこそ入手可能な文献、地元の人間だからこそ撮影できる画像etc、日本各地の地域に根ざした編集者、地域から発信される記事が、まだまだたくさん存在すると思います。自分の住む地域の文物、歴史などを振り返ってみると、思わぬ発見があります。地方図書館に眠っている郷土資料や資料文献、そういったものを紐解いて、独自研究に陥らぬよう自制しつつ客観的にまとめる作業は、一見すると大変そうですが、やり始めると意外に面白いものです。この先、日本各地で各地域に根ざしたウィキペディアンが増えると、日本語版Wikipediaは質・量とも更に良い方向へ向かうのではないでしょうか。経験のある編集者・執筆者には今後、そういう新たな参加者、不慣れでも真摯な参加者を可能な限りバックアップ、フォローすることが期待されているのだと思います。