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ノート:今昔物語集

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要出典および独自研究について

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この記事には、出典が全く示されていません。

それにも関わらず、「編纂当時には存在したものが後に失われたのではなく、未編纂に終わり、当初から存在しなかったと考えられている」「後の説話文学の代表格といえる『宇治拾遺物語』など中世の説話文学に影響を与えた」といった明らかに何らかの学説を元にしていると考えられる表現や、「どの説も想像の範囲を超えず決定打に欠けている」「伝聞資料に基づき構成されたものがあったかもしれない」という、ともすれば筆者自身の意見を書いているかのような独自研究まがいの表現が頻出しています。

このままでは記事の大半の内容が削除対象となってしまいかねませんので、該当する記述に対して出典を知っておられる方がいらっしゃいましたら加筆をよろしくお願いいたします。--Make More Reliable会話2013年10月11日 (金) 12:32 (UTC)[返信]


許し難いほど、事実に反する記述があり、このままの形で、出典を書き足すことはできない。事実に反する記述が散見されるからに他ならない。 例えば「原話」の項目。出典については、各巻により違いがあり、挙げられている書物からの引用は、むしろ例外。各巻の傾向を個別に論じる必要がある。また伝聞云々については、その可能性が指摘されてはいるものの、なぜそう考えられているのか、その根拠を書き記す必要がある。 圧巻は、伝本の項目で、鈴鹿本を原本としてしている記述。理解しかねる。(鈴鹿本は現存する最古の伝本。)

細かいことを指摘するようだが、「原話」の項目で「話はすべて創作ではなく…」とあるけれど、出典の研究は進んでおり、「すべて創作ではなく」は誤りで、ほとんどが出典に忠実な引用で、編集者は本集に収録するにあたり、その形に当てはめるための「今者昔 云々」「…語りつたえたるとや」を挿入しただけで済ませている。「今昔」に散見される意識的な欠字も、出典にその記述がないことが多くの原因とされる。

この項目を投稿した人は、おそらく、こうした純粋に学問的な追求に耐えうる論理的な構成をとることを苦手としたのかもしれない。一般の人に理解可能なように、論述することは大変困難な仕事だ。時間と手間、資料から自分の言葉によって語れるほどに理解しなければならない、ということだ。

もう一歩、第21巻が欠巻になっている理由の追及もあったほうが、本集をより深く理解できたと思われる。残念。ただ、それを書くには、各巻の配列について説明しなければならない手間がある。

この項目は、いったん削除して、誰かに執筆を任せたほうがいいと思う。私自身、この項目には不審があり、手直しも考えたが、手直しするには元の文章を大幅に抹消する必要があり、よく言えば「手直し」、実態は「書き換え」になるので、躊躇している次第。「書き換え」は膨大な労力と時間を必要とする。

--GreatMilkyWay-RailRoad会話2014年5月10日 (土) 19:20 (UTC)[返信]